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大伴旅人
大伴旅人(おおとものたびと、天智天皇4年(665年)-天平3年7月25日(731年8月31日)は奈良時代初期の貴族、歌人。大納言・大伴安麻呂の子。官位は従二位・大... |
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藤原不比等
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」... |
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大伴坂上郎女
『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌・短歌合わせ... |
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天武天皇
7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。 |
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大伴家持
大伴家持(おおとものやかもち、養老2年(718年)頃-延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言... |
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粟田真人
飛鳥時代後期から奈良時代にかけての貴族。姓は臣のち朝臣。父は春日粟田百済。子に人(または必登)・人上がいる。官位は正三位・中納言。 |
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大伴長徳
父
飛鳥時代の豪族。姓は連(むらじ)。別名馬飼・馬養(うまかいとも)。大徳冠大伴咋(おおとものくい)の子。弟に大伴馬来田・吹負。大紫冠・右大臣。632年(... |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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阿倍御主人
日本の飛鳥時代の人物である。氏は布勢・普勢(ふせ)ともされ、阿倍普勢(あべのふせ)の複姓で記される場合もある。姓は臣のち朝臣。左大臣・阿倍内麻呂の... |
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大伴御行
兄
日本の飛鳥時代の人物である。姓は連、後に宿禰。右大臣大伴長徳の子。正広三・大納言。贈正広弐・右大臣。672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に... |
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石上麻呂
日本の飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。麻呂は麿とも書く。氏姓ははじめ物部連で、後に物部朝臣さらに石上朝臣に変えた。物部氏の一族で、物部宇麻呂の... |
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下毛野古麻呂
飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。名は子麻呂あるいは子麿とも書く。姓は君のち朝臣。大義冠・下毛野久志麻呂の子。官位は正四位下・参議。 |
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巨勢郎女
妻
近江朝の高官で壬申の乱において敗戦し、遠流の刑に処せられています。つまり、巨勢郎女は、身分は高く教養があるが、世をはばかる立場にあります。 大伴家持... |
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高向麻呂
@nifty辞書 高向麻呂とは 高向麻呂 【たかむこの-まろ】 高向麻呂に近い言葉→ 高向玄理 | 長奥麻呂 | 高向公輔 | 高向家主 | 高向国押 | 坂上田村麻呂(75... |
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大伴吹負
日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは、「おほとものふけひ」。名は男吹負、小吹負(おふけい)とも書き、旧仮名遣いで「をふけひ」となる。姓... |
