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つながりの強いひと
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川路聖謨
江戸時代末期(幕末)の旗本。日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男、母は日田代官所手付の高橋誠種の娘。号は敬斎。幼名は弥吉。弟に井上清直、母方の従弟... |
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箕作阮甫
日本の武士・津山藩士、蘭学者である。名は貞一、虔儒。字は痒西、号は紫川、逢谷。 |
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佐久間象山
日本の武士(松代藩士)、兵学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい... |
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阿部正弘
江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主。江戸幕府老中首座。幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部家宗家11代。 |
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河井継之助
河井継之助(かわいつぐのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日)-慶応4年8月16日(1868年10月1日))は幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣であ... |
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古賀精里
祖父
江戸時代後期の儒学者。名は樸、字は淳風、通称は弥助。子に穀堂・侗庵、孫に謹一郎(茶渓)が居る。佐賀藩士の子として生まれ、京都に遊学して横井小車に朱... |
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斎藤拙堂
幕末の朱子学者。諱は正謙。字は有終。通称は徳蔵。津藩士の子として江戸藩邸内にて生まれ、昌平黌で古賀精里の教えを受ける。古文に通じた人物として24歳で... |
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吉田松陰
日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家、である。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。 |
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劉邦
前漢の初代皇帝(在位:前202年2月28日-前195年6月1日)。沛県の亭長<REF>亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと</REF>であったが、反秦連合に参加... |
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栗本鋤雲
幕末期の幕臣。幕府の外国奉行、勘定奉行。名は鯤。初名は哲三。瑞見。通称は瀬兵衛。 |
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山田方谷
幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。 |
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蒼龍
日本海軍の航空母艦。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。戦闘詳報には、「蒼竜」の漢字表記も併用されている。 |
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大野右仲
幕末期の唐津藩士で、新選組隊士。頭取。後、陸軍奉行添役。 |
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井伊直弼
幕末の大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の... |
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筒井政憲
江戸時代末期(幕末)の旗本、行政官。目付、長崎奉行、南町奉行、大目付を歴任。通称は右馬助、佐次右衛門。官位は伊賀守、和泉守、紀伊守、肥前守。旗本久... |
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牧野忠雅
江戸時代の大名、老中。越後長岡藩の第10代藩主。長岡藩系牧野家宗家11代。9代藩主・牧野忠精の四男。老中となり海防掛担当。 |
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王陽明
中国の明代の儒学者、思想家。朱子学を批判的に継承し、読書のみによって理に到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理をも... |
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ヘルマン・コルベ
アドルフ・ヴィルヘルム・ヘルマン・コルベ(AdolphWilhelmHermannKolbe,1818年9月27日–1884年11月25日)はドイツの化学者である。ハノーファーの近く... |
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西周
西周(にしあまね、文政12年2月3日(1829年3月7日)-1897年(明治30年)1月31日))は江戸時代後期の幕臣、明治初期の官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員... |
