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つながりの強いひと
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多紀安琢
江戸時代末期の幕府医官。号は雲従。安琢は通称であり、名は元琰。 |
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矢数道明
昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師。医学博士。医史学者。文学博士。東洋医学の発展に貢献した業績により日本医師会より最高優功賞を受賞。 |
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浅田宗伯
浅田宗伯(あさだそうはく、文化12年5月22日(1815年6月29日)-明治27年(1894年)3月16日)は日本の漢方医、儒学者。諱は惟常、号は栗園。 |
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康宗
康宗(こうそう、1152年-1213年)は第22代高麗王(在位:1211年-1213年)。諡号は浚哲文烈亶聰明憲貽謀穆清元孝大王、姓は王、諱は。別名、王璹、王貞。明宗... |
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大塚敬節
昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師。東洋医学の発展に貢献した業績により1978年に日本医師会より最高優功賞を日本で初めて受賞。号は敬節(けい... |
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真柳誠
中国本草図録 巻1 蕭培根/主編 真柳誠/訳編集 出版社名 : 中央公論社 出版年月 : 1992年11月 ISBNコード : 978-4-12-403092-1
( 4-12-403092-4... |
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小島尚質
江戸時代 末期の幕府医官。初名は 和戚 、字は 学古 、号は 宝素 、通称は 喜庵 、 春庵 。幕府医学館考証派の重鎮。 代々幕府に仕えた医家・小島家の第八代... |
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小曾戸洋
平野重誠『病家須知』小曾戸洋監修、中村篤彦監訳、看護史研究会翻刻・訳注(農山漁村文化協会:2006) 平野重誠(1790-1867)は、江戸両国に生まれ、薬研堀... |
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渋江抽斎
江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者。名は全善、幼名は恒吉、字は道純、または子良、通称を道純という。また、抽斎は号であり、ほかにもいくつかの号を使... |
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森立之
森立之(もりたつゆき) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] (1807―1885) 江戸後期の医師、考証家。文化(ぶんか)4年 11月 江戸に生まれる。幼名伊織、字(... |
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多紀元簡
多紀元簡 【たき-もとやす】 1件の用語解説(多紀元簡で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 多紀元簡 たき-もとやす  ... |
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丹波康頼
丹波康頼(たんばのやすより、延喜12年(912年)-長徳元年4月19日(995年5月21日))は平安時代の医家。官位は従五位上・医博士、丹波介、左衛門佐。 |
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小曽戸洋
日本の医史学者。医学博士。北里研究所教授。北里大学東洋医学総合研究所医史学研究部部長、日本医史学会常任理事、日本東洋医学会理事、日本薬史学会評議員。 |
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桂川甫周
医師及び蘭学者。名は国瑞(くにあきら)であり、甫周は通称である。月池・公鑑・無碍庵などの号を用い、字は公鑑。父桂川家3代目桂川甫三は、前野良沢、杉田... |
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伊沢蘭軒
菅茶山遺稿 : 伊沢蘭軒旧蔵 菅茶山遺稿 : 伊沢蘭軒旧蔵 柏崎順子 解説
太平書屋 2009年11月刊行
ISBN : 本体8,000円+税 刊行時解説者所属 : ... |
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森鴎外
明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学... |
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天璋院
江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定... |
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辻元
自分の選挙に辻元清美が応援しており非常に身近な存在だったことや、おまけに辻元清美を府知事選挙に出そうと画策していたことが書かれていたり、同じく市議... |
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松本良順
江戸時代末期の幕臣・医師、明治期の軍医・政治家。爵位は男爵。大日本帝国陸軍軍医総監(初代)や貴族院勅撰議員などを務めた。父は佐倉藩藩医で順天堂を営... |
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奥医師
奥医師・ 林洞海 の六男として 江戸 で生まれ、 西周 の養子となる。 沼津兵学校 を経て、 1881年 (明治14年)11月、 海軍兵学校 (8期)を卒業。 1885年 (... |
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プロフィール
多紀元堅(たきげんけん/もとかた、寛政7年(1795年)-安政4年2月13日(1857年3月8日))は、江戸時代末期の幕府医官。名は元堅、号は茝庭(さいてい)、通称は安叔(あんしゅく)。幕府医学館考証派を代表する漢方医。子に同じく幕府医官の 多紀元琰がいる。
人物
| 江戸時代後期、医学館総裁を務めた多紀氏の分家・矢の倉多紀氏の初代。 |
| 医学館総裁多紀元簡(号は桂山)の第5子として生まれる。 |
| はじめ町医者として市中で開業していたが、天保6年(1835年)12月16日、幕府に召し出されて一家を興し、奥詰医師に任命される。 |
| 翌7年(1836年)11月19日、奥医師に任命され、同年12月16日、法眼に叙せられる。 |
| 同11年(1840年)12月16日、法印に昇進し、楽真院と称した。 |
| のちに、将軍徳川家慶の諡号「慎徳院」の「慎」と「真」の類似からこれを避け、楽春院と改称した。 |
| その後没するまで、家斉・家慶・家定の3代に仕えた。 |
| 考証派の学風は、古典医学書の収集・復元に努めるもので、その成果は中国のそれを凌駕するといわれる。 |
| 元堅自身も『傷寒論述義』をはじめとする多くの医書を著したほか、門弟多数を教育した。 |
| 幕末から明治初期にかけての医師には「多紀楽春院の門人」と称する者がきわめて多い。 |
| 森鴎外の史伝「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」にも元堅が登場する。 |
逸話
| 身分の上下にかかわらず診療し、貧困の者には金を与えることもあったという。 |
| 島津斉彬も患者のひとりで、天璋院の入輿にも一定の関与をしている。 |
| 将軍家定の臨終の場に元堅がいたというのは小説の虚構であり、事実ではない。 |
| 元堅の死去は安政4年、家定の死去は安政5年である。 |
| 元堅らが松本良順の考査を行なったのは、良順が蘭方医の子弟であったからではなく、幕府医官に養子が入る際には才学を確かめるという医学館の通常の職務を執行したにすぎない。 |
参考文献
| 森潤三郎『多紀氏の事績』 思文閣出版、1931年。 |
| 小曾戸洋「多紀元堅」 『朝日日本歴史人物事典』 朝日新聞出版、1994年。 |
関連項目
| 城官寺(東京都北区上中里)-東京都指定史跡「 |
| 元堅自身の墓所が同史跡に含まれるかどうかは不明。 |
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1835年
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幕府に召し出されて一家を興し、奥詰医師に任... |
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