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つながりの強いひと
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池田潤
池田潤 [イケダジュン] 1957年京都府生まれ。名古屋大学工学部建築学科卒業。建設会社、建築設計事務所勤務を経て、現在、有限会社池田潤建築設計工房主宰... |
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双葉山定次
大相撲の第35代横綱。大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身。身長179cm、体重128kg。)血液型はA型。 |
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千代の山雅信
千代の山雅信(ちよのやままさのぶ、1926年6月2日-1977年10月29日)は大相撲の力士で第41代横綱。本名杉村昌治。身長192cm。出羽海部屋所属。 |
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子母沢寛
子母沢 寛 2 users [出版リスト] 著作本: 298 件 関連本: 10 件 全巻セット: 6 件 ⇒ [クリップ本Ranking] [著者分類] 歴史・時代小説家 [プロ... |
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附田雄剛
日本のモーグル選手。北海道石狩町(現石狩市)出身。札幌光星高等学校、北海道東海大学卒業後、リステル入社。所属するリステル猪苗代は、リステルスキーフ... |
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羽黒山政司
新潟県西蒲原郡松長村大字羽黒(のちの中之口村、現新潟市西蒲区)出身の大相撲第36代横綱。身長179cm、体重130kg。得意手は左四つ、吊り、寄り、上手投げ。 |
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鏡里喜代治
青森県三戸郡斗川村(現在の三戸郡三戸町)出身で時津風部屋(入門時は粂川部屋)所属の元大相撲力士、第42代横綱。本名は奥山喜世治(おくやまきよじ)。現... |
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栃錦清隆
東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)出身の大相撲の第44代横綱。本名、大塚清(おおつかきよし)(のちに栃木山の養子になり、中田姓)。身長178cm、体重... |
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双葉山
大相撲 の第35代 横綱 。 大分県 宇佐郡 天津村布津部(現在の 宇佐市 下庄)出身。身長179cm、体重128kg。 |
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前田山英五郎
前田山英五郎(まえだやまえいごろう、1914年5月4日-1971年8月17日)は大相撲の第39代横綱。本名・萩森金松。愛媛県西宇和郡喜須来村(後の保内町、現在の八... |
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大鵬幸喜
元大相撲力士。第48代横綱である。身長187cm。血液型はB型。樺太敷香郡敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉で育った。 |
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北勝海信芳
年寄・八角信芳(はっかくのぶよし)として八角部屋(高砂一門)の師匠。日本相撲協会監察委員・指導普及部委員。 |
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若乃花幹士
大相撲の力士、第45代横綱。所属は入門当時は二所ノ関部屋、1953年に花籠部屋の独立とともに移籍。青森県弘前市青女子(あおなご)出身。身長179cm、体重107k... |
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千代の富士貢
大相撲元力士で、第58代横綱。北海道松前郡福島町出身。身長183cm、体重127kg。現在は年寄・九重。現役時代の異名・愛称はウルフ、大将。血液型はA型。岳父は... |
