| 1952年東京都中野区に生まれる。 |
| 父は河出書房の編集者で、三島由紀夫や野間宏、中上健次などを担当した坂本一亀。 |
| 祖父は実業家、第五高等学校と京大とで池田勇人と同級で生涯の親友として付き合い、池田の葬儀に友人代表として弔辞を読んだという坂本龍一著『音楽は自由にする』新潮社、2009年、23頁。 |
| 通っていた幼稚園が「全員ピアノを習う」所だったため、3歳からピアノを習いはじめる。 |
| 自由学園幼児生活団に準じた世田谷幼児生活団において作った「うさぎのうた」が最初の作曲。 |
| 10歳で東京藝術大学教授の松本民之助に師事し作曲を学び始める。 |
| なお、作曲を勉強し始めて最初に興味を持った作曲家はストラヴィンスキーであった。 |
| この頃は特にピアノが好きではなく、むしろ苦痛だったという。 |
| しかし14歳の頃は「自分はドビュッシーの生まれ変わりだ」と半分信じていて、サインの練習までしていた。 |
| 1959年から東京都世田谷区給田に育つ。 |
| 世田谷区立祖師谷小学校から世田谷区立千歳中学校バスケットボール部に所属した。 |
| を経て、1970年に東京都立新宿高等学校を卒業塩崎恭久、野中直子と同期。 |
| 新宿高校時代には読書が趣味で、常に学校図書館の貸出ランキング10位以内に入っていた。 |
| また風月堂などにたむろするフーテンたちに影響を受け、ジャズを聞くようになり、自分でも演奏する。 |
| ロックも好きであったが、フォークは大嫌いであった。 |
| また学生運動にも、のめり込むこの時の闘争仲間に、後に「アクション・カメラマン」になった馬場憲治がいた。 |
| 1970年東京藝術大学入学坂本が東京都立新宿高等学校一年生の時、坂本の作曲の腕前に関して、高校の先輩の池辺晋一郎から「このままの実力でも(東京芸大に)十分受かる」と太鼓判を押された(当時の東京芸大作曲科の難易度は現在より遙かに高かった)。 |
| 芸大受験に失敗した場合は、父の母校である日本大学芸術学部に進むことを考えていた。 |
| その理由は「当時の日大全共闘は一番ぶっちぎれていたから」。 |
| 大学在学中、民族音楽学研究の泰斗小泉文夫の講義を受け、その内容の深さに坂本はそれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような大きな衝撃を受けたという。 |
| さまざまに変遷してきたと見られる坂本の作風であるが、そのベースには、小泉から学び得た民族音楽学の知識や思想がたしかにあるようである。 |
| ただし小泉自身は作曲をしなかったので、坂本に作曲技法上の影響を与えたというわけではなかった。 |
| また坂本は、大学在学中、一年ほど作曲家三善晃にも学んでいるただし1度だけ直接指導を受けただけ、と坂本は発言している。 |
| しかも、三善から「理論的すぎる」の如き指摘を受けたとも。 |
| さらには、渋谷で開かれていた高橋悠治の勉強会にも高校・大学を通して顔を出していた。 |
| 坂本が電子音楽に出会ったのは、そんな大学学部在学中のことである。 |
| 1974年東京藝術大学の音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音響研究科修士課程に進む。 |
| 1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。 |
| スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。 |
| 翌1976年、竹田賢一と「学習団」という芸術-実践の運動体を組織し、竹田のプロデュースの下、はじめてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』(土取利行とのコラボレーション)を発表。 |
| 以降、りりィのバックバンド(バイバイセッションバンド)に所属した他、初期の山下達郎の楽曲(「2000トンの雨」「パレード」など)、大瀧詠一のアルバム『NIAGARA TRIANGLEVol.1』などにキーボードとして参加。 |
| また、大貫妙子のLP『サン・シャワー』『ミニヨン』『ロマンティック』等にアレンジャー、プロデューサーとして参加。 |
| この時期を、後に坂本はアルバイト時代と呼んでいる。 |
| 1978年2月、細野晴臣のアルバム『はらいそ』に参加。 |
| 細野の誘いにより、高橋幸宏とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(以下YMOと表記)を結成、活動を開始する。 |
| 10月、坂本初のソロアルバム『千のナイフ』をリリースし、ソロ・デビューも果たす。 |
| 11月、YMO名義の「イエロー・マジック・オーケストラ」を発売、続く『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』で爆発的人気を博す。 |
