| 広島商科大学に入学しカントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。 |
| また中学の同級生と新たに「ザ・バチュラーズ」を結成、ドラムスを担当した。 |
| 同年秋に初コンサート、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。 |
| メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームもまだの時代で相手にされなかった |
| 吉田拓郎も広島で『ザ・ヒットパレード』を見て、おれも音楽をやりたいと東京へ出てきて、最初に渡辺プロを訪ねたんだそうですよ」と話している(TV博物誌、1997年、荒俣宏、小学館、p189)。 |
| カレッジフォークブームを受け、バンド活動と平行してソロでフォークスタイルの活動を始めた。 |
| ソロでコロムビア主催のフォークコンテストに出場。 |
| 中国大会で課題曲だった「花はどこへ行った」をブルースアレンジで演奏し、2位に終わったものの中村とうようこのコンテストに拓郎が出場した理由の一つは中村が審査員だったため。 |
| ボブ・ディランのアルバムの解説はたいてい中村が書いていてボブ・ディランのレコードもコロムビアから出ていた(いつも見ていた広島、p149)。 |
| から特別賞が与えられ決勝大会に進出した。 |
| ここで自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を、針金を曲げて作った手製のハーモニカホルダーと改造した12弦ギターで歌う。 |
| 同曲は4分の5拍子の変拍子として有名な「テイク・ファイヴ」のリズムパターンをストロークを切りながら歌ったもので、歌詞は三里塚闘争から着想を得ているLapita月刊吉田拓郎、2003年9月号、小学館、p25いつも見ていた広島、p161-162 |
| このコンテストの優勝者にはコロンビアからプロデビューできる特典がついていたが、ヴェークラント・クヮルテット気ままな絵日記、角川文庫再版本、1983年5月、p50、フーツ・エミール(後に赤い鳥、紙ふうせんを結成する後藤悦次郎が在籍)に次ぐ3位に終わった3位には終わったが「土地に柵する馬鹿がいる」と「花はどこへ行った」は7月にコロムビアのスタジオで録音された。 |
| レコード発売がされたかは不明。 |
| (ヤング・ギター・クロニクルVol.1吉田拓郎これが青春、2007年2月、シンコーミュージックエンタテイメント、p60)。 |
| 審査委員長だった福田一郎が「あれはボブ・ディランの物真似ですよ」と評したのが順位に影響したともいわれるニッポンのうた漂流記、2004年9月、飯塚恆雄著、河出書房新社、p107。 |
| プロ志向の強かった拓郎は、コロムビアの大阪営業所や洋楽部を訪れデビューを懇願したが、誰一人手を挙げる者はおらず、さらにコロムビアの東京本社にまで呼ばれて社長の前で歌ったり、他のレコード会社にも売り込みを図るが全て不合格いつも見ていた広島、p183-189、207-217。 |
| 拓郎プロデビューまでの道は平坦ではなかったわが青春の流行歌、池田憲一、白馬出版、p109青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p51。 |
| 「平凡パンチ」には「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島では有名人となったものの読むJ-POP1945-1999私的全史、田家秀樹著、徳間書店、1999年8月、p130、広島の音楽仲間からは「土地に柵する馬鹿がいる」について「フォークでない」と批判が出た。 |
| アメリカで発生したフォークムーブメントは、埋もれた民謡を発掘する運動で、商業的な音楽の犠牲になっている歌を日本でも掘り起こしていくべきという意見や、当時、広島が原水爆禁止運動のメッカだったこともあって、うたごえ運動をやっている人たちから、広島を歌っていないという批判を受けた。 |
| この頃のフォークソングはうたごえ運動と重なっている部分があった。 |
| こうした居心地悪さと、ボブ・ディランが若い時、家出を繰り返したこと等に触発されてこの年の秋、家出しフォークの研究も兼ねて単身上京した気ままな絵日記、p45-47産経新聞、1996年9月24日夕刊、p10いつも見ていた広島、p144-145、165-206。 |
| 友人に「東京近辺で民謡が聞ける所は千葉」と聞き、汽車に乗り検見川駅で下車。 |
| 付近に旅館が無かったため広徳院で半年居候。 |
| 民謡収集、アルバイト、レコード会社への売り込みの他、新宿西口のフォーク喫茶「フォーク・ビレッジ」 |
| しかし収穫はあまりないまま帰郷。 |
| この影響で大学は1年休学し、5年間通うこととなる。 |