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小野毛野
飛鳥時代後期の公卿。小野毛人の子、小野妹子の孫。子に小野老・小野田守がいる。持統天皇9年(695年)7月、遣新羅使に任ぜられ、新羅へ渡航。文武天皇4年(7... |
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大海人皇子
大海人皇子の陰謀 超古代史壬申の乱 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます ... |
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石川内命婦
妻
万葉歌人。大伴安麻呂の妻で、坂上郎女、大伴稲公の母。石川命婦(いしかわのみょうぶ)とも書く。また『万葉集』には石川郎女という人物もみえており、石川... |
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慶雲
原田慶雲作品 略歴 大正11年4月17日 静岡市二番町に生まれる 平成22年5月3日逝去(行年89歳)
家具職人として腕を研き、後にポーラ化粧品草薙工場に勤務し... |
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大伴宿奈麻呂
奈良時代前期の官人。姓は宿禰。大納言大伴安麻呂の三男。母は不詳。兄弟に大伴旅人・大伴田主・大伴稲公がおり、異母妹の大伴坂上郎女を妻にした。田村大嬢... |
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プロフィール
- 大伴安麻呂とは
- 天武・持統朝
- 参議・大納言
- 永隆寺創建
- 年譜
- 系譜
- 参考文献
大伴安麻呂(おおとものやすまろ、生年不明-和銅7年5月1日(714年6月21日))は、日本の飛鳥時代から奈良時代の人物。姓は連、後に宿禰。大納言 大伴長徳の六男。大納言兼大将軍正三位、贈従二位。672年の壬申の乱では 大海人皇子( 天武天皇)の側に立ち、 大伴吹負からの連絡の使者になった。兄 大伴御行の死後、702年に参議として公卿に列し、705年に大納言になった。
天武・持統朝
| 壬申の年(672年)の6月、大海人皇子が近江の朝廷に対して兵を興すため東国に向かうと、倭(大和)の自宅にいた大伴吹負は皇子のために同志を募り、「一、二の族および諸豪傑」あわせて数十人を得た。 |
| 「一、二の族」の中に、大伴安麻呂があったと思われる。 |
| 吹負は29日に挙兵し、敵の内応によって倭京を奪取した。 |
| この成功を美濃国の不破宮に報じる使者に、大伴安麻呂、坂上老、佐味宿那麻呂がなった。 |
| 彼らは無事に任務を果たしたらしい。 |
| 宿那麻呂はこの後とって返して吹負の下で戦ったが、安麻呂のその後の行動は不明である。 |
| 同様に吹負のもとに返ったかもしれないが、別の方面にいたかもしれない。 |
| 天武天皇12年(684年)2月28日、広瀬王と大伴安麻呂が、判官、録事、陰陽師、工匠を引き連れて畿内を回り、都の候補地を探した。 |
| 大伴連安麻呂の位は、このとき小錦中であった。 |
| 天武天皇13年12月2日に、大伴連など50氏が宿禰の姓を与えられた。 |
| 朱鳥元年(686年)1月、新羅の使者金智祥を接待するために、川内王、大伴安麻呂、藤原大島、境部鯯魚、穂積虫麻呂が筑紫に使わされた。 |
| 大伴宿禰安麻呂は、このとき直広参であった。 |
| 9月9日に天武天皇が死ぬと、28日にその殯宮で直広参の大伴宿禰安麻呂が大蔵のことを誄した。 |
| 持統天皇2年(688年)8月10日、天武天皇の殯宮で、嘗して慟哭する儀式があった。 |
| このとき大伴宿禰安麻呂が誅を述べた。 |
参議・大納言
| 文武朝のはじめまで、大伴氏の氏上は兄の御行であり、安麻呂が政治の中枢に加わることはなかった。 |
| しかし大宝元年(701年)1月15日に御行が死ぬと、安麻呂が大伴氏の最高位となり、翌年には朝政に参議するようになった。 |
| 大宝元年(701年)3月21日、大宝令にもとづく官位が授けられたとき、直大壱大伴宿禰安麻呂は正従三位に進んだ。 |
| 大宝2年(702年)1月17日、従三位大伴宿禰安麻呂は式部卿になった。 |
| 同年5月21日、粟田真人、高向麻呂、下毛野古麻呂、小野毛野とともに、朝政に参議することを命じられた。 |
| これが参議のはじめで、このときは参議という官職に任命されたのではなく、「参議する」という仕事を命じられたのである。 |