| またこの年、風の旅団の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加した。 |
| 翌1979年にはYMOと並行する形で渡辺香津美、矢野顕子、小原礼、村上秀一、本多俊之らとセッションユニットKYLYNや、ほぼ同じメンバーで、各パート二人ずつで演奏技術を競わせるというコンセプトのカクトウギセッションでの活動を行う。 |
| また一部の楽曲で第二ピアノを演奏した高橋悠治のLP『新ウィーン楽派ピアノ音楽集成』が発表された後に『新ウィーン楽派ピアノ作品集』としてCD化。 |
| また参加楽曲シェーンベルク「四手のための六つの小品」は坂本のアルバム『フェイヴァリット・ヴィジョンズ』にも収録されている。 |
| 同年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施。 |
| 1979年12月、アレンジを手掛けたサーカスのシングル「アメリカンフィーリング」で、日本レコード大賞編曲賞を受賞する受賞のコメントで「売れようとか思ってやった訳ではないので、自分のやった事が評価されただけ」と述べたと言う。 |
| YMOとしての活動の傍ら、1981年よりNHK-FMにて「サウンドストリート」のパーソナリティを務める。 |
| 担当していた火曜日ではアマチュアミュージシャンから送られるテープを番組内で放送する「デモテープ特集」が不定期に行われていたこの番組にテープを送っていたリスナーで後にメジャーデビューしたのが、ジュラン、テイ・トウワ、槇原敬之らであり、またステッピン・イントゥ・エイジアでラップを担当した浅野智子もこの特集がきっかけで、同曲のレコーディングに参加することになった。 |
| ここで流された曲の一部が後に「DEMOTAPE-1」としてCD化されている。 |
| 1982年には、RCサクセションの忌野清志郎と組んでシングル『い・け・な・いルージュマジック』をリリース。 |
| 資生堂'82春のキャンペーンソングとしてヒットする。 |
| TVでは、どぎつい化粧をした男同士でキスをするなど、過激なパフォーマンスを展開した。 |
| またこの年、矢野顕子と結婚。 |
| 1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』には、大島渚監督の依頼により、ヨノイ大尉役で出演し、デヴィッド・ボウイ、ビートたけしと競演。 |
| この年、デヴィッド・シルヴィアンと組んでシングル「禁じられた色彩」をリリースした。 |
| 1984年、矢野顕子らと「MIDIレコード」を設立し、同レコード内にレーベル「school」を立ち上げる。 |
| 1986年には初のソロ・コンサート「メディア・バーン」を全国24カ所(28公演)で行う。 |
| 翌1987年、映画『ラストエンペラー』公開。 |
| 坂本は甘粕正彦満映理事長役で俳優として出演し、音楽をデイヴィッド・バーン、コン・スーとともに担当。 |
| これによりゴールデングローブ賞を日本人で初めて受賞し、アカデミー賞作曲賞も受賞する。 |
| 溥儀役のジョン・ローンとは、敵役同士という間柄の役作りのために、撮影中は一言も口を利かなかったという「夜のヒットスタジオ」より。 |
| 1989年、海外戦略のためヴァージン・レコードに移籍するが、セールス的な成功を収めることはなかった。 |
| 1992年にはバルセロナオリンピック開会式のマスゲームの音楽を作曲、自らも会場でオーケストラを指揮した。 |
| 1994年には契約地域を分割し、日本ではフォーライフ・レコードに移籍し、レーベル「güt(グート)」を設立。 |
| 1995年、ダウンタウンの変名音楽ユニット「ゲイシャガールズ(GEISHA GIRLS)」をプロデュース。 |
| 以降、彼らとの親交を深め「ダウンタウンのごっつええ感じ」ではコント「アホアホマン」に出演、アホアホブラザー役でエキセントリックな一面を見せた。 |
| 1999年、製薬会社三共(現:第一三共ヘルスケア)リゲインのCMに用いられたピアノソロ曲「エナジー・フロー」を収録したマキシシングル「ウラBTTB」がミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルとしては初のオリコンチャート1位を記録した。 |
| 2006年11月6日、エイベックスと新レーベル「commmons」を共同設立。 |
| 2007年3月10日-5月28日、高谷史郎と共に、オペラ「LIFE」をベースにしたインスタレーション作品「LIFE-fluid,invisible,inaudible」を山口情報芸術センターにて展示。 |
| 2010年3月12日、芸術分野での優れた業績を評価され、文化庁より芸術選奨「大衆芸能部門」の文部科学大臣賞を授与された。 |