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つながりの強いひと
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吉良義尚
室町時代の武将。三河西条吉良氏(上吉良)3代目。吉良俊氏の嫡男。西条城主。幼名は三郎。官位は従四位下、左兵衛佐。弟に頼氏、義真。子は斯波義健室(本光... |
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吉良義信
吉良義信(きらよしのぶ、生没年不詳)は室町時代の武将。三河西条吉良氏(上吉良)5代目当主。幼名は三郎。官位は従四位下、左兵衛佐、治部大輔。子は義元。... |
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吉良俊氏
吉良俊氏(きらとしうじ、生没年不詳)は室町時代前期の武将。吉良満貞の子。西条城主。西条吉良氏(上吉良)2代目。幼名は三郎。従五位下、左兵衛佐。妻は今... |
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吉良義安
戦国時代の三河国の武将。2つに分かれた三河吉良氏のうち西条吉良氏の出身で、養子に迎えられて東条吉良氏の当主となり、のちに徳川家康に仕えて西条吉良氏の... |
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足利義政
室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年-1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟... |
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吉良義央
江戸時代前期の高家肝煎。元禄赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従... |
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吉良義周
吉良義周(きらよしまさ、貞享3年2月22日(1686年3月16日)-宝永3年1月20日(1706年3月4日))は江戸時代前期の高家旗本。『忠臣蔵』で有名な吉良義央の孫に... |
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細川勝元
対立
室町時代の武将・守護大名。管領、土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。足利氏の支流で三管領の1つである細川氏嫡流・京兆家の当主。細川持之の子、政元の父。... |
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一色義直
室町時代から戦国時代の守護大名。丹後・伊勢半国守護、尾張知多郡・三河渥美郡分郡守護。一色義貫の嫡男。弟に義遠。子に義春、義秀、斯波義寛室。養子に政... |
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吉良義冬
江戸時代前期の高家旗本。通称は左京。官位は従四位上左少将、若狭守。元禄赤穂事件で有名な吉良義央の父親にあたる。 |
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吉良義昭
戦国時代の武将。三河西条吉良氏の当主。西条城を有した吉良氏の吉良義堯の三男として生まれる。 |
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吉良義孚
江戸時代中期の旗本。吉良家の支流である東条家を継ぎ、元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)で絶えた吉良の家名を復興した。 |
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簗田持助
古河公方足利成氏の家臣で下総国水海城(現在の茨城県古河市)城主。父は簗田満助、息子には簗田成助・簗田政助がいる。経歴 17歳の時に父が鎌倉公方である足... |
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吉良義元
戦国時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の子 義国を祖とする足利氏の一門 吉良氏。吉良義信の嫡男(弟説... |
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吉良義堯
戦国時代の武将。三河西条吉良氏(上吉良)6代目。幼名は珍王丸、仮名は三郎。左兵衛佐と称す。妻は後藤平太夫の娘。子は義郷、義安、義昭。吉良義元の嫡男と... |
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今川義忠
今川義忠(いまがわよしただ)は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河守護。足利氏の一門である吉良氏の分家駿河今川家6代当主。今川範忠の子。氏親の... |
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吉良長氏
鎌倉時代中期の武将で、鎌倉幕府の御家人。足利氏の有力一門・三河吉良氏の祖。足利義氏の庶長子。名前の読みは「ながうじ」とする書物が多いが、子の吉良満... |
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山名宗全
室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清... |
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吉良義弥
吉良義弥(きらよしみつ)は江戸時代の旗本。吉良義定の長男。幕府草創期の高家として、朝廷との交渉に携わった。 |
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足利義尚
室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:1473年-1489年)。晩年に義煕と改名しているが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将... |
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プロフィール
吉良 義真(きらよしざね、応永29年(1422年)?-文明13年7月21日(1481年8月16日))は、室町時代の武将。三河西条吉良氏(上吉良)4代目当主。西条城主。官位は従四位下左兵衛佐、治部少輔。 吉良俊氏の3男。義尚、頼氏の弟。他に本光院に入り禅僧となった弟がいる。妻は細川持賢の娘。子に義信。
生涯
| 長兄義尚に息子が無く、義尚の婿である斯波義健も早世したため、享徳年間(1452年-1455年)に長兄から家督を譲られる。 |
| 8代将軍足利義政の側にあって主として禅寺の所領問題に関与し一定の発言権を持っていたようである(『蔭凉軒日録』)。 |
| また、義真の頃には西条吉良氏は石橋氏、渋川氏と共に将軍の「御一類」と呼ばれ、毎年正月5日に行われる将軍対面の式など様々な面で別格扱いを受けていた(『長禄三年以来申次記』)。 |
| 長禄3年(1459年)12月17日、室町幕府が義政の伯父で4代将軍足利義持の33回忌法要を営むため、諸大名に銭の献納を求めた際、義真は10貫文を献上している。 |
| この2日前の12月15日、東条吉良氏(下吉良)当主の吉良義藤が同じく10貫文を献上している(『蔭凉軒日録』)。 |
| 寛正6年(1465年)12月20日に足利義尚が誕生した際、義真も将軍御所へ参上、御祝い言上をしているが、翌日、義藤と揃って伊勢貞親邸を訪れ、将軍への取次ぎの礼を述べている(『親元日記』)。 |
| 応仁の乱が起こると、義真は妻の従兄が細川勝元という関係から東軍に属し、西軍についた吉良義藤と対立、義藤が三河に下向すると、これに対応するため京都を息子の義信に任せ、応仁元年(1467年)5月18日に三河に向けて出立した(『大乗院寺社雑事記』)。 |
| 三河での東西両吉良氏の戦いの様子は史料が無く判然としない。 |
| 僅かに『三河軍記』(嘉永6年(1853年)成立)がその模様を伝えるが、内容は誤謬が多く信頼できない。 |
| 幾度か合戦は行ったものの、当主が没落するといった大規模なものにはならず、京都の東西両軍の和睦(文明9年(1477年))を受けて東西両吉良氏も和睦をしたのではないかと思われる。 |
| ただし、義真は三河奪回のため活発に活動を続ける西軍一色義直を牽制するためか、その後も三河に留まり一色義直が文明10年(1478年)に至り三河を放棄する旨を文書で表明したのを受け、ようやく翌文明11年(1479年)9月頃上洛する。 |
| 上洛後、義真は左大臣近衛政家の邸を訪れるなど公家との交際を再開するが、まもなく病気となり文明13年(1481年)7月21日に没した。 |
| 葬儀は8月24日に行われ幕府政所執事伊勢貞宗は10貫文を献じている(『親元日記』)。 |
| 法名は拈花院殿道山正弘大禅定門。 |
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1459年
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室町幕府が義政の伯父で4代将軍足利義持の33... |
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1467年
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三河に向けて出立した(『大乗院寺社雑事記』) |
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吉良義真さんについてのひとこと紹介
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