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つながりの強いひと
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吉永護
息子
吉永護(よしながまもる、1973年11月16日-)は日本中央競馬会(JRA)所属の調教助手、元騎手。身長168cm、血液型はA型。 |
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モンテプリンス
日本の競走馬。蹄の形などの問題で道悪馬場を大の苦手としたことから「太陽の王子」との異名を持つ。全弟にモンテファスト(天皇賞(春))がいる。1982年「... |
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吉永みち子
結婚
埼玉県川口市出身のノンフィクション作家。元競馬新聞記者。旧姓は鈴木。 |
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寺山修司
日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。「言葉の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、... |
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岡部幸雄
日本中央競馬会(JRA)の元騎手。群馬県新田郡強戸村(現・太田市)出身、血液型はA型。20世紀後半から21世紀初頭にかけて中央競馬のトップジョッキーとして... |
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松山吉三郎
元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。JRA調教師顕彰者。1929年、東京都目黒区油面尋常小学校卒... |
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郷原洋行
友達
力強い騎乗振りから「剛腕」との異名を取った。1979年度中央競馬全国リーディングジョッキー。元JRA騎手の郷原洋司は実子。 |
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シービークイン
日本の競走馬。逃げ馬として名を馳せ、重賞競走を3勝。その引退後は繁殖牝馬となり、同期馬トウショウボーイとの間に史上3頭目のクラシック三冠馬・ミスター... |
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松山康久
松山康久(まつやまやすひさ、1943年9月4日-)は日本中央競馬会(JRA)の調教師である。三冠馬ミスターシービーをはじめ、ウィナーズサークル、ジェニュインな... |
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横山典弘
横山典弘(よこやまのりひろ、1968年2月23日-)は日本中央競馬会(JRA)の騎手である。美浦トレーニングセンター所属で現在はフリー。 |
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大宅壮一
日本のジャーナリストであり、ノンフィクション作家。毒舌の社会評論家として有名である。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの... |
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小島太
日本中央競馬会(JRA)の騎手、調教師。美浦トレーニングセンター所属。騎手時代は「サクラ」を冠名とする全演植(ジョン・ヨンシュク)所有馬の主戦騎手を務... |
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吉永良人
弟
吉永 良人 生年月日 1948年9月4日 初免許年 1970年 所属 栗東 所属厩舎 フリー 平地初騎乗 1970年3月1日 3回京都4日目6R シュウチョウ (1着/16頭) ... |
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横山富雄
相方
横山富雄(よこやまとみお、1940年2月25日-2009年9月18日)は日本中央競馬会(JRA)の元騎手、元調教助手である。 |
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加藤和宏
日本中央競馬会(JRA)美浦トレーニングセンターに所属する調教師で、元騎手である。JRA所属の騎手加藤士津八は息子。高崎競馬場に所属していた騎手で現在は... |
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小野次郎