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アドルフ・ヴュルツ
シャルル・アドルフ・ヴュルツ(CharlesAdolpheWurtz,1817年11月26日–1884年5月10日)はフランスの化学者である。ヴルツ、ウルツとも表記される。スト... |
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プロフィール
- 古賀謹一郎とは
- 洋学指向の儒者
- 蕃書調所の設立
- 不遇の晩年
- 参考文献
- 関連項目
古賀謹一郎(こがきんいちろう、文化13年11月11日(1816年12月29日)-明治17年(1884年)10月31日)は、日本の江戸時代末期から明治時代にかけての儒学者・官僚。本姓は劉(漢の高祖 劉邦の末裔という)。諱は増(まさる)。官途は筑後守。字は如川。号は謹堂、茶渓など、また沙蟲老人とも称した。祖父は 寛政の三博士として有名な儒者 古賀精里。幕末安政の改革を主導した老中 阿部正弘のブレーンとして知られる。
洋学指向の儒者
| 文化13年(1816年)11月、江戸昌平黌官舎にて、父・儒者古賀侗庵と母・鈴木松との間に生まれ、謹一郎と名付けられる。 |
| 儒者の家系に生まれたことから、幼い頃から漢籍・経典に精通する。 |
| 天保7年(1836年)大番役、同12年(1841年)書院番として幕府に勤務。 |
| 家塾久敬舎を父より引き継ぐ。 |
| 弘化3年(1846年)31歳で昌平黌の儒者見習となる。 |
| 翌年、儒者となり15人扶持。 |
| 儒学者でありながら、洋学の必要性をいち早く感じ、漢訳蘭書による独学にて、西洋の事情を習得する。 |
| この頃、米国への漂流者から欧米の事情を取材した『蕃談』を著す(書写本にて流布)。 |
| この時期の昌平坂学問所の教官としての同僚に佐藤一斎、林復斎、安積艮斎らがおり、また昌平黌および家塾久敬舎で教えた儒学上の門人として阪谷朗廬、重野安繹、原伍軒(市之進)、大野右仲、秋月悌次郎、河井継之助、白洲退蔵、平田東助らがいる。 |
| 嘉永6年(1853年)、ロシアから派遣されたプチャーチン艦隊の来航に際し、応接掛となり、目付筒井政憲、川路聖謨に随行して長崎でロシア使節との交渉を行う。 |
| 翌年ロシア艦再来日の際も、伊豆下田での交渉を行い、日露和親条約の締結に至った。 |
| 従前からの洋学指向に加え、ロシアとの交渉でさらに西洋事情に通じ、日本の学問状況に危機感を抱いた謹一郎は、この頃たびたび老中阿部正弘に対して建白書を提出し、洋学所設立や外国領事館設置、沿海測量許可などの開明策を求めた。 |
| これにより、阿部の目にとまることとなる。 |
蕃書調所の設立
| 老中の阿部も西洋の学問受容の必要性を痛感していたため、安政2年(1855年)8月30日謹一郎は阿部より直々に洋学所頭取(校長)に任命された。 |
| 蘭書翻訳・教育機関の構想を練り、勝麟太郎らとともに草案を作成し、同年9月蕃書調所(ばんしょしらべしょ)設立案を提出した。 |
| この提案が元となり、安政4年(1857年)正月、蕃書調所が正式に開設されることとなった。 |
| 謹一郎は日本初の洋学研究教育機関として発足した蕃書調所頭取(校長)として、国内の著名な学者を招聘する。 |
| すでに蘭学者として高名だった箕作阮甫を教授として招いたのを始め、教授見習として三田藩の川本幸民、周防出身の手塚律蔵・村田蔵六のちの大村益次郎。 |
| 当時は宇和島藩に出仕)、薩摩藩の松木弘庵(のちの寺島宗則)、西周助(のちの西周)、津田真一郎(のちの津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(のちの中村敬宇)、加藤弘之ら、幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用した。 |
| 蕃書調所は当初、蘭書の翻訳を目的としたが、英語の隆盛を鑑み、英語・フランス語・ドイツ語の教授も行わせた。 |
| 特に入獄中であった堀達之助の才能を惜しみ、謹一郎が便宜を図って出獄させ、日本最初の英和辞典『英和対訳袖珍辞書』を作らせている。 |
不遇の晩年
| 文久2年(1862年)5月、御留守居番就任に伴い、蕃書調所(この年「洋書調所」と改称し、さらに「開成所」となる)の頭取は解任された(原因は不明)。 |
| 以後4年間は失職し、不遇の内に過ごす。 |
| 慶応2年(1866年)製鉄所奉行として復職。 |
| 翌年には目付となり、筑後守に補任される。 |
| 江華島を巡るフランスと李氏朝鮮の紛争の仲介任務を託されるが、幕末の混迷により未遂に終わった。 |
| 同年緒方洪庵の墓碑銘を記す。 |
| 慶応3年(1867年)10月の大政奉還の直後には、滝川具挙などと共に上京の命を受けた。 |
| 明治維新後は、新設した大学校(昌平黌、蕃書調所の後身)の教授として新政府から招聘されたが、幕臣としての節を守り、幕府を滅ぼした薩長主体の政府に仕えることを潔しとせず、徳川家の駿府転封に伴い、静岡へ移住した。 |
| このころ、中村敬宇(正直)と漢詩の応酬を行うなど親交を深め、明治初期のベストセラーとなった中村の『西国立志編』(サミュエル・スマイルズのSelf-Helpの訳書)に序文を寄せている。 |
| またこの頃リンネの植物学書などの洋書をまとめた『蕈説』(キノコに関する言説をまとめた書)などを著している。 |
| 明治6年(1873年)、東京に戻る。 |
| 明治17年(1884年)10月末、胃管狭窄により、67歳で死去。 |
参考文献
| 小野寺龍太『古賀謹一郎 ―万民の為、有益の芸事御開』ミネルヴァ書房、2006年 ISBN4623046486。 |
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1816年
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江戸昌平黌官舎にて、父・儒者古賀&20375;庵... |
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1853年
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ロシアから派遣されたプチャーチン艦隊の来航... |
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