| 小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。 |
| 出立に際して龍馬は父・八平から「修業中心得大意」を授けられ、溝渕広之丞とともに土佐を出立した。 |
| 4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.242(または鍛冶橋の土佐藩上屋敷)に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現:東京都中央区)の門人となる。 |
| 道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小千葉」または「桶町千葉」として知られ、周作の「玄武館」(大千葉)とは別である。 |
| 道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われるさな)がいた。 |
| 龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。 |
| 自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。 |
| 龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている。 |
| (嘉永6年9月23日付書簡)原文「(前略)、軍も近き内と奉存候。 |
| 其節は異国の首を打取り、帰国可仕候。 |
| 」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)p.46。 |
| 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.72。 |
| 同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した『及門録』(増訂『象山全集』五巻、信濃毎日新聞、1934年)。 |
| そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教授されていた。 |
| もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。 |
| 安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。 |
| 在郷中に、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」を取得し、日根野道場の師範代を務めた。 |
| また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽記略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている河田小龍回顧録『藤陰略話』(明治20年代)。 |
| また、この時期に徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。 |
| 安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.12。 |
| 同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。 |
| 二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.60。 |
| 安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。 |
| 同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった山本琢磨を逃がす松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.12-13。 |
| 安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。 |
| 北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、発見、現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法・目録」を与えられた物であり、一般にいう剣術では無く、正しくは薙刀兵法であり「北辰一刀流長刀兵法・目録」が薙刀の目録であることについては、松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)、土居晴夫「北辰一刀流とその免許皆伝」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しい。 |
| 、は北辰一刀流としては一番低い「初目録」である。 |
| ただ千葉道場で塾頭を務めたことや、「免許皆伝を伝授された」という同世代の人物の証言もあるなど、優れた剣術家であった証拠は残っている。 |
| (安政5年7月付書簡)原文「又、明日は千葉へ、常州より無念流の試合斗り申候。 |
| 今夜竹刀小手のつくらん故、いそがしく(後略)」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)p.51。 |
| 同年9月に土佐へ帰国した。 |