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上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。
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国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。
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長岡家の菩提寺である養寿寺の墓碑によれば国定村の百姓与五左衛門、母は弘化2年(1845年)5月14日に死去している。
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父与五左衛門は文政2年(1819年)5月20日に死去しており、忠治は青年期に無宿となり家督は弟の友蔵が継ぐ。
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弟の友蔵( - 明治11年(1878年))は養蚕のほか糸繭商を興し、無宿となった忠治を庇護している。
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忠治や友蔵は長岡家の菩提寺である養寿寺で寺子屋を開く住職貞然に学んでいると考えられており、養寿寺には友蔵の忠治宛金借用証文も残されている。
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忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒
大前田英五郎の縄張りを受け継ぎ百々村の親分となり、英五郎と敵対し日光例幣使街道間宿境町を拠点とする博徒島村伊三郎と対峙する。
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天保5年(1834年)、忠治は伊三郎を殺しその縄張りを奪うと、一時関東取締出役の管轄外であった信州へ退去し、上州へ戻ると一家を形成する(『赤城録』では、『水滸伝』に模して日光円蔵ら忠治股肱の子分を紹介している)。
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その後は日光例幣使街道玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、天保6年(1835年)には玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化すし、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。
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また、忠治はこのころ発生していた天保飢饉に際して盗区の村々への賑救を行っていたが、天保9年(1838年)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され子分の三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。
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忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。
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さらに天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌天保13年に忠治は帰還し主馬を殺害する(この際に忠治は子分に「洋制短銃」をもたせている)。
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関東取締出役は天保10年に出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化をはかり忠治の捕獲を試みているが、天保13年8月に忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害し(三室勘助(中嶋勘助、小斉勘助)は上州小保方村三室(佐波郡東村)の出身。
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中嶋家は東小保方村の名主を務め、忠治一家の浅次郎は勘助の甥にあたる。
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勘助は檀那寺である西小保方村の長安寺住職憲海や領主久永氏を相手とした訴訟に敗れると天保12年に隣村の八寸村八斉に移住し、関東取締出役の道案内に転身している。
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勘助殺しにより
中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行い、忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。
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忠治は弘化3年(1846年)に上州に帰還するがこのころには中風を煩い、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。
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忠治は上州に滞在し盗区において匿われていたが、翌嘉永3年8月24日(1850年9月29日)には田部井村名主家において関東取締役出役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。
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捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。
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博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である関所破り(碓氷関所(群馬県安中市)を破る)により時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され当地で磔の刑に処せられる。