プロフィール 名前 小野次郎 ふりがな おのじろう 選挙区 比例代表(2010当選) 党役職 政策調査副会長、参院国対委員長代理、参議院比例風林火山支部... |
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中野渡清一
中野渡清一(なかのわたりせいいち、1941年(昭和16年)4月6日-)は元日本中央競馬会騎手・調教師。青森県出身。騎手時代は「スーパーカー」と称された名馬・... |
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モンテファスト
日本の競走馬。父シーホークと母モンテオーカンの間に生まれた鹿毛の牡のサラブレッドである。全兄(父も母も同じ)にモンテプリンス(天皇賞(春)、宝塚記... |
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後藤浩輝
日本中央競馬会(JRA)美浦トレーニングセンター所属の騎手。またテレビでの芸能活動のためオスカープロモーションにも所属。現在の妻はタレントの湯原麻利絵。 |
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中山大
HOME > 裁判官検索 > 中山大行 裁判官検索 裁判官一覧 平成14年7月1日以降の全国の裁判官の異動履歴を表示していま... |
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プロフィール
- 吉永正人とは
- 略歴
- 下積み時代 - 個性派騎手へ
- モンテプリンス・ミスターシービー
- 引退
- 調教師時代
- 騎手としての特徴
- 寺山修司と吉永
- 交友
- 家族・家系
- 主な騎乗馬
- 主な管理馬
- 参考文献
吉永正人(よしながまさと、1941年10月18日-2006年9月11日)は、日本中央競馬会(JRA)に所属した騎手、調教師である。騎手時代に中央競馬史上3頭目の三冠馬ミスターシービーや、1982年の天皇賞(春)優勝馬 モンテプリンスなどの主戦騎手を務めた。「吉永スペシャル」と呼ばれた追い込み戦法や、逃げ戦法など極端な作戦を取る個性派の騎手としてファンに知られた。作家の 吉永みち子は2番目の妻。実弟の 吉永良人は元騎手、調教助手。長男の 吉永護も元騎手である。
略歴
| 1941年、鹿児島県肝属郡串良町(現・鹿屋市)で馬生産を営む吉永牧場に次男として生まれる。 |
| 同場は吉永の曾祖父で、薩摩藩の馬術指南役を務めていた吉永新九郎が1890年代後半に興した一帯で最古の馬生産牧場である井口(1986)p.82。 |
| 長兄の清人は家業を継ぐため高校へ進んだが、正人は父親より騎手を目指すよう「命令」され、中学校在学中から減量をしながら過ごした。 |
| 幼少期から家業を手伝っていたが、初めて競馬を見たのは中学2年または3年生の時であったという井口(1986)pp.96-97。 |
| 中学校卒業前に日本中央競馬会の騎手養成長期課程を受験するも、落第。 |
| これを受け、父の伝を通じて東京競馬場に所属する松山吉三郎厩舎に入門し、内弟子として仕事をこなしながら、短期講習生として改めて騎手を目指した井口(1986)pp.98-99。 |
| 松山にとっては最初の門下生であった当時松山厩舎には飯塚好次が所属していたが、その師匠は大久保房松であり、松山厩舎には出向の形で在籍していた(『調教師の本4』p.178)。 |
下積み時代 - 個性派騎手へ
| 1961年3月に騎手免許を取得し、松山厩舎所属騎手としてデビュー。 |
| 同年にデビューした騎手には横山富雄、中野渡清一などがいる。 |
| 同11日に初騎乗に臨み、ダイサンイツで3着。 |
| 初勝利は4月1日、ホールインワンというアラブ馬で、逃げ切りでの勝利であった井口(1986)p.107。 |
| 1964年にフラミンゴできさらぎ賞を制し、重賞初勝利を挙げた。 |
| しかし当時の松山厩舎は保田隆芳、野平祐二といった大騎手へ多くの騎乗依頼を行っていたため、吉永の騎乗数は伸びず、成績的には目立たなかった井口(1986)p.111。 |
| しかし1969年、調教助手の不在で三井末太郎厩舎からライトワールドの調教騎乗を依頼され、これを縁に主戦騎手も任された吉永は、同馬と共に重賞3勝を挙げた。 |
| また、同年9月には負傷した古山良司に代わり、やはり三井厩舎に所属した「怪物」タケシバオーの手綱も任され、英国フェア記念に勝利した。 |
| 翌1970年には従来の年間騎乗数の倍近い、133鞍に騎乗して25勝、1971年には40勝を挙げて全国8位(関東6位)に付け、騎手生活唯一のベスト10入りを経験した。 |
| 保田、野平が引退した1970年代からは松山厩舎の主戦騎手として、「追い込みゼンマツ」と言われたゼンマツ、逃げ馬として名を馳せた牝馬シービークイン、「白い稲妻」シービークロスといった数々の個性馬の手綱を取った。 |
| この頃から寺山修司の競馬エッセイシリーズでたびたび取り上げられるようになり、逃げまたは追い込みに特化した騎乗ぶりから個性派の騎手として認知された。 |
モンテプリンス・ミスターシービー
