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1977年、静岡県警交通企画課長の時、福岡学芸大学久留米附属中学校で同級生のグラフィックデザイナー河北秀也と組み、当時人気絶頂だったピンクレディーを起用した交通安全キャンペーンを企画、展開。
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本省では道路局、河川局、都市局などに所属、電柱地中化やオートキャンプ場を政策として実現させた。
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また、福岡県庁時代は、福岡における日中親善事業として「日中友好の翼」を企画した。
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1988年、建設省を退官。
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1990年、第39回衆議院議員総選挙に立候補、初当選。
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中選挙区制であった当時、筑後地域全体を範囲とする福岡県第3区(衆議院選挙区一覧 (1947-1993)参照)には同じ古賀姓の議員古賀正浩、古賀誠がおり、「三古賀」と呼ばれた。
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自民党安倍派に所属。
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1993年、 第40回衆議院議員総選挙で2期目当選を果たすが、安倍晋太郎の逝去後は政眞会に所属していたため、選挙後、加藤六月らと自民党を離党。
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細川内閣と羽田内閣で経済企画庁政務次官に就任(細川内閣発足時は無所属であったが、無所属議員の政務次官就任は日本の政治史上初であった)。
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同党分党後、国民の声、民政党を経て、民主党に合流、現在に至る。
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2002年、「三古賀」のひとりであった正浩が死去したことで行われた、衆議院福岡県第6区の補欠選挙に、議員辞職して立候補(米沢隆が繰り上げ当選)。
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比例復活当選をした衆議院議員が議員辞職して衆議院選挙区補欠選挙に立候補をした初めての例になった。
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これは、もし他の民主党候補が補欠選挙に立候補をして当選をしたら、同じ福岡6区に二人の民主党議員が存在し、次回選挙で候補者調整が難航するためである。
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このときの選挙では自民党新人候補の荒巻隆三に負け落選したものの、翌年の第43回衆議院議員総選挙で荒巻らに勝利、国政復帰。
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2005年の第44回衆議院議員総選挙では、選挙区を東京18区より移した東大法学部の同級生鳩山邦夫に敗れ、比例九州ブロックで復活当選。
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2006年4月の民主党代表選で両院議員総会長代理として進行をつとめ、新代表小沢一郎の選出を発表。
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2008年、民主党両院議員総会長に就任。
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2009年の第45回衆議院議員総選挙では、再び東大法学部の同級生鳩山邦夫に対して、総務大臣在任中に『草彅剛に対する「最低の人間だ」発言』で低下した支持率の低下を『かんぽの宿一括譲渡問題』や『東京中央郵便局建て替え問題』を理由にした辞任騒動で取り戻した惜敗。
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比例九州ブロックで復活当選。