| 同年6月24日、従三位大伴宿禰安麻呂は、兵部卿になった。 |
| 以上は『続日本紀』によるもので、『公卿補任』は細部が異なる。 |
| 大宝元年(701年)3月19日に安麿が従三位、中納言になり、21日に中納言をやめて散位になったとする。 |
| 翌年に式部卿というのは同じだが、二箇所で1月7日と4月7日の異なる日付を記す。 |
| それから5月17日に参議になり、6月19日に兵部卿を兼ねたとする。 |
| 慶雲2年(705年)8月11日、従三位大伴宿禰安麻呂は、大納言になった。 |
| 11月28日に、大納言従三位大伴宿禰安麻呂は大宰帥を兼ね、その大弐に石川宮麻呂が任命された。 |
| これも『公卿補任』では異なり、安麿が4月20日に中納言、8月1日に大納言、11月14日に大宰帥を兼ねたとする。 |
| 和銅元年(708年)3月13日に、正三位大伴宿禰安麻呂は大納言になった。 |
| 大納言は3年前と同じだが、この事情はよくわからない。 |
| 『公卿補任』は同じ月の12日に正三位になり、安麿が大宰師をやめたと記すだけである。 |
| 7月15日、元明天皇は、議政官とそれ以外の高級官人とを分けてそれぞれに訓示を与えた。 |
| 大納言大伴宿禰安麻呂は前者のうちにあった。 |
| 和銅7年(714年)5月1日に、大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麻呂は死んだ。 |
| 元明天皇は深く悼み、従二位を贈った。 |
| 『公卿補任』によれば、このとき鈴鹿王らが遣わされた。 |
永隆寺創建
| 永隆寺は、大伴氏の氏寺で伴寺とも呼ばれた。 |
| 平安時代に成立した『東大寺要録』には、永隆寺は大伴安麿が建立したものとある。 |
| それによれば飯高天皇(元正天皇)の世の養老2年(718年)に奈良坂東阿古屋谷に永隆寺が立ったとする『東大寺要録』巻6、末寺章第9。 |
| 筒井英俊・編『東大寺要録』、1944年、全国書房、249頁。 |
年譜
| 天武天皇元年(672年)6月29日。 |
| 大伴連安麻呂が倭京から不破宮に使者として遣わされた。 |
| 天武天皇12年(684年)2月28日。 |
| 大伴連安麻呂が畿内で都の地を探した。 |
| 天武天皇13年(685年)12月2日。 |
| 大伴連が宿禰の姓を与えられた。 |
| 朱鳥元年(686年)1月、新羅の使者金智祥を接待するために直広参大伴宿禰安麻呂が遣わされた。 |
| 朱鳥元年(686年)9月28日、直広参の大伴宿禰安麻呂が、天武天皇の殯宮で大蔵のことを誄した。 |
| 持統天皇2年(688年)8月10日、天武天皇の殯宮で嘗したとき、大伴宿禰安麻呂が誅を述べた。 |
| 大宝元年(701年)3月19日、大伴宿禰安麿が従三位、中納言になった。 |
| (『公卿補任』)。 |
| 大宝元年(701年)3月21日、直大壱大伴宿禰安麻呂が正従三位に進んだ。 |
| 大宝元年(701年)3月21日、従三位大伴宿禰安麿が中納言をやめ散位になった。 |
| (『公卿補任』)。 |
| 大宝2年(702年)1月17日、従三位大伴宿禰安麻呂が式部卿になった。 |
| (『公卿補任』では1月7日と4月7日)。 |
| 大宝2年(702年)5月21日、従三位大伴宿禰安麻呂が朝政に参議することを命じられた。 |
| 大宝2年(702年)6月24日、従三位大伴宿禰安麻呂が兵部卿になった。 |
| 慶雲2年(705年)4月20日、従三位大伴宿禰安麿が中納言になった。 |
| (『公卿補任』)。 |
| 慶雲2年(705年)8月11日、従三位大伴宿禰安麻呂が大納言になった。 |
| (『公卿補任』8月1日)。 |
| 慶雲2年(705年)11月28日に、大納言従三位大伴宿禰安麻呂が大宰帥を兼ねた。 |
| (『公卿補任』11月14日)。 |
| 和銅元年(708年)3月12日に、大納言従三位大伴宿禰安麿が正三位になり、大宰帥を辞めた。 |
| (『公卿補任』)。 |
| 和銅元年(708年)3月13日に、正三位大伴宿禰安麻呂が大納言になった。 |
| 和銅7年(714年)5月1日に、大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麻呂が死んだ。 |
| 従二位を贈られた。 |
参考文献
| 高島正人『奈良時代諸氏族の研究』、吉川弘文館、1983年、ISBN4-642-02118-3。 |
| 筒井英俊・編『東大寺要録』、全国書房、1944年。 |
| 星野良作「壬申の乱と大伴連氏」、『壬申の乱研究の展開』(吉川弘文館、1997年)所収、ISBN4-642-02316-X。 |
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