| 1930年(昭和5年)新潟県長岡市生まれ。 |
| 新潟県立長岡中学校時代グライダー部に所属、3級滑空士の資格を得た。 |
| 3年生の時、志願して予科練に入隊するも、戦争は末期、飛行機も壊滅状態で飛行訓練どころではなかった。 |
| 終戦後、焼夷弾の不発弾を分解している時にそれが爆発、右手などを負傷。 |
| 『オケラ五世優勝す』p.60-61。 |
| 旧制新潟高等学校に入学。 |
| 絵画や陶器に親しむ。 |
| 卒業後、実家の商売を手伝って衣類の行商を行う。 |
| 上京し、世田谷交通のタクシー運転手を経て個人タクシー運転手となる。 |
| 二科展へ絵画を出展し入賞。 |
| 1966年、ディンギーY-15を購入し、佐島マリーナに陸置する。 |
| ディンギーを購入したのは10回も見た『真夏の夜のジャズ』というジャズコンサート実況映画のイメージ映像として登場したヨットに見惚れたためだという。 |
| 船名をブルーモンクと命名する(自著p.10-11)。 |
| 1969年(昭和44年)一杯飲み屋で偶然隣に座った真道恒平からクルーザー自作の話を聞き、その足で作業場へと行く。 |
| 建造中の21フィートのクルーザーと斉藤茂夫に対面。 |
| 同クルーザーの建造に合流。 |
| 建造で無一文になったと言う意味で船名をオケラ1世と名付ける。 |
| オケラ1世号を油壺の隣の諸磯湾に繋留。 |
| 仲間と大島などへのクルージングを経験。 |
| 1970年(昭和45年)オケラ1世号にて仲間とともに相模湾クラスVレースに毎月出場。 |
| 1972年昭和47年)三浦市南下浦金田の福寿寺杉山滴水和尚の好意で境内にてオケラ二世号を斉藤ほか数人の仲間と自作。 |
| 小笠原までのクルージングを経験。 |
| 1973年昭和48年)城ヶ島が眼の前に見える宮川漁港の空地を借り、オケラ三世号(30フィート)を斉藤ほか数人の仲間と自作。 |
| 1975年(昭和50年)、サンフランシスコから沖縄までの単独ヨットレースに参加することを決意。 |
| オケラ三世号をレースに使う許しを仲間から得て、単独でサンフランシスコまで回航。 |
| ヨットレース本番ではサンフランシスコから沖縄の海洋博会場沖まで52日でゴール、第4位。 |
| アマチュア無線仲間によるオケラ三世号および参加レース艇のサポート通信が行われた(オケラネットの始まり。 |
| 1977年(昭和52年)油壺ヨットハーバーにて西堀栄三郎(日本山岳会会長・第1次南極越冬隊長)に会い、植村直己の犬ぞり単独行計画を聞く。 |
| 植村直己への協力を開始。 |
| 1978年(昭和53年)植村直己の北極点犬ぞり単独行とグリーンランド犬ぞり単独行のサポート隊員を務める。 |
| その後シングルハンド世界一周レースの誘いを受け、オケラ五世の建造を決意。 |
| 1980年12月 三浦市雨崎にてオケラ五世の建造に着手。 |
| 斉藤茂夫の設計&自作。 |
| 何度も行き詰まるも、多くの仲間の協力や励ましを得て、1年がかりで完成。 |
| 西堀栄三郎の紹介で光電製作所などから資金協力を受ける。 |
| 1982年(昭和57年)小笠原までオケラ五世の試験航海。 |
| 5月中旬から4ヶ月弱かけ、パナマ運河を経由してアメリカ合衆国ニューポートまで回航。 |
| 同著 p.32-45。 |
| 1982年(昭和57年)8月28日~1983年(昭和58年)5月17日 第一回アラウンド・アローン(BOCレース)に参加。 |
| 1985年(昭和60年)8月 『オケラ五世優勝す』を出版。 |
| 第三回BOCレースに参加することを決意。 |
| スポンサーが付くことになる。 |
| メインスポンサーは光電製作所。 |
| 前回とは異なり、お金に余裕をもってヨットを建造できることになった。 |
| 完成したヨットは「KODEN・OKERAVIII」と名づけられた。 |
| 白石康次郎『冒険者』p.63-64。 |
| 1990年第三回BOCレースに参加。 |
| 前回同様にアメリカ合衆国ニューポートまで回航。 |
| 予定通りニューポートからスタートし、最初の寄港地ケープタウンにも無事入港。 |
| 出迎えの人々にサックスを吹いて聞かせた(しかし2010年5月17日放送のNHK「こころの遺伝子」のゲストだった弟子の白石によれば、その当時、多田は吹きたくなかったと言っていたという)。 |
| 同港を出発後、速度を増すために小さくしたキールのせいもあり、寒さ厳しい南氷洋で船が何度も横転した。 |
| その時、無線機・電子機器・CDプレーヤなどを破損。 |
| 大好きな音楽も聴けなくなる。 |
| シドニーへの寄航は六艇中五位、前回の好成績から高まった周囲の期待に相当な重圧を感じていた多田は憔悴していたという。 |
| シドニーでレースを棄権した後、1991年3月8日、ホテルで自らの命を絶ってしまう(60歳)。 |
| 白石康次郎同著p.64-65先に日本に帰国していた弟子の白石康次郎が、シドニーに戻り、葬儀の段取りを行い、遺骨を日本に持ち帰った。 |
| 多田雄幸とオケラ仲間が夢を語った福寿寺(三浦市南下浦金田)の境内へ、西堀栄三郎・植村直己・多田雄幸3人の友情を記した顕彰碑が建造された。 |