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大明忠
渤海の第9代王。大言義が病没すると、その弟である大明忠が即位し太始と改元した。しかし間もなく病死し、大祚栄の王位はここに断絶することとなった。王位は... |
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大祚栄
唐との修好関係以外に、突厥、契丹、新羅、日本との外交関係も構築し、海を隔てた日本を除く4ヶ国との緩衝国家としての地位を評価する説も存在している。719... |
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憲徳王
憲徳王(けんとくおう、生年不詳-826年)は新羅の第41代の王(在位:809年-826年)であり、姓は金、諱は彦昇。父は第38代元聖王の元太子の金仁謙(昭聖王によ... |
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大言義
大言義(だいげんぎ)は渤海の第8代王。大元瑜が病没すると、その弟である大言義が国務を担当し、唐に使者を派遣し先王の死を報告している。その後即位した大... |
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穆宗
穆宗(ぼくそう)は唐朝の第15代皇帝。820年に父の憲宗が宦官の王守澄によって殺害されると、その王守澄によって皇帝に擁立された。史書によれば主体性に欠け... |
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文宗
文宗(ぶんそう)は唐朝の第17代皇帝。敬宗の同年の異母弟である。 |
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大彝震
東北アジアにおいて極めて大きな勢力として周辺地域に影響力を与えることとなった。大彝震は府・州の確定と中央集権的な行政制度の確立に努め、同時に軍事機構... |
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金憲昌
コブスの中にあるコンテンツの単語とウィキペディアの中にある単語を結びつけるコンテンツです。リンクされたキーワードをクリックするとその意味を表示しま... |
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大武芸
大武芸(だいぶげい)は渤海の第2代王。唐より初めて渤海国王に冊封された。 |
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大玄錫
渤海の第13代王。大虔晃の死後、嫡孫の大玄錫が即位した。 |
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大元義
大元義(だいげんぎ)は渤海の第4代王。793年に大欽茂が病死した際、渤海王の継承を巡っての内部紛争が発生した。大欽茂の世子である大宏臨は父王に先立ち病... |
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大虔晃
大虔晃(だいけんこう)は渤海の第12代王。大彝震の死後、王弟の大虔晃が即位した。日本との交流の中、859年に烏孝慎ら104名の使節を日本に派遣した際、『長... |
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大欽茂
大欽茂(だいきんも)は渤海の第3代王。大武芸の第3子として生まれた大欽茂は737年に渤海国王の地位を継承すると、大興と改元した。即位後、唐は内侍を派遣し... |
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廃帝
東晋の第7代皇帝。3代皇帝成帝の次男で6代皇帝哀帝の同母弟。兄の死で即位するが、穆帝・哀帝時代から権力を牛耳っていた桓温の専横がなおも続いた。365年、... |
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大元瑜
大元瑜(だいげんゆ)は渤海の第7代王。大嵩璘が病没すると、その子大元瑜が即位し、永徳と改元した。唐は中宮の元文成を派遣して先王を弔問すると共に、大元... |
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簡王
簡王(かんおう)は周朝の第22代王。定王の子。在位期間中は晋、楚、秦、宋、鄭が相互に戦火を交え、また呉が勃興し、その攻撃により楚が滅亡寸前の状態とな... |
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後主
後主(こうしゅ)は南朝陳の末代皇帝。後世、亡国の君主として暗君の典型とされる。第4代皇帝・宣帝の長男。生母は柳皇后、異母弟に始興王・陳叔陵ら多数の弟... |
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永徳
永徳(えいとく、1978年1月16日-)は日本の俳優。千葉県出身。ジャパンアクションエンタープライズ所属。旧芸名は大岩永徳(おおいわひさのり)。 |
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康宗
康宗(こうそう、1152年-1213年)は第22代高麗王(在位:1211年-1213年)。諡号は浚哲文烈亶聰明憲貽謀穆清元孝大王、姓は王、諱は。別名、王璹、王貞。明宗... |
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プロフィール
- 大仁秀とは
- 周辺地域の攻略
- 唐との関係
- 日本との関係
- 海東の盛国
大仁秀(だいじんしゅう)は渤海の第10代王。 大仁秀は 大祚栄の弟であった大野勃の4世孫に当り、傍系の王族ながら 大明忠の王位を継承した。
周辺地域の攻略
| 大仁秀が即位した頃、新羅では王族の金憲昌派と憲徳王の対立がある、国内に政治的混乱が発生し、また飢饉の発生により国力を衰退させていた。 |
| この状況下、大仁秀は即位直後に新羅に対し軍事行動を起こした。 |
| 戦闘の結果、新羅は大同江に300里の長城を築き渤海の南下を阻止することとなり、渤海による軍事行動が相応の成果を得たものと考えられる。 |
| 新羅との国境を平定した大仁秀は海北の諸部、現在の興凱湖付近の靺鞨の平定に着手した。 |
| 靺鞨の各部族は唐へ直接入朝していたが、この時期より渤海に服属し、強大な勢力を誇った黒水部の平定にも成功している。 |
| 平定した靺鞨の地には行政機構を設置し、安定郡や鉄利郡などの行政機構がこの時期に設置された。 |
唐との関係
| 大仁秀は即位後唐に対し臣下の礼を取り、蕃礼を欠かすことがなかった。 |
| これに対し唐側でも渤海の入朝を非常に歓迎し、穆宗や文宗などは親しく渤海使と引見し、麟徳殿での宴を賜った記録が残されている。 |
| それ以外にも「渤海王子に官を加うるの制」などの勅書が残されており、唐と渤海の親密な関係を現在に伝えている。 |
| 事実王族の中から大公則をはじめ入朝させ、李居正・高寿海・朱承朝などの留学生を派遣し唐の文物制度を導入した渤海は大いに発展した。 |
日本との関係
| 大仁秀は引き続き日本への遣使を盛んに行なった。 |
| 即位直後はほぼ2年に1度の頻度で日本に使節を派遣していたが、淳和天皇の時代になると、渤海からの使節が多くの日本の物資を確保する姿勢から使節に対する厚遇を見直す動きが発生した。 |
| 824年に高貞泰を正使とする使節が来日した際には、応接を拒絶され退還させられ、828年に王文矩を正使とする使節は却廻との処分を受け、渤海使は国賓に非ず、貿易商人なりとの判断を受けそれ以降12年に1度(後に6年に1度に緩和)の遣使との取り決めが行なわれるようになった。 |
| 東アジアの国際情勢の中で日本との通交により新羅を牽制しようとした渤海側の意図も経済交流に主軸が移り、また当初は国賓の来朝を喜んだ日本側も、度重なる応接及び下賜品という商品の授与に経済的負担を感じ両国の関係に変化が生じてきた結果である。 |
海東の盛国
| 『新唐書』や『玉海』などの文献の中では渤海は海東の盛国と称された。 |
| この称号が何時の時代から使用されたかについては諸説あるが、この時期に混乱していた渤海国内をまとめ、周辺地域を平定した大仁秀の時代はまさに海東の盛国の時代の開始点であったと言える。 |
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大仁秀さんについてのひとこと紹介
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