| こうした活躍の一方で八大競走制覇には恵まれず、シービークロスで1979年の天皇賞(春)に敗れた頃から、「八大競走を勝てない騎手」と言われ始めた井口(1986)p.186。 |
| また同年にデビューしたモンテプリンスは、翌1980年の東京優駿(日本ダービー)と菊花賞、1981年の天皇賞(秋)でそれぞれ2着と惜敗して「無冠の帝王」と呼ばれると共に、勝てない原因を吉永の腕に帰する論調も出始めていた井口(1986)p.211。 |
| しかし翌1982年、同馬で天皇賞(春)に優勝し、吉永はデビュー22年目・八大競走通算54戦目での初制覇を果たした。 |
| 競走後、師匠の松山は検量室で「正人、良かったなあ」と繰り返し声を掛けながら、感涙していたという『忘れられない名馬100』p.229。 |
| ミスターシービーに騎乗する吉永(1983年11月13日、菊花賞)|thumb|200px。 |
| さらに1983年、松山吉三郎の息子・康久が管理馬するシービークインの産駒・ミスターシービーに騎乗し、常識外れと言われた追い込み戦法でクラシックの皐月賞、東京優駿、菊花賞を連覇し、中央競馬史上3頭目の三冠馬へと導いた。 |
| 同馬とのコンビでは翌1984年の天皇賞(秋)もレコードタイムで制し、五冠を制したシンザンに次ぐ四冠馬となった。 |
| しかしその後、一歳下の三冠馬シンボリルドルフとの一連の対戦で全敗し、追い込み一辺倒の吉永の騎乗が再び批判に晒された。 |
| 一方で中島啓之、小島太といった騎手は、ひとつ間違えれば暴走してしまう性格のシービーを御しての先行策は不可能であるとし、中島は「吉永でなければシービーは三冠馬になれなかった」と擁護した井口(1986)pp.240-247。 |
| なお、1984年春には、モンテプリンスの弟・モンテファストで天皇賞(春)も制覇している。 |
引退
| 1986年3月6日、松山を伴って記者会見を開いた吉永は、突如として騎手引退を発表。 |
| 理由は減量苦から来る体力の限界であった井口(1986)p.15。 |
| この引退については、同年クラシックでコンビを組もうとしていたダイナガリバーから降板させられたことが切っ掛けになったという見方も存在する。 |
| これについては「馬主の意向だった」という報道があった一方、同馬の一口馬主クラブを統括する吉田善哉は「私の方から一切そのような指示、依頼をしたことはありません。 |
| すべて松山先生の判断でおやりになったことです」と語っており井口(1986)pp.253、降板理由の真相は不明である。 |
| 吉永自身はこうした憶測については言及していない。 |
| 会見の3日後、3月9日の開催をもって騎乗を終え、最終レース終了後には通算1000勝未満の騎手として初めて井口(1986)p.23引退式が行われた。 |
| 式の最後には親しかった菅原泰夫の提案により、同僚騎手による胴上げで送られた。 |
| 引退式で胴上げが起こったのはこれが初めての例であり、以後他騎手の引退の際にも慣例化した。 |
調教師時代
| 松山厩舎で調教助手として3年過ごした後、1989年に調教師免許を取得し、同年美浦トレーニングセンターに自身の厩舎を開業した。 |
| 1993年から1995年までは20勝前後の勝利を挙げていたが、全体的には中位から下位といった成績が続いた。 |
| 1998年に管理馬ビクトリーアップが中山大障害(秋)に優勝したのが唯一の重賞勝利となった。 |
| 2006年9月11日、胃癌のため64歳で死去。 |
| 65歳まで調教師を勤め上げれば家族が年金を受け取ることができ、本人もそれを励みに闘病生活を送っていた中での死であった。 |
| 調教師としての通算成績は3586戦199勝。 |
騎手としての特徴
| 吉永の騎乗の特徴として、馬群から離れた最後方追走からの追い込みや、逃げ戦法が目立ったことが挙げられる。 |
| 特に追い込みに関しては「吉永スペシャル」や、コニャックの等級をもじって揶揄的に「VSOP(=ベリー・スペシャル・ワン・パターン)井口(1986)p.160」とも呼ばれた。 |
| しかし吉永自身は、数例の追い込み勝ちが「書く側にいる人の印象に止まっただけのことで、僕が勝った全レースの中でいうなら、一割にも満たない」と語っている木村(1997)p.275。 |
| ただし、極端な作戦を好む性向は認めており、その理由として「僕は人に迷惑をかけるのがいやなんですよ。 |
| 馬混みに入ると、アクシデントが起きやすいからね。 |
| だから、逃げか追い込みが好きなんです」とも語った井口(1986)p.157。 |
| また、キャリアを通じて減量に苦しみ続けた騎手としても知られる。 |
| 引退時は公称で身長163cm・体重55kgと、特に体重面では騎手としては非常に重い部類だった。 |
| 初騎乗時には、48kgの斤量に対して10日間をかけて減量し、なお1.5kgの斤量超過となって戒告を受けており、総じて斤量が軽くなる若い牝馬への騎乗は、キャリアを通じて少なかった井口(1986)pp.103,105-106。 |
| 「雨の日に、帽子のひさしから落ちてくる雨水が本当にうまい」という吉永の言葉は、騎手の減量苦を象徴する言葉として書籍などで引用されている。 |
