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つながりの強いひと
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文武天皇
日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日)-慶雲4年6月15日(707年7月18日))。諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続... |
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坂上国麻呂
日本の飛鳥時代の人物である。姓は直。大義冠・坂上首名の子とする系図がある。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側の高市皇子に従って都を脱した。 |
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大伴吹負
日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは、「おほとものふけひ」。名は男吹負、小吹負(おふけい)とも書き、旧仮名遣いで「をふけひ」となる。姓... |
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天武天皇
7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。 |
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大海人皇子
大海人皇子の陰謀 超古代史壬申の乱 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます ... |
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坂本財
日本の飛鳥時代の人物である。姓は臣。坂本糠手の子とし、子に塵田(鹿田)・名代がいたとする系図がある。冠位は大錦上、贈小紫。672年の壬申の乱で大海人皇... |
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坂上大野
平安時代の貴族。大納言・坂上田村麻呂の長男。官位は従五位下・陸奥権介。子に氏高がいる。大同3年(808年)5月従六位下から従五位下に昇叙され、陸奧鎮守副... |
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丹波康頼
丹波康頼(たんばのやすより、延喜12年(912年)-長徳元年4月19日(995年5月21日))は平安時代の医家。官位は従五位上・医博士、丹波介、左衛門佐。 |
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弓削皇子
天智天皇皇女の大江皇女。長皇子は同母兄。上記のとおり生年は不詳だが、寺西貞弘らによって天武2年(673)誕生と推測されている。この推定にしたがえば、27... |
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佐伯男
日本の飛鳥時代の人物である。姓は連のち宿禰。佐伯広足の子で、子に赤麻呂がいたとする系図がある。官位は従五位上・大倭守。672年の壬申の乱で大友皇子(弘... |
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当摩広麻呂
日本の飛鳥時代の人物である。氏は当麻とも書く。姓は公のち真人。用明天皇の皇子である麻呂子皇子の孫とする系図がある。冠位は直大参、贈直大壱。壬申の乱... |
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大伴御行
日本の飛鳥時代の人物である。姓は連、後に宿禰。右大臣大伴長徳の子。正広三・大納言。贈正広弐・右大臣。672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に... |
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駒田忍人
日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは「こまだのおしひと」で同じ。姓は勝。672年の壬申の乱で、都を脱出した大津皇子に同行した。駒田氏がどん... |
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巨勢人
日本の飛鳥時代の人物である。名は比等、毘登とも書く。姓(カバネ)は臣。小徳位巨勢大海の子。天智天皇に仕えて御史大夫に昇り、672年の壬申の乱で大友皇子... |
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高市皇子
日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。旧仮名遣いでの読みは同じ。後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。672年の壬申の乱勃発時、... |
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高田新家
日本の飛鳥時代の人物である。姓は首。遣唐大使・高田根麻呂の子で、子に首名・石成がいたとする系図がある。位階は正六位上、贈従五位上。672年の壬申の乱の... |
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当摩国見
日本の飛鳥時代の人物。当麻国見とも書く。姓は公のち真人。系譜ははっきりしないが、用明天皇皇子である麻呂子皇子の孫で、当摩豊浜の子とする系図がある。... |
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徳麻呂
日本の飛鳥時代の人物である。「とくまろ」とも読む。旧仮名遣いでの読みは同じ。氏は不明。姓(カバネ)はなし。大井寺の奴で、672年の壬申の乱のとき大海人... |
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尾張大隅
日本の飛鳥時代の人物である。氏は尾治とも書く。姓は連、後に宿禰。尾張多々見の子とする系図がある。位階は贈従五位上。672年の壬申の乱のとき、大海人皇子... |
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紀大人
日本の飛鳥時代の人物である。姓(カバネ)は臣のち朝臣。紀大口の子。官位は大錦下・御史大夫、贈正三位。672年の壬申の乱のとき大友皇子(弘文天皇)側の重... |
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プロフィール
坂上老(さかのうえのおきな、生年不詳- 文武天皇3年5月8日?(699年6月10日))は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は直のち忌寸。冠位は贈直広壱。672年の壬申の乱で 大海人皇子( 天武天皇)の側につき、 大伴吹負から皇子への連絡の使者になった。
出自
| 坂上氏は渡来系の東漢氏(倭漢氏)の一族である。 |
| 東漢氏は直姓で支族が多く、大和国南部に本拠を持ち、軍事に関与することが多かった。 |
| 老は大義冠・首名の子で、子に大国があった「坂上系図」(『続群書類従』巻第185所収)。 |
| 同系図上では、弓束-老と系譜を繋げるが、老の欄に「大義冠首名之連子」との注釈があることから、老の父は首名と考えられる(太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年による)。 |
経歴
| 壬申の年(672年)の6月に大海人皇子が挙兵すると、近江宮にいた大友皇子(弘文天皇)は倭京に使者を派遣して軍を編成させた。 |
| 倭はここでは大和のことで、倭京は飛鳥におかれた古い都のことである。 |
| しかしこのとき、大海人皇子側につくことを決めた大伴吹負は挙兵をめざして人数を集め、倭京の留守司の一人坂上熊毛とともに、一二の漢直に内応を求めた。 |
| 漢直とは倭漢氏を指す。 |
| 6月29日、まず秦熊が使者のふりをして馬に乗って馳せ、「高市皇子が不破から来た。 |
| 軍衆が多く従っている」と誤報を言った。 |
| 陣営の兵士は驚いて逃げ散った。 |
| それから数十騎で乗り込むと、熊毛と諸々の直が内応したため、吹負は難なく指揮権を奪取した。 |
| 坂上老も熊毛と同族で「直」の一人であるから、ここで内応した一人である可能性が高い。 |
| ことが成功してから、大友吹負は不破宮にいた大海人皇子に報告の使者を派遣した。 |
| 大伴安麻呂、坂上老、佐味宿那麻呂がその使者になった。 |
| 彼等は無事に役目を果たしたが、そのあとの戦争での坂上老の行動については記録がない。 |
| 佐味宿名麻呂は戻って倭の方面で戦ったから、老もそうしたかもしれないが、別の方面にいた可能性もある。 |
| 倭漢直は、天武天皇11年(682年)5月12日に、連の姓を与えられた。 |
| 倭漢連は、天武天皇14年(685年)6月20日に、忌寸の姓を与えられた。 |
| 坂上氏もこの中にあって直から連へ、また忌寸へと変わったと推定できる。 |
| 文武天皇3年(699年)5月8日に天皇は次のような詔を発した。 |
| 「図勲の義は前を修めることから始まり、創功の賞は歴代これを重んじる。 |
| 壮士の節をあきらかにし、不朽の名をあらわすためである。 |
| 汝、坂上忌寸老は壬申の年の軍役に自分の命をかえりみず、社稷の急に赴き、万死を出て国難に立ち向かった。 |
| そしてまだはっきり功賞されずに急死した。 |
| 死後に優遇して冥途で慰めようと思う。 |
| 直広壱を贈り、物を与えよ。 |
| 坂上老はこの日か少し前に死んだと推測できる。 |
| 壬申の功臣の死に際しての恩典を記す箇所は、『日本書紀』と『続日本紀』に数多いが、老に対するものがもっとも詳しい。 |
| しかしこれは、老に対する評価が最高ということではないらしい。 |
参考文献
| 直木孝次郎「壬申の乱と坂上氏」、『続日本紀研究』、1巻1号、1954年1月。 |
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1954年
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直木孝次郎「壬申の乱と坂上氏」、『続日本紀... |
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坂上老さんについてのひとこと紹介
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