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鳳谷五郎
千葉県印旛郡(現在の印西市)出身で宮城野部屋所属の元大相撲力士、第24代横綱。身長174cm、体重112kg。本名は滝田明(たきたあきら)。 |
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朝潮太郎
高知県安芸郡(現在の高知県室戸市)出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は大関。現在は年寄・7代高砂浦五郎。本名は長岡末弘(ながおかすえひろ)、現... |
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北の湖敏満
北海道有珠郡壮瞥町出身で三保ヶ関部屋所属の元大相撲力士、第55代横綱。引退後は、一代年寄北の湖となる。現在日本相撲協会理事。第9代日本相撲協会理事長(2... |
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東富士
−東富士カントリークラブ ゴルフ会員権のお申込み・お問合せ 受付フォーム−
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旭富士正也
青森県西津軽郡木造町(現在のつがる市)出身で大島部屋所属の元大相撲力士、第63代横綱。本名は杉野森正也(すぎのもりせいや)。現役時代の体格は身長189cm... |
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玉の海正洋
大相撲の第51代横綱。愛知県宝飯郡蒲郡町(現在の蒲郡市)出身。身長177cm、体重130kg。 |
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プロフィール
- 吉葉山潤之輔とは
- 大相撲入門
- 復員後
- 涙の初優勝、そして横綱昇進
- 引退後
- 通算成績
- 各段優勝
- 三賞・金星
- 関連
吉葉山潤之輔(よしばやまじゅんのすけ、本名:池田潤之輔(いけだじゅんのすけ)、1920年(大正9年)4月3日-1977年(昭和52年)11月26日)は、北海道厚田郡厚田村(現、石狩市)出身の大相撲力士、第43代横綱。身長179cm、体重143kg。
大相撲入門
| 幼少時は裕福だった網元の家庭だが3年続けての業績不振により倒産。 |
| 北海道製糖(現日本甜菜製糖)に就職するが、「学歴がなくては出世は無理」と考え、勉学に励もうと一念発起して列車に乗って上京、この時近くに大きな体をした少年がいたらしいが途中で姿を消してしまう。 |
| 上野駅に到着すると力士2名に出迎えられ高島部屋に連れて行かれた。 |
| 実は先述の姿を消した大きな少年(結局この少年は上京を中止した)が高島部屋に入門を希望していたのだが、彼と間違われて連れて行かれたのだ。 |
| 部屋で人違いであることを説明したが、高島親方夫人に説得されそのまま入門した。 |
| 四股名は北海道製糖に因み北糖山にした。 |
| 1938年(昭和13年)に盲腸炎(虫垂炎か?)を患い、生命も危なかったが、吉葉庄作医師の手で全快し恩に報いるべく四股名を吉葉山に改名した。 |
| だが幕下優勝を果たし十両昇進目前の1942年(昭和17年)に軍隊に応召し、戦地で少なくとも銃弾2発の命中を受ける。 |
| このうち1発は貫通だった。 |
| 本土には死んだとの情報まで伝わり部屋の名簿からも名前が消されていたが1946年(昭和21年)6月になってようやく復員することが出来た。 |
復員後
| 4年にわたって戦場におり、死んだとの情報が入っていたことも関係し、痩せこけて帰ってきたときは玄関番に幽霊と間違われたという。 |
| その後は胃袋とあだ名されるほどに食事を摂り、人一倍稽古もして失なわれた4年間を取り戻すべく必死だった。 |
| 1947年(昭和22年)6月場所十両東4枚目の位置で復帰、翌11月場所で入幕した。 |
| 新三役(関脇)で迎えた1950年(昭和25年)9月場所、13勝2敗の成績を挙げたが、優勝決定戦では本割でも負けた相手である照國に敗れた。 |
| 新関脇での13勝は15日制となってから五ツ嶋に次いで2人目で現在まで最多である(後に、琴欧州(現・琴欧洲)も達成)。 |
| 翌場所も13勝2敗であったが、今度は照國が全勝した。 |
| しかし、関脇で2場所連続13勝が評価され大関に昇進する。 |
| 皆勤すれば必ず2桁勝てる実力があり横綱昇進を期待されたが、優勝がなくなかなか届かなかった。 |
| 1953年(昭和28年)5月場所では14勝1敗であったが、平幕の時津山が全勝した(当時は下位の力士がいくら勝っても三役と当てることはまずなく、吉葉山としては阻止するすべがなかった)。 |
