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売茶翁
江戸時代の黄檗宗の僧。煎茶の中興の祖。本名は柴山元昭、幼名は菊泉。法名は月海で、還俗後は高遊外(こうゆうがい)とも称した。肥前蓮池道畹(佐賀県佐賀... |
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伊藤若冲
近世日本の画家の一人。江戸時代中期の京にて活躍した絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事があ... |
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与謝蕪村
江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考... |
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慈雲
慈雲(じうん、享保3年7月28日(1718年8月24日)-文化元年12月22日(1805年1月22日))は江戸時代後期の真言宗の僧侶。戒律を重視し「正法律」(真言律)を提... |
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木村蒹葭堂
江戸時代中期の日本の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家... |
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池大雅
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日本の江戸時代の文人画家、書家。本来の苗字は池野(いけの)だが、中国風に池と名乗った。幼名は又次郎(またじろう)など。諱は勤(きん)、無名(ありな... |
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宇野明霞
宇野明霞(うのめいか、元禄11年5月20日(1698年6月27日)-延享2年4月14日(1745年5月15日))は江戸時代中期の日本の儒学者である。名を鼎、字を士新、通称... |
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菅茶山
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江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。 |
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末木文美士
日本の仏教学者。国際日本文化研究センター教授、東京大学名誉教授。専攻は仏教学、日本仏教を中心とした日本思想史・宗教史。文学博士。山梨県甲府市出身。... |
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堀川貴司
堀川 貴司 Horikawa Takashi
■ 所属
ドキュメンテーション学科
■ 職位
教授
■ 担当科目
書物文化論、日本書誌学、古版本演習、卒業論文演習、図書館資... |
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徳川家斉
江戸幕府第11代征夷大将軍(在位:1787年-1837年)。御三卿一橋家・第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。 |
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高芙蓉
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江戸時代中期の儒学者、篆刻家、画家である。日本における印章制度を確立して印聖と讚えられる。苗字の高は出身地の甲州高梨郡に因んで自ら名乗ったもので、... |
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長沢芦雪
江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。長澤蘆雪とも。名は、政勝、魚。字は、氷計、引裾。通称、主計。芦雪の他、別号に千洲漁者、千緝なども用いた。円山応挙の... |
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慈周
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江戸時代中期の天台宗の僧侶、多くの漢詩を残している。父は医者苗村介洞。字は六如。号は白楼・無着庵。近江国の出身。1744年(延享元年)に出家。幼い頃か... |
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片山北海
江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人である。京都の江村北海、江戸の入江北海とともに三都の三北海と称された。名を猷、字は孝秩、通称を忠蔵、号は北海の他に... |
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朽木昌綱
丹波福知山藩の第8代藩主。福知山藩朽木家9代。 |
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龍草廬
江戸時代後期の儒学者・漢詩人である。姓は武田。名は公美(ときのり)。字は君玉。通称は彦次郎、後に衛門とした。草廬は号である。一時期、名は元亮に、宇... |
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円山応挙
江戸時代中期の絵師。近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。諸説あるが「足のない幽霊... |
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プロフィール
大典顕常(だいてんけんじょう、享保4年(1719年)-享和元年2月8日(1801年3月22日))は江戸時代中期の禅僧、漢詩人である。近江国の生まれで相国寺に住し、わが国初の茶経への注釈書である茶経詳説を相国寺のもとで著す。大典と 売茶翁との交遊は有名。宝暦13年(1763年)に刊行された 売茶翁の詩偈集である 売茶翁偈語(ばいさおうげご)の巻頭に『 売茶翁伝』を著している。また 伊藤若冲の支援者としても知られる。書で漢詩をよくし京都禅林中最高の詩僧と称され生涯に70冊以上の書を著した。 ...
略歴
| 近江国神崎郡伊庭郷(現滋賀県東近江市)の儒医今堀東安の子として生まれたとされるが、権大納言園基勝(そのもとかつ)の私生児でその後里子に出されたとの説が有力である。 |
| 8歳のとき父と上京し、はじめ黄檗山の華蔵院に入ったが臨済宗に転じて11歳で相国寺慈雲庵にて得度する。 |
| 独峰慈秀の下で禅の修行に勤しみながらも、20代後半まで宇野明霞や大潮元皓に儒学の一派である古文辞学を学んでいる。 |
| 儒学の師明霞が歿した3年後に、大典は師の遺稿を編集して『明霞先生遺稿集』として刊行しているが、師の信任が篤かったことが伺える。 |
| 明霞門の盟友に片山北海がいるが、彼の主催する混沌詩社にも参加して詩文を磨いている。 |
| 32歳で住持になるが師独峰が示寂すると病気を理由に致仕を願い出て許される。 |
| 公務に縛られることなく、すべてを捨てて、漢詩、書に身を投じて過ごしたいという文人的境地に達し、編書のみを社会的な接点にして、決断をもって道にした。 |
| このときのことを壮年、後の書にした気迫から落胆も窺われる。 |
| 43歳のとき代表作『昨非集』を刊行した後、旺盛に詩作と著述に励んだ。 |
| 多くの文人墨客と積極的に交わり、特に六如慈周とは終生の親交をもった。 |
| 中国において貴重な経典が失われる事件があったとき、大典は慈周とともにこの寄贈を果たしたというエピソードがある。 |
| ほかにも異才の画家伊藤若冲に支援を続け、相国寺の襖絵などを画かせている。 |
| また売茶翁の高貴な風情に即した煎茶道を尊守しこれを広めた。 |
| さらに木村蒹葭堂と協力して清国の『煎茶訣』を刊行し本邦に紹介している。 |
| 売茶翁の生涯を綴った唯一の伝記「売茶翁伝」(『売茶翁偈語』の巻頭)を著し後世に伝えた。 |
| そのほかにも池大雅の詩文の師であり、菅茶山、高芙蓉、葛子琴、篠崎三島らとの交流が伝えられている。 |
| 53歳になり帰山すると相国寺住持に推され、続いて京都五山碩学と朝鮮修文職を任じられる。 |
| 62歳のとき、対馬の以酊庵に住持として2年間赴任する。 |
| 帰山後は南禅寺住持になり、幕府の辞令を受け拝礼のため江戸へ下る(1785年)。 |
| 楽翁に優遇され、再度江戸に招かれている。 |
| このころに朝鮮通信使に関する国書の起草に関与しているが、以降朝鮮外交に関して幕府顧問となって活躍した。 |
| 天明の大火(1788年)で相国寺も全焼し貴重な典籍の再収集や再建に尽力している。 |
| 享和元年(1801年)歿。 |
詩
| 古文辞派の詩風ではあったが、和歌の教養も深くその要素を漢詩に取り込もうと試みている。 |
| 仏教的な枠に囚われることなく自由で大胆な作風である。 |
| 多くの詩集を刊行し、現在でもそれを読み解く感じ方は深い。 |
| 風紀な観点のものはお軸の画題などに残り、煎茶道の精神の根源となっている対客言志に尽きる。 |
| 『昨非集』2巻2冊 (1761年)。 |
| 『小雲棲稿』12巻6冊(1775)。 |
| 『北禅文草』4巻2冊(1792)。 |
| 『北禅詩草』6巻2冊(1792)。 |
| 『北禅遺草』8巻4冊(1807)。 |
| 『大典禅師陀』1冊(1806)。 |
| 『小雲棲詠物詩』2巻2冊(1787)。 |
| 『萍遇録』2冊(1764)。 |
| 『小雲楼論語鈔説』。 |
| 『小雲楼詩書鈔説』。 |
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1763年
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刊行された売茶翁の詩偈集である売茶翁偈語(... |
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