5894
6023
79772
%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%95%93%E4%BC%8D
%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%95%93%E4%BC%8D
%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%95%93%E4%BC%8D
%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%95%93%E4%BC%8D
%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%95%93%E4%BC%8D
0
|
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
関連商品
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
塚本三郎
塚本三郎(つかもとさぶろう、4月20日-)は日本の政治家。元民社党委員長。元衆議院議員(通算10期)。愛知県名古屋市出身。旧制明倫中学校(現愛知県立明和... |
|
|
永末英一
日本の政治家。民社党委員長、衆議院議員(通算10期)、社会主義インターナショナル副議長。福岡県生まれ。 |
|
|
佐々木良作
日本の政治家。雅号は良素。民社党委員長(第4代)、衆議院議員(12期)、参議院議員(1期)を歴任。実兄は元中央大学総長升本喜兵衛、岳父は元鹿島建設副社... |
|
|
春日一幸
日本の政治家、実業家。勲章は正三位勲一等旭日大綬章。衆議院議員(14期)、民社党委員長(第3代)を歴任した。 |
|
|
羽田孜
日本の政治家。衆議院議員(14期)。民主党最高顧問。元内閣総理大臣(第80代)。(在任期間:1994年4月28日-6月30日)。農林水産大臣(第9代、12代)、大蔵... |
|
|
森田健作
日本の俳優、歌手、タレント、政治家。千葉県知事。 |
|
|
西村栄一
日本の政治家。衆議院議員(連続11期)、民社党委員長(第2代)、同党書記長。正三位勲一等。西村眞悟元衆議院議員の実父、西村章三元衆議院議員の伯父。 |
|
|
大久保直彦
大久保直彦(おおくぼなおひこ、1936年4月10日-)は日本の政治家。東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒業。元衆議院議員(8期)。元参議院議員(1期)。 |
|
|
米沢隆
日本の政治家、UIゼンセン同盟政治顧問。衆議院議員(通算9期)、民社党委員長(第8代)、同党書記長、同党政策審議会長、新進党幹事長、同党副党首、民主党... |
|
|
鳩山邦夫
日本の政治家。衆議院議員(11期)。「邦」の字体は、偏の縦の払いが上にはみ出ないのが正式とされる。文部大臣(第116代)、労働大臣(第58代)、法務大臣(... |
|
|
村山富市
日本の政治家。勲等は桐花大綬章。社会民主党名誉党首、学校法人明治大学顧問。大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、衆... |
|
|
坂口力
日本の政治家。公明党所属の衆議院議員(11期)。厚生労働大臣(初代)等を歴任。医師、医学博士。 |
|
|
井出正一
日本の実業家、政治家。衆議院議員(3期)、厚生大臣(第83代)、新党さきがけ代表(第2代)を歴任。現在は政界を引退し、橘倉酒造会長。 |
|
|
柳田稔
日本の政治家。民主党所属の参議院議員(3期)。法務大臣(第85代)、衆議院議員(2期)、民主党参議院幹事長、参議院財政金融委員長、参議院厚生労働委員長... |
|
|
石田幸四郎
日本の政治家。北海道出身。明治大学商学部卒業。元衆議院議員(10期)。実兄に元参議院議員の石田次男がいる総務庁長官(第13代、第14代)。公明党委員長(... |
|
|
河野洋平
日本の政治家。衆議院議員(14期)、衆議院議長(第71・72代)、副総理(村山内閣・村山改造内閣)、外務大臣(第122・127・128・129・130代)、内閣官房長官... |
