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つながりの強いひと
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大久保長安
戦国時代の武将。武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。 |
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本多正信
対立
戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の重臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。 |
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大久保忠世
父
大久保忠世(おおくぼただよ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)の大久保氏の支流である大久保... |
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春日局
安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号。父は美濃の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明... |
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本多正純
対立
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。江戸幕府の老中。下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。本多正信の長男で正信系本多家宗... |
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徳川秀忠
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。 |
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榊原康政
榊原康政(さかきばらやすまさ)は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。徳川四天... |
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本多忠勝
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。徳川... |
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大久保忠教
戦国時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本。徳川家臣・大久保忠員の八男。兄に大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠為ら。幼名は平助。一時忠雄とも名乗っ... |
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里見忠義
里見忠義(さとみただよし)は江戸時代初期の大名。安房国館山藩12万石の2代藩主。里見義康の長男。将軍徳川秀忠より一字をもらい受け、忠義と名乗った。 |
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大久保忠職
江戸時代前期の大名。大久保忠常の長男。母は奥平信昌と徳川家康の長女亀姫の娘。大久保忠隣の嫡孫に当たる。武蔵騎西藩主、美濃加納藩、播磨明石藩、肥前唐... |
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本田博太郎
茨城県水戸市出身の俳優。日本大学卒業。特技は剣道と柔道。長男は俳優の本田大輔。マツ・カンパニー所属。 |
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今川氏真
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。駿河国の戦国大名。駿河今川氏10代当主。父・義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれたためその領国を受け継... |
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土井利勝
安土桃山時代の武将。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川... |
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康公
康公(こうこう、?-紀元前609年)は中国春秋時代の秦の第10代君主。穆公の子。 |
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大久保彦左衛門
大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)は関西テレビ制作、フジテレビ系列にて1973年10月7日から1974年6月30日まで毎週日曜夜9時~9時55分に放送された白雪... |
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大久保忠常
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。武蔵騎西藩初代藩主。相模小田原藩主大久保忠隣の長男。母は石川家成の娘。正室は奥平信昌の娘(徳川家康の外... |
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酒井忠世
江戸時代初期の大名。江戸幕府の老中、大老。上野国内の那波藩主、伊勢崎藩主を経て同国厩橋藩2代藩主。雅楽頭系酒井家宗家2代。初代藩主・酒井重忠の長男。... |
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今川義元
戦国時代の武将、駿河国の守護大名・戦国大名。足利氏の傍流吉良氏の分家に当たる今川氏の出身で、駿河今川家第9代当主。父は第7代当主・今川氏親、母は父の... |
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浅井長政
戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井家の3代目にして最後の当主。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏... |
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プロフィール
- 大久保忠隣とは
- 生涯
- 人物・逸話
- 参考文献
