| 不器用でどちらかと言えばスポーツが苦手だったが、長身とリーチを生かした投げ込みに熱心に取り組み、たちまち頭角をあらわす。 |
| 1997年に金沢高等学校卒業。 |
| 「高校を卒業したら、お菓子屋さんになりたかった」 |
| が、埼玉県戸田市の戸田中央総合病院がたまたま投手を必要としていることを知らされ、同病院ソフトボールチームに入部。 |
| エースとして活躍し、1部リーグの決勝トーナメントでも闘えるチームへと押し上げる。 |
| 2001年に |
| 2004年年8月、アテネオリンピック代表。 |
| 3試合に登板し2完封を含む無失点と活躍。 |
| 五輪終了後に一旦現役を引退し、アメアスポーツジャパン株式会社に入社。 |
| 販売促進のかたわらソフトボールの指導で全国を巡る。 |
| この時期は「すごく意義のある時間」であり、「裏方の仕事の大変さを知ったのも良い勉強」だったという。 |
| また「たくさんの子どもたちに巡り会って、触れ合って、学ばせてもらったことは大きな財産」 |
| 北京五輪後になされた |
| 『あぁ、自分はこの人たちの苦労を何もわかってなかった』って。 |
| もっと早く気づいていれば、もっとすばらしい選手になれていただろうなって、心から思いました」と述べている。 |
| また、 |
| になった。 |
| スポーツ教室でソフトボールに励む少女たちのオリンピックへの夢を実感。 |
| 北京を最後に五輪種目からソフトボールを削除するというIOCの決定に衝撃を受ける。 |
| 2006年10月、アテネでバッテリーを組んでいた山路典子・ |
| 「われわれが金メダルを獲ることによって、子供たちに何か新しいモチベーションを与えてあげたい」 |
| ISBN978-4881421833という自覚を新たにする。 |
| 2008年8月、北京オリンピック代表。 |
| 先回のアテネ五輪同様に全登板無敗を記録し、全日本女子ソフトボールチームの金メダル獲得に貢献。 |
| その活躍ぶりに、アテネ五輪の同僚・内藤恵美(左アキレス腱断裂で北京五輪欠場が惜しまれた「日本一の遊撃手」)をして、「坂井さんがいなかったら金メダルなんて獲れなかった」『NumberPLUS』北京オリンピック完全保存版、文藝春秋、2008年9月、13頁。 |
| 文◎矢崎良一「ソフトボール観客席にいたもう一人の選手」より引用。 |
| と言わしめた。 |
| また、斎藤春香・全日本監督は、上野投手が尻上がりの調子を持っていくことができたのは、「予選をトーナメントのつもりで戦ってくれた坂井投手の力投が大きいです。 |
| どんな時もブルペンで準備をし、投手陣をしっかり支えてくれました」 |
| と断言する。 |
| 同年10月13日の体育の日に行われた、同じ地元のライバルチーム・ルネサス高崎との対戦は「高崎ダービー」と呼ばれ、女子ソフトボール史上最高の集客数。 |
| 日本中が注視するなか開催されたこのビッグゲームで、宿命のライバル上野由岐子投手に投げ勝ち、完投勝利。 |
| 最多のオリンピック参加者を擁する日本最強チームをねじ伏せた力投は、トップアスリートとしての評価を不動のものとした。 |
| また、試合の模様が後日スポーツ紙よりはむしろ朝日から読売にいたる報道各紙で詳しく紹介されたため、それまでソフトボールに関心を持っていなかった一般の人々の間にも「サカイ・ヒロコ」の名が広まることになったいわゆる「高崎ダービー」の結果を紹介する、2008年10月15日付の報道各紙の見出しは、以下の通り。 |
| 「女子ソフト五輪効果で観客最多1万人」(朝日新聞)。 |
| 「ソフトボール:日本リーグ 地元対決に観客1万人上野・坂井の投手戦」(毎日新聞)。 |
| 「『高崎ダービー』は誘電」(読売新聞)。 |
| 「ソフト上州対決、誘電に軍配」(上毛新聞)。 |
| オフ時期には、スポーツ教室を通じ、ソフトボールの普及と技術向上に尽力。 |
| 2010年に現役を引退。 |
| 現在は、 |