|
|
渡辺美智雄
日本の政治家。副総理、蔵相、外相などいくつもの大臣職を歴任。中曽根派を継承して派閥の領袖。衆議院議員。税理士。栃木県大田原市出身。従二位勲一等旭日... |
|
|
不破哲三
日本の政治家。日本共産党前中央委員会議長。元衆議院議員。現在、党中央委員会常任幹部会委員で、党付属社会科学研究所所長。“不破”はペンネームで本名は上... |
|
|
柿沢弘治
柿沢弘治 出典: 軍人データベース 『サクラタロウDB』 移動: 案内 , 検索 氏名 かきざわこうじ 柿沢弘治 官位 主な補職 外務大臣・衆議院議員 ... |
|
|
細川護熙
日本の政治家、陶芸家。公益財団法人永青文庫理事長、東北芸術工科大学学園長(初代)、京都造形芸術大学学園長(初代)。参議院議員(3期)、熊本県知事(第... |
|
|
プロフィール
- 大内啓伍とは
- 民社党職員
- 衆議院議員
- 民社党委員長
- 非自民連立政権
- チリ・クーデターを支持
- 略歴
- 著書
大内啓伍(おおうちけいご、1930年1月23日-)は、日本の政治家。勲等は勲一等。衆議院議員(通算6期)、厚生大臣(第76代・第77代)、民社党委員長(第7代)、同党書記長、同党政策審議会長、自由連合総裁(初代)などを歴任。
民社党職員
| 早稲田大学法学部卒業、イェール大学留学。 |
| 学生時代は当初司法試験受験を目指していたが、実家である銀座の割烹旅館を訪れていた春日一幸衆議院議員に誘われ政界入りする。 |
| 1953年に右派社会党政策審議会事務局に就職。 |
| 1960年の民社党結党に参加し、党政策審議会事務局長、副会長を歴任した。 |
| 1971年には民社党の理論誌『革新』を創刊し、編集長に就任寺井融によると、実務は寺井が行ったという。 |
| 1973年、アウグスト・ピノチェトによるチリ・クーデター後、民社党チリ調査団の一員としてチリに入国し、12月18日にピノチェトの取材を行った。 |
衆議院議員
| 1976年12月、第34回衆議院議員総選挙にて旧東京都第2区より初当選した。 |
| 旧東京2区は石原慎太郎(自由民主党)や上田哲(日本社会党)、鈴切康雄(公明党)らがしのぎを削る激戦区であり、大内も党幹部でありながら毎回苦戦を強いられた。 |
| 1977年11月、民社党政策審議会長に就任し、1985年4月、書記長に昇格した。 |
| しかし、衆参同日選挙となった1986年の第38回衆議院議員総選挙では、撚糸工連事件で疑惑浮上した横手文雄の離党記者会見に同席した影響からか大内自身も落選した。 |
| 1989年2月、塚本三郎党委員長がリクルート事件に関与したとされる疑惑の責任を取り執行部が総退陣し、大内も書記長を辞任した。 |
民社党委員長
| 1990年2月の第39回衆議院議員総選挙で代議士に返り咲き、同年4月、党委員長に就任、鈴木尚之を秘書に採用した。 |
| しかし、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙で民社党は敗北し、同党は交渉会派から転落した。 |
| 1993年7月の第40回衆議院議員総選挙では解散前微増の15議席を獲得した。 |
| TBS『クイズダービー』の「野党の委員長と1年生議員大会」で当時1年生議員の柳田稔と出場し見事10万点を達成した。 |
非自民連立政権
| 第40回衆議院議員総選挙の結果を受け、民社党を含む非自民8党派は細川護熙を首班とする連立政権の樹立に合意した。 |
| 細川内閣で大内は厚生大臣として入閣した。 |
| 1994年2月に細川首相は消費税を7%とする国民福祉税構想を発表するが、この構想を大内厚相は全く知らず、武村正義内閣官房長官や村山富市社会党委員長らと共に反対した。 |
| 1994年4月に羽田内閣でも厚生大臣に再任されたが、2ヶ月で内閣総辞職した。 |
| なお、同年6月に党委員長を退任した。 |
| 同年12月、新進党へ合流するため、民社党は解党。 |
| しかし、創価学会を支持母体とする公明党が新進党に合流することを理由とし、大内は党常任顧問の塚本三郎とともに新進党への不参加を表明した。 |
| 塚本は霊友会、大内は立正佼成会の支持を受けていたことが背景にあった。 |
