| 1936年、台湾高雄市に移る。 |
| 1940年3月、高雄商業学校卒業後、1940年4月、明治大学商科に進学。 |
| 1943年には戦局の悪化でリーグ戦が中止となる。 |
| 同年5月23日に立教大学との間で行われた、戦前戦中では最後の対外試合にも出場した。 |
| 当時、チームの主将は嶋清一で、大下と嶋の打撃フォームの類似を指摘する説がある山本暢俊『嶋清一戦火に散った伝説の左腕』彩流社、2007年、P188-189。 |
| 陸軍少尉として、豊岡陸軍航空士官学校にて終戦を迎える。 |
| 戦後プロ野球再開と同時に新設球団セネタース1947年に「東急フライヤーズ」に、1948年には「急映フライヤーズ」に改名するが、1949年からは再び「東急フライヤーズ」となり、1954年に東映興業(東映子会社)へ球団経営を移管するまでその名前であった。 |
| に入団し、1945年11月の東西対抗戦で、戦後初となるサク越え本塁打を放ちデビュー。 |
| 1946年に20本塁打を記録。 |
| この年のリーグ本塁打数は211であり、大下はリーグ全体の本塁打の1割弱(9.5%)を1人で打ったことになる(この割合を2008年パ・リーグの本塁打数752に当てはめるとシーズン71本塁打に相当する)。 |
| 大下の出現は、敗戦に打ちひしがれた国民を狂喜させ、空前絶後のホームラン・ブームが起こり、川上哲治でさえもホームラン狙いの打撃フォームに変えたほどである。 |
| 現役当時の背番号はセネタース時代以来一貫して3。 |
| この番号は西鉄ライオンズの永久欠番であったが、後述の東映フライヤーズの監督就任時に本人が返上したため、1968年失効となった。 |
| 引退後はNHKの解説者、阪急ブレーブスの打撃コーチを務めたが、1年で解任。 |
| 2年契約だったので、技術顧問の肩書きで翌年も球団に残ったが、全くの窓際扱いで、時にはお茶くみなど雑用もこなしていたという。 |
| その後は関西テレビ・フジテレビの解説者を務めた。 |
| に、東急の後身である東映フライヤーズの監督へ就任。 |
| 監督時代は「サインなし、罰金なし、門限なし」の「三無主義」を打ち出した(実は大川博オーナーの発案で、大下の案ということにして実行させていた)が、最下位に沈みシーズン途中で辞任。 |
| 飯島滋弥二軍監督が監督代行となった。 |
| 当時は選手を「さん」付けで呼んだり、使わなかった選手に「申し訳なかった」と謝ったり等人の良さからペーソスを誘う存在となっていた。 |
| 主砲の張本勲が水原茂前監督のシンパと目されていたため「ハリさん、協力してくれ」としばしば懇願していた。 |
| しかし「協力しないというのは誤解」と曖昧な言葉しか返ってこなかったため、張本の目の前で脇差を抜き、自らの腕の動脈を切って見せ、「私の気持ちだ!わかってくれ!」と叫ぶという騒ぎを起こした。 |
| 張本は後に自著で「大下さんは純粋無垢、綺麗過ぎた。 |
| 言うなれば監督になってはいけない人だった」と述べている。 |
| その後、まで大洋ホエールズの打撃コーチを務め、長崎慶一、山下大輔らを一流選手に育てた。 |
| 当時、大下夫妻は東京都世田谷区経堂に住んでいたが、大洋退団後、野球の盛んな千葉県の地を気に入り、千葉市稲毛園生の丸紅ファミールハイツに移り住んだ。 |
| プロ野球界から退いた後は少年野球の発展に努め、自身の団地の子供たちを集め、千葉ファミールズ監督として甲子園球児(岩倉高校メンバー)を多く育てた。 |
| 少年野球チーム大下フライヤーズ(現:千葉市中央区大森フライヤーズ)監督、フジテレビ女子野球チームニューヤンキース監督、横浜市の本牧リトルリーグ監督などを歴任。 |
| 1978年6月、東京都隅田公園で少年野球指導中に倒れ、数日自宅で静養したが国立千葉病院に入院。 |
| 脳血栓と診断され左半身麻痺の後遺症が残り、石和温泉などで懸命にリハビリに取り組んだが、麻痺は残り手足が不自由となり自宅療養生活になる。 |
| 1979年5月23日早朝、脳血栓の療養中に逝去。 |
| 逝去翌年の1980年に小鶴誠、千葉茂と共に野球殿堂入り。 |
| 逝去当時は「脳血栓の後遺症による心筋梗塞」が死因と報道されたが、のちに致死量の睡眠薬を自ら飲んでいたことが辺見じゅんや桑原稲敏の著書によって明らかにされている。 |
| 墓所は千葉市若葉区にある市営平和公園墓地にあり、亡くなってから30年経た今でも多くのプロ野球ファン及び関係者が墓参りに訪れるなど根強い人気を誇る。 |