| 戦況の悪化、絶対国防圏の重要な一角であったサイパン島への米軍上陸を受け、海軍航空隊の総本山であった横須賀航空隊にもついに出撃命令が下り、6月22日、坂井を含めた零戦27機は、大村空で教官をしていた坂井を、横須賀空へ引っ張ってきた、ラバウルでの飛行隊長でもある中島正少佐の指揮下、硫黄島へ進出。 |
| ラバウル以来の久しぶりの戦地、右目の視力を失いつつも、最前線に戻ることとなった横須賀空の坂井は、硫黄島防衛に加え、マリアナ沖海戦に勝利したばかりで、マリアナ諸島沖に展開の米海軍機動部隊(第58任務部隊)を攻撃することも視野に入れつつ、三沢基地で練成中だった第252航空隊他と共に、零戦の他に艦上攻撃機天山、艦上爆撃機彗星他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下に入る。 |
| 坂井の硫黄島到着の2日後、まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、先手を打って、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊のグラマンF6Fヘルキャット戦闘機約70機が、空母ホーネット、空母ヨークタウン、空母バターンを発艦して硫黄島に来襲。 |
| これをレーダー探知して、横須賀空の25機、そして252空と301空(戦闘601飛行隊)の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。 |
| 梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、坂井を含めた雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。 |
| 坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、雲上組よりも不利な状況で、硫黄島防空戦に突入する。 |
| 坂井は、およそ戦闘機パイロットとして世界に前例のない片目での戦闘に入ることとなったが、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ奮闘。 |
| 全般的に零戦隊が劣勢のなか、坂井はF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜する。 |
| 坂井三郎著「坂井三郎空戦記録(全)」改定版1966年、出版共同社、272頁。 |
| ただ、この空戦の終了時に、隻眼状態に伴う視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認するという以前の坂井にはあり得なかったようなミスで、敵戦闘機15機に包囲される。 |
| この15対1の絶体絶命のピンチも、坂井の高度な空戦技術を駆使した必死の回避操作で、全ての射弾を回避する。 |
| この15機のうちの1機で、途中から坂井機への攻撃に加わった米海軍VF-50航空隊のランシー・リッチ少尉によると、VF-2航空隊の経験の浅い4機は、坂井1機からの攻撃に、むしろ押され気味となり、数で圧倒していたにもかかわらず、防御隊形である単列での360度旋回であるラフベリー・サークルを組んで守勢にまわっていたという。 |
| さらに、坂井機の急激な操作についていけずに、この防御隊形の旋回半径の維持が困難となり、このラフベリー・サークルから1機1機弾き飛ばされ、ばらばらになってしまっているのを目撃したという。 |
| この早朝の空戦で既に零戦2機を撃墜していたリッチ少尉は、坂井機の300メートル上空から急降下して一撃を加えたが、坂井の巧みな射弾回避操作にかわされる。 |
| リッチ少尉他、この日、坂井機を包囲した米側パイロット証言は、坂井の著書「大空のサムライ」の描写以上に、坂井が激しく攻勢に出ていたことを示唆している。 |
| 太平洋戦争中、戦闘機同士としては最大規模、45分間にも及ぶ異例の長さのこの6月24日早朝の迎撃戦では日本側は、半数近い24機が撃墜されたが、最後に硫黄島に着陸した坂井機の機体には、F6Fヘルキャット戦闘機15機の一斉攻撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかった。 |
| 坂井の著書「大空のサムライ」の描写では、7月5日、横須賀空の残存兵力の全てとなった天山8機と零戦9機の合計17機のみで、米機動部隊、第58任務部隊の大艦隊に対し、白昼強襲をかけたとされている。 |
| 戦闘隊指揮官は、笹井中尉と海兵、飛行学生共に同期であった歴戦の山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は武藤金義飛曹長であった。 |
| 出撃前、横須賀空司令の三浦鑑三大佐より、「本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。 |
| 戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。 |
| 」との訓示がなされ、ここに実質的に日本海軍初の航空特攻命令が下されることになる。 |
| 攻撃隊は米側レーダーに捕捉され、敵艦隊に達する前に30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。 |
| 撃墜を逃れたのは、命令に反して、反撃に転じた武藤飛曹長と坂井小隊3機の計4機のみであった。 |
| するが、その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。 |
| ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。 |
| しかし、横須賀航空隊の戦闘記録では、米機動部隊攻撃に発進したのは、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後とされており、編成も零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機(内、横空零戦隊は9機)となっている。 |
| (内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機)坂井の著書で戦死したとされる山口大尉はこの攻撃では戦死していない。 |
| 同年12月、最新鋭局地戦闘機「紫電改」を装備する第三四三航空隊2代目。 |
| 第三四三航空隊から横須賀航空隊への異動は、「空の宮本武蔵」の異名を取る撃墜王であり、友人でもあった横須賀航空隊の武藤金義少尉と交換という形であったが、その後武藤少尉が豊後水道上空の空戦において戦死したため、坂井は武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したのではないかと終生気に病んでいた。 |
| これは簡単に達成できることではなく、同じく僚機被撃墜記録がないとされるドイツ空軍のエーリヒ・ハルトマンも1機撃墜(搭乗員は生還)されていた事実が判明したことから、第二次世界大戦の歴戦搭乗員の中でこれを成し遂げたのは判明している限りでは坂井だけである。 |