- 演じた俳優
大久保忠隣(おおくぼただちか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・譜代大名。相模国小田原藩の初代藩主。父は 大久保忠世、母は近藤幸正の娘。講談で有名な旗本の 大久保忠教の甥にあたる。小田原藩大久保家初代。
生涯
| 天文22年(1553年)、松平氏(徳川氏)の重臣・大久保忠世の長男として三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)で生まれる。 |
| 永禄6年(1563年)から徳川家康に仕え、永禄11年(1568年)に遠江堀川城攻めで初陣を飾り、敵将の首をあげる武功を立てた。 |
| これを皮切りに、家康の家臣として三河一向一揆、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原の役などに従軍し活躍した。 |
| 三方ヶ原の合戦の折には、徳川軍が算を乱して潰走する中、家康の傍を離れず浜松城まで随従したことから、その忠節を家康に評価され、奉行職に列した『寛政重修諸家譜』によると、奉行職とは後の老中のような役職であり、若年の頃から徳川家中で枢要な地位にあったことを示唆している。 |
| 徳川政権の黎明期、まだ老中制度は確立されていなかったが、忠隣は政敵本多正信と共に、事実上の『初代老中』とも言うべき立場にあった(山本博文『お殿様たちの出世』54~55P)。 |
| 天正10年(1582年)の本能寺の変に際して家康の伊賀越えに同行、甲斐・信濃平定事業においても切り取った領国の経営に尽力した。 |
| この時大久保長安も抜擢され、長安は忠隣の元で辣腕を発揮し、忠隣から大久保の姓を与えられた。 |
| 家康の関東入国の折、武蔵国羽入2万石を拝領し、文禄2年(1593年)には家康の3男・徳川秀忠付の家老となる。 |
| 文禄3年(1594年)に父・忠世が死去すると、家督を継ぐと共にその遺領も相続して相模国小田原6万5,000石の領主(後に初代藩主)となる。 |
| 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時には東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、途中の信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立する(上田合戦)。 |
| 慶長6年(1601年)、高崎藩13万石への加増を打診されるが固辞した。 |
| 慶長15年(1610年)には老中に就任し、第2代将軍・秀忠の政権有力者となり、大御所となった家康が駿府で影響力を行使する二元政治の中、家康重臣である本多正信・正純父子と対立する。 |
| その底流には、武功派と吏僚派の対立があり、忠隣は武功派に強い求心力を持っていた。 |
| 本多父子が家康の後継者に結城秀康を推奨していたこともあり、側近として秀忠を後援する忠隣には、看過しがたいものがあった。 |
| 両者の対立は次第に顕在化の様相を呈し、慶長17年(1612年)の岡本大八事件を経て一気に沸騰する。 |
| さらに慶長19年(1614年)に起こった大久保長安事件に連座し、これに便乗する形で浪人の馬場八左衛門が忠隣が大坂の豊臣秀頼に内通していると誣告したため、家康の不興を買った。 |
| 忠隣はキリシタンの鎮圧の命を帯びて大坂へ赴いたところ、突如改易を申し渡され、近江国に配流されて井伊直孝に御預けの身となった。 |
| この時、栗太郡中村郷に5,000石の知行地を与えられている。 |
| その後、出家して渓庵道白と号し、寛永5年(1628年)6月27日に死去。 |
| 将軍家の許しが下る事はついになかった。 |
| 改易の主要な理由については表向きには馬場の訴状で指摘された豊臣との内通、長安事件の連座の他、忠隣の養女と山口重信との無断婚姻などが提示されているが、本多父子が長安事件を口実に利用し、政敵である忠隣を追い落とすための策謀を巡らせたとする見解も強い。 |
| 正純は岡本大八事件に部下が関与した事で政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣を排斥することで足場を固めておきたかったものと思われる。 |
| 『徳川実記』も本多父子による陰謀説を支持している。 |
| 藤野保『徳川幕閣』97~98P。 |
| また、豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく、和平論を唱える可能性のあった忠隣を遠ざけたとする説三津木國輝『小田原藩主大久保忠世・忠隣』などもあるが、明確な理由は不明である。 |
| 忠隣の累代における武功が大きかったことから、大久保家の家督は嫡孫の大久保忠職が継ぐことが許され(嫡男の忠常は早世)、その養子で忠職の従弟・大久保忠朝の時に小田原藩主として復帰を果たした。 |
| また、連座で謹慎していた次男の石川忠総は復帰を許され、大坂の陣で戦功を挙げたことから最終的に近江国膳所藩主となり、子孫は伊勢国亀山藩主となった。 |
人物・逸話
| 改易を言い渡されたのは慶長19年1月19日で、忠隣はこの時、京都の藤堂高虎屋敷で将棋を差していた。 |
| そこに前触れも無く家康の上使として京都所司代板倉勝重が現れたのを聞いて全てを悟り、「流人の身になっては将棋も楽しめぬ。 |
| この一局が終わるまでお待ちいただきたい」と告げると、勝重はそれを承知したという。 |
| また、忠隣の改易を知るや、京都の市民が大慌てし、「洛中洛外、物騒がしかりしに、京童ども、忠隣罪蒙ると聞きて、すはや事の起こるぞとて資財雑具等ここかしこに持ち運び、以ての外に騒動す」と藩翰譜にある。 |
| 井伊直孝が、家康の死後に大久保忠隣の冤罪を将軍秀忠に嘆願しようと図ったところ、忠隣は家康に対する不忠になるとして、これを断ったとされる。 |
| 関ヶ原の戦いの後に、家康が重臣を集めて後継者に関する相談をした時に、秀忠の兄の結城秀康や弟の松平忠吉の名前が挙がるなか、忠隣が秀忠を推薦したエピソードも知られる(『台徳院殿御実記』)。 |
| 秀次事件の際、豊臣秀次が秀忠を人質にして家康に仲介してもらおうと画策した。 |
| しかし忠隣は秀次が送ってきた2度の使者を巧みに追い返し、その間に秀忠を伏見屋敷に避難させて難を逃れたという(藩翰譜)。 |
参考文献
| 山本博文『お殿様たちの出世』(新潮選書)。 |
| 藤野保『徳川幕閣』(中公新書)。 |
| 三津木國輝『大久保忠世・忠隣』(名著出版)。 |
| 『世界人物逸話大事典』角川書店。 |
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1553年
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松平氏(徳川氏)の重臣・大久保忠世の長男と... |
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1568年
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遠江堀川城攻めで初陣を飾り、敵将の首をあげ... |
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