| 1956年から1960年にかけて、花田清輝とのあいだで激しい論争が展開された。 |
| 文学者の戦争責任論に端を発し、政治と芸術運動をめぐってなされたその応酬は、最後には吉本の勝利を強く印象づけるような、花田の撤退とともに終結した。 |
| 磯田光一は『吉本隆明論』(1971.審美社刊)で「私自身にとって、この論争が戦後文学史上もっとも重要な論争のひとつであったという確信は少しも揺るがない。 |
| そこでは「責任」「転向」「政治」「思想」というような最も根本的な概念が、2つの個性の激突を通じて、いやおうなしに問い直される光景」と論じているこの論争に関しては、好村冨士彦『真昼の決闘―花田清輝・吉本隆明論争』晶文社(1986)が詳しい。 |
| 当時の雰囲気を伝えている。 |
| またこの磯田光一は「吉本隆明年譜」(『埴谷雄高・吉本隆明の世界』朝日出版社:1996年所収)』よりの重引(用)。 |
| またこれら年譜的事実自体も川上氏作成年譜などを参考にした。 |
| 1960年1月、「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。 |
| また同誌4月号では共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保を、先鋭に牽引した全学連主流派全学連主流派を掌握していたのが安保ブント=共産主義者同盟・世界初の共産党からの独立左翼と言われる。 |
| 『中央公論』1960年4月号に島成郎(後に精神科医として主に沖縄で地域医療に貢献)、葉山岳夫(後の弁護士)というブント幹部との座談会を行っている。 |
| 「トロツキストと云われても」 吉本は、同伴知識人第二号と言われた。 |
| ちなみに第一号は社会学者の清水幾太郎。 |
| に積極的に同伴することで通過した。 |
| 吉本は、6月行動委員会を組織、6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加、また、無数の人々が参加した安保反対のデモのなか、6月15日国会構内抗議集会で演説。 |
| 鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕されたこの時様子を吉本は、「警官隊の棍棒に追われ、追付かれたものは力いっぱい殴打されている、塀をのりこえるほかに生命を全うして逃げる道がなかった」と述べている。 |
| 不作為にのりこえた塀の中は警視庁内であり、30数人の学生と共にそこで逮捕された。 |
| 『重層的な非決定へ』p.132~133「六・一五事件と私」ISBN4-479-72022-7。 |
| 逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞する。 |
| 60年安保直後に、その総括をめぐって全学連主流派が混乱状態に陥った全学連主流派を牽引した60年安保ブント(安保終結後解体)に関しては当時、一員であった西部邁の『60年安保センチメンタルジャーニー』(1986.再発2007洋泉社)が当時の雰囲気を伝えている。 |
| 島成郎についても、一章を割いて論じている。 |
| 以降は、「自立の思想」を標榜して雑誌「試行」を創刊(61年9月)。 |
| この『試行』において吉本は、既成のメディア・ジャーナリズムによらず、ライフワークと目される『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載した。 |
| 「試行」創刊号の吉本筆の編集後記では「試行はここに、いかなる既成の秩序、文化運動からも自立したところで創刊される。 |
| (中略)同人はもちろん、寄稿者も、自己にとってもっとも本質的な、もっとも力をこめた作品を続けるという作業をつづけながら、叙々に結晶するという方策のほかに出発点をもとめないしもとめることにあまり意味を認めない。 |
| 」とその理念が述べられている61年6月には、「退廃の誘い」と言う論考において、「自立組織が各種各様にある求心的な運動をつづけ、脈絡をつけては、核のほうこうへ繰り込み、また脈絡をルーズにして各種各様の自立的な運動を続けながら徐々に結晶していく」という組織論=運動論が述べられている。 |
| 発行部数500部、60年安保時のブント書記長であった島成郎島とは、吉本が、ブント=全学連に同伴して60年安保を通過したということを超えて密接であり続けた。 |
| 60年9月、安保ブントが解体状況を露呈し、島がブント内で孤立して沈黙を守っているときの島の「ノート」(日記)(『ブント書記長島成郎を読む』所収)には吉本宅を訪ねた後の感想として「彼の考えは俺とすこぶる共通している」とある。 |
| また60年から61年にかけての島の「ノート」によれば、「いかにして革命的復活をなしとげるか」として、その成果の一番目に「吉本隆明らの雑誌の発行の目安が付いた」(61年6月25日付け)ことが挙げられている。 |
| また2000年10月島成郎の死の際には、吉本は「『将たる器』の人」」(「沖縄タイムス」2000年10月22日朝刊、のちに『ブント書記長島成朗を読む』等に転載)という心情あふれる追悼文を書いている。 |
| 吉本はそこで、「知っている範囲で、谷川雁さんと武井昭夫さんとともに島成郎さんは『将たる器』をもった優れたオルガナイザーだと思ってきた」と述べている。 |
| 始まった『試行』は、最初谷川雁、村上一郎、吉本隆明三同人により編集武井昭夫の回想によれば、当初、吉本から「『試行』発行を吉本・谷川雁・武井昭夫の3人でやらないか」という相談があったという。 |
| 武井によれば断った理由は「吉本-花田論争の成り行きをみてきて、吉本さんへの友情はそれとして、かれの考えとはやがて衝突は避けられないだろうという思いから、辞退した」という。 |
| 武井昭夫対話集『私の戦後ー運動から未来を見る』、11号以降吉本の単独編集で1997年12月19日付発行の74号終刊まで、紆余曲折を伴いつつ、36年間継続された。 |
| 70年後半のピーク時には8000部を超えるまで部数を伸張させた『試行』創刊の経緯・発行部数に関しての検証は、『吉本隆明の時代』すが秀実(作品社、2008)に寄る。 |
| 吉本が主張した「自立の思想」 ―何より国家からの自立を意味する、したがって国家論である「共同幻想論」が構想される― は、「パン」の問題を隠蔽して、あたかも革命的・進歩的であるかのように振舞ういわゆる「知識人」はいかがわしい、と変奏され、その後吉本において一貫して主張されることになる。 |
| そこにおいては、いわゆる「知識人」のいかがわしさを端的に代表しているのが、丸山真男に象徴される大学教員に他ならない、とされ、丸山真男からの「ルサンチマン」との応答を含む激しい論戦が展開された。 |
| 吉本自身は1956年に東洋インキ製造株式会社を退職後、大学時代の恩師・遠山啓の紹介で長井・江崎特許事務所に隔日勤務し、1970年に文筆業で完全に生計を立てることを決心するまでこれを続けた。 |
| 同年には大江健三郎と江藤淳による「完全責任編集」と銘打った当時の新鋭を各巻に配したアンソロジー「われらの文学」この表題は、大江健三郎『われらの時代』からとられている。 |
| 吉本のいわゆる「理論的」書物、『言語にとって美とはなにか』(1965)『共同幻想論』(1968)『心的幻想論序説』(1971)『マス・イメージ論』(1984)といった主著への批判は刊行直後から、そして現在ではさまざまな側面から出揃い著名なものに、1987年に出版された田川建三『思想の危険について-吉本隆明がたどった軌跡』(インパクト出版)がある。 |