寺山修司と吉永
| 吉永の言う「書く側」であった寺山修司は、吉永に対して殊のほか愛情を注いだ。 |
| 『優駿』に連載した騎手伝記の中ではコウジョウによる追い込み勝ちを取り上げ、「私の考えだけを言えば、吉永正人は当代随一の名騎手である。 |
| そのレースぶりには必ずドラマがある。 |
| 松山調教師の個性的な馬づくりと合わせて、このコンビは武田-福永、高松-柴田と並ぶ屈指のものであり、しかも他の二者にはない競馬の翳をもっている」とし、「馬主各位。 |
| もっと吉永に乗るチャンスを与えてやって下さい」と公に訴えた『菊花賞十番勝負』pp.282-283。 |
| 寺山は1983年、ミスターシービーが日本ダービーに優勝する直前に死去し、吉永がダービージョッキーとなる瞬間や、三冠達成を見ることはなかった。 |
| 競馬評論家の井崎脩五郎は、菊花賞に寄せた観戦記で「あのダービーの強さを寺山さんに見せてあげたかった。 |
| ミスターシービーがシンガリからまくりきって勝ったあのダービーを見て、吉永を応援し続けた寺山さんは、なんと語っただろう『菊花賞十番勝負』p.265」と綴り、その死を惜しんだ。 |
交友
| 中島啓之、横山富雄、大崎昭一、菅原泰夫、田村正光と共に、飲み仲間のサークルである「仲よし会」を結成していたことで知られる。 |
| 会の活動を通じて、その様子をしばしば文章化して発表していた西野広祥(中国文学者、競馬ライターとしても活動)など、競馬サークル外部の人物とも親交を結んだ。 |
| 西野は後に吉永みち子との交際・結婚に至るまでの過程で、強硬に反対していたみち子の母を説得に当たるなど、私生活にも深く関わった井口(1986)p.167。 |
| また、1年後輩で同郷の郷原洋行、梅内忍や、1969年に調教中の事故で死亡した小泉明東とも親しかった。 |
| 一般に寡黙な人物として知られたが、「なかよし会」では率先して座を盛り上げていたという井口(1986)pp.130-131。 |
| やはり親しかった後輩騎手の嶋田功は、その人物を評して「吉永さんのことを無口、無口っていうけど、あれはマスコミがつくったイメージじゃないかな。 |
家族・家系
| 最初の妻(1974年に死別)との間に一男(護)二女、後妻のみち子との間に一男と、計二男二女の子があった。 |
| 前述の通り、曾祖父・新九郎は薩摩藩の馬術指南役を務め、また、祖父・栄蔵は九州で最初の開業獣医師とされる木村(1997)p.272。 |
| 家系は平家の臣であった藤原金益という公卿に遡ると伝えられるが、系図は西南戦争の際に焼失したという井口(1986)p.83。 |
主な騎乗馬
| ※括弧内は吉永騎乗時の優勝重賞競走、太字は八大競走。 |
| マルフブキ(1967年新潟記念)。 |
| タニカゼ(1967年カブトヤマ記念)。 |
| ライトワールド(1969年日本経済賞、京王杯スプリングハンデキャップ、オールカマー)。 |
| タケシバオー(英国フェア記念)。 |
| タマアラシ(1970年東京4歳ステークス)。 |
| コウジョウ(1971年金杯・東)。 |
| ヒダプレジデント(1971年中山記念)。 |
| ゼンマツ(1972年アルゼンチンジョッキークラブカップ)。 |
| シービークイン(1976年4歳牝馬特別・東1977年毎日王冠1978年京王杯スプリングハンデキャップ)。 |
| ギャラントダンサー(1977年朝日杯3歳ステークス)。 |
| シービークロス(1979年毎日王冠、目黒記念(秋))。 |
| シャダイダンサー(1980年阪神4歳牝馬特別)。 |
| モンテプリンス(1982年天皇賞・春など重賞5勝)。 |
| アスワン(1982年京成杯、NHK杯)。 |
| ミスターシービー(1983年皐月賞、東京優駿、菊花賞1984年天皇賞・秋など重賞6勝)。 |
| モンテファスト(1984年天皇賞・春など重賞2勝)。 |
| ロバリアアモン(1984年フェブラリーハンデキャップ)。 |
| アンドレアモン(1984年ウインターステークス)。 |
参考文献
| 中央競馬ピーアール・センター編『調教師の本4』(日本中央競馬会、1994年)。 |
| 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN978-4896912920。 |
| 寺山修司、志摩直人ほか『「優駿」観戦記で甦る菊花賞十番勝負』(小学館、1998年)ISBN978-4094024821。 |
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鹿児島県肝属郡串良町(現・鹿屋市)で馬生産... |
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騎手免許を取得し、松山厩舎所属騎手としてデ... |
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吉永正人さんについてのひとこと紹介
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