| このように、吉葉山の土俵人生には悲劇が纏わり付いていた。 |
涙の初優勝、そして横綱昇進
| 1954年(昭和29年)1月場所、全勝で悲願の初優勝、大雪の中の優勝行進(現在の優勝パレード)は「雪の全勝行進」と呼ばれ全国から集まったファンが大喜びでその姿を見送った。 |
| その興奮ぶりは後の貴ノ花や千代の富士の初優勝、若貴フィーバーにも匹敵するものであったという。 |
| 成長途上に兵役にとられた悲運、兵役中受けた銃創が尾を引き肝心なところで怪我に泣く悲運、小部屋の悲運、ライバル鏡里と比べて強豪と当たることの多かった(当時は系統別総当たり制だが部屋により対戦相手に違いがあった)悲運、照國と優勝決定戦になったものの大関昇進が即決されなかった悲運、14勝を挙げながら平幕下位の時津山に全勝で優勝をさらわれる悲運など、いわゆる“7つの悲運”を乗り越え晴れて横綱になった。 |
| しかし新横綱の場所を全休、その後も貫通銃創の後遺症と足首に入ったままの銃弾の影響で思うように白星を稼げず結局2度と賜杯を抱くことはできなかった。 |
| 当時の人気俳優・市川右太衛門ばりの美男力士として大変人気が高かった。 |
| また従軍・戦傷の経験から元軍人や傷痍軍人からは特に人気があった。 |
| 筋骨隆々たる巨体が見せる不知火型の土俵入りは美しかった。 |
| 左四つ得意だったが力任せの取り口が目立ち、蹴手繰りの奇手を見せることも多かった。 |
| 若い頃から出世を争い新大関は同時、横綱昇進も非常に近かった鏡里との対戦は、美しさなら往年の梅ヶ谷・常陸山のそれと対比され、特に人気を呼んだ。 |
| 全勝優勝を決めた千秋楽の相手も鏡里だった。 |
| 1958年(昭和33年)1月場所、この場所絶不調の吉葉山は中日を終えて3勝5敗、そのまま引退した。 |
| この時5勝3敗だった鏡里は「10番勝てなかったらやめる」と発言、9勝6敗で終わり本当に引退、偶然にも2人の引退は同時となった。 |
引退後
| 現役時代から当時の一代年寄制度を利用して総檜造の吉葉山相撲道場を設立した。 |
| 引退後に年寄宮城野の名跡を譲られ、宮城野部屋と改称する。 |
| 後進の指導には非常に熱心で、部屋の師匠として明武谷・陸奥嵐・廣川ら8人もの関取を育てた。 |
| また日本相撲協会理事として審判部長などを務めた。 |
| 若い頃から扁桃腺に持病があって、並居る力士の中でも吉葉山はとりわけ濁声で知られていたが、審判部長の職責を授かるにあたり手術に踏み切って治癒させた。 |
| 1977年(昭和52年)11月26日、腎不全のため死去。 |
| 日本相撲協会はその年の12月23日、吉葉山の日本相撲協会葬を執り行い、戦後の大相撲復興の象徴でもあった彼の功績を称えた。 |
| 2007年(平成19年)5月、白鵬が連続優勝を果たして史上69人目の横綱に昇進した際、土俵入りの型は吉葉山が行った不知火型を継承した。 |
| 白鵬は竹葉山(四股名は吉葉山にちなんだもの)の弟子で、吉葉山の孫弟子に当たる。 |
| 同年6月1日明治神宮で行われた奉納土俵入りでは、吉葉山が現役当時に着けていた三つ揃えの化粧廻しを使用した。 |
| なお、吉葉山が道場時代から使っていた宮城野部屋の建物はその後相撲料理店「吉葉」となり、稽古土俵が現在も残っている。 |
| この力士に関しては後に相撲解説で有名になる神風正一もその素質を認めており、新入幕の時には「もし兵隊に取られてなかったら今頃は大関だろう」と言ったと伝わる。 |
通算成績
| 通算成績:357勝171敗1預85休。 |
| 幕内成績:304勝151敗1預85休 勝率.668。 |
| 横綱成績:109勝67敗79休 勝率.619。 |
| 幕内在位:37場所。 |
| 横綱在位:17場所。 |
| 大関在位:10場所。 |
| 三役在位:2場所(関脇2場所、小結なし)。 |
各段優勝
| 幕内最高優勝:1回(全勝)(1954年1月場所)。 |
| 同点1回、次点5回。 |
| 幕下優勝:1回(1942年5月場所)。 |
三賞・金星
| 三賞:3回。 |
| 殊勲賞3回(1950年1月場所・3月場所・5月場所)。 |
| 金星:2個(照國)。 |
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1942年
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幕下優勝:1回(場所) |
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1950年
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殊勲賞3回(場所・3月場所・5月場所) |
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