| 4人グループの「ダウンタウンズ地方のグループ・サウンズの一つとして紹介されることがある(『日本ロック紀GS編コンプリート』、黒沢進、シンコー・ミュージック、2007年、p121)。 |
| 」を結成、ギターとボーカルを担当した。 |
| バンド名はペトラ・クラークの同名楽曲(邦題:恋のダウンタウン)からとった。 |
| 広島市内のカワイ楽器を練習拠点にし定期的にここでコンサートを開く。 |
| 同年、広島見真講堂で開かれた第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(LMC、実質のポプコンの前身日本フォーク私的大全、なぎら健壱、p327)中国地区大会に出場しロック部門で優勝。 |
| この反響は大きく市内のディスコやビアガーデン、海の家などからの出演依頼が殺到。 |
| 米軍岩国基地からも依頼を受け出演した |
| いつも見ていた広島、p278。 |
| ここではエレキギターによるロックや、黒人兵隊のために当時まだ日本で馴染みの薄かったリズム&ブルース(R&B)を最も多く演奏した地球音楽ライブラリー吉田拓郎、TOKYOFM出版、p6いつも見ていた広島、p275-290俺達が愛した拓郎、石原信一、p135。 |
| 後年の中津川フォークジャンボリーでのゲリラ演奏には、このときの経験が影響している気ままな絵日記、p48-50。 |
| しかしこの岩国基地での演奏がこの年9月にあったヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストの全国大会出場を拒んだ。 |
| ダウンタウンズがベトナム戦争の侵略基地である岩国を慰問し演奏した、参加資格のないプロのバンドでないかとの抗議が寄せられ、カワイ楽器のバンドである点なども含め、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、これを受け入れたいつも見ていた広島、p291-298。 |
| 前年に引き続き第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場し中国地区優勝。 |
| この年は全国大会に出場しヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となったいつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p349-360、422-431翌1969年、第3回大会のフォーク部門で優勝したのが赤い鳥、2位がジ・オフコース。 |
| 彼らと競ったのがフォーシンガーズ(チューリップの前身)ら(風のようにうたが流れていた、2005年、小田和正、宝島社、p61-67、72-75、112-115、いつも見ていた広島、p425、坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p136、137、141)。 |
| この時演奏した1曲『好きになったよ女の娘』は後の『たどり着いたらいつも雨降り』の原曲である。 |
| 優勝は後に拓郎のファースト・アルバム『青春の詩』のレコーディングに参加するマックス |
| この年の春、拓郎の発案で広島の3つのフォーク団体がアマチュアフォークサークル「広島フォーク村」を結成 |
| 「沖縄フォーク村」を始め、各地に出来た「〇〇フォーク村」は、拓郎らが作った「広島フォーク村」に触発されて生まれたもの沖縄ポピュラー音楽史―知名定男の史的研究・楽曲分析を通して、高橋美樹、ひつじ書房、2010年、p30。 |
| 拓郎人気は凄まじくレコードも出してないのに地元ラジオにリクエストが殺到したため、NHK広島に出演したり中国放送でDJを担当したりした。 |
| この年、全国で最後まで激しい学園闘争を続けた広島大学のバリケードで囲まれたステージで「イメージの詩」を歌う。 |
| 演奏終了後、白いヘルメット姿の学生たちに取り囲まれ激しいアジを浴びせられた吉田拓郎挽歌を撃て、石原信一、八曜社、p27-28読むJ-POP1945-1999私的全史、1999年、田家秀樹著、徳間書店、p121。 |
| ギター教室を持っていたカワイ楽器広島店 |
| 音楽界の常識を無視した長いタイトルは、アングラ・レコードであったことの象徴であるが、これは全共闘の闘争資金を得るため企画されたものだった読むJ-POP1945-1999私的全史、p130-131。 |
| しかし、吉田に影響を受けたTHE ALFEEの坂崎幸之助は、このバージョンのシングルを発売当時に買って所有しており、2009年8月20日放送の「わが青春の吉田拓郎!坂崎幸之助のオールナイトニッポンGOLD」で実際に数年前にあるフリーマーケットで買ったと言う後に出た再録音盤の音源との違いを自ら掛けて聞き比べた。 |