| 塚本は直接、大内は自由連合を経由し、村山内閣で与党に復帰した自民党に入党した。 |
| なお、自由連合では総裁の地位にあった。 |
| 1995年には自民党東京都連の最高顧問に就任し、2000年まで務めた。 |
| 1996年10月の第41回衆議院議員総選挙には東京4区から自民党公認で出馬するも、落選。 |
| 1998年、東京4区補欠選挙に一旦出馬を表明したが自民党幹事長加藤紘一から次期衆院選比例上位を確約され不出馬。 |
| 2000年の第42回衆議院議員総選挙では比例東京ブロックから自民党公認(名簿単独5位)で出馬したが、落選した。 |
チリ・クーデターを支持
| 反共主義を信奉しており、1973年のチリ・クーデターを支持した。 |
| 『朝のこない夜はない:保革伯仲から連合時代へ』によれば、大内はピノチェトの倒した左翼のサルバドール・アジェンデ政権が、選挙で保守・中道共倒れによる漁夫の利(得票率36.3%)であることを理由に「必然性のない政権誕生」(44ページ)と主張。 |
| 「国民生活は破壊され暗黒社会の様相」「自由と諸権利が不法に侵され」(前掲書56ページ)たと厳しく批判した(なお、クーデター後に成立したピノチェト政権下では「国民生活は破壊され暗黒社会の様相」で、「自由と諸権利が不法に侵され」ていた。 |
| アウグスト・ピノチェト#大統領時代を参照のこと。 |
| その上で、「議会制民主主義を至上のものとするわれわれが、軍事クーデターそのものを容認することはできない」と前置きしつつ、「軍の行動を必然化させたアジェンデ政権の無法なやり方そのものに根本の問題がある」(前掲書71ページ)と主張した。 |
| ピノチェトの「経済の状態が回復されたとき、そこに新憲法を制定し、新しい議会を創設し文民政治に服する」との発言を引き、「それには最低二、三年の年月を要することであろう。 |
| (中略)いま左翼の間では、クーデターの責任を米国に転嫁しようとしたり、またクーデターによる殺傷、抑圧を強調することによってアジェンデ政権の姿勢を合理化しようとする試みが盛んに行われている。 |
| しかしそのようなことは、チリの大多数の国民の受け入れないところであろう。 |
| / 私は自分の耳と目で、そのことを実際にチリで確かめてきた。 |
| 」(前掲書72〜73ページ)と結論づけている(チリの「新憲法」制定は1980年で、ピノチェトの独裁は1990年まで続いた)。 |
| しかし、ピノチェト政権下のチリでは非共産勢力(キリスト教民主党など)も少なからぬ弾圧を受けていることから、大内の件の発言はまったくの虚偽である。 |
| アジェンデを非難し、ピノチェトクーデターを支持したのは、選挙協力や連立政権構想から日本共産党を排除する目的もあった。 |
| 大内は、「マルクス・レーニン主義勢力は、チリの場合のみならず、その独裁政権を確立する過程でつねに連立政権を求めてきた」(前掲書76ページ)と定義づけ、日本共産党も他の共産主義政党のように独裁政権を狙うと非難した。 |
| 日本共産党排除の大義名分とするためには、アジェンデ政権を「独裁政権」として全否定する必要があったのである。 |
略歴
| 1953年-右派社会党政策審議会事務局。 |
| 1960年-民社党結党。 |
| 1971年-党機関紙『革新』編集長就任。 |
| 1973年-民社党チリ調査団。 |
| 1976年-第34回衆議院議員総選挙当選。 |
| (以来、連続4選)。 |
| 1977年11月-民社党政策審議会長就任。 |
| 1985年4月-民社党書記長に昇格。 |
| 1986年-第38回衆議院議員総選挙落選。 |
| 1990年2月-第39回衆議院議員総選挙当選。 |
| (以来、連続2選)。 |
| 1990年4月-民社党委員長に昇格。 |
| (1994年5月退任)。 |
| 1993年8月9日-厚生大臣として初入閣。 |
| (翌年6月退任)。 |
| 1994年12月9日-民社党解党。 |
| 自由連合を経て、翌年、自民党入党。 |
| 1996年10月20日-第41回衆議院議員総選挙落選。 |
| 2000年4月29日-勲一等旭日大綬章受章。 |
| 2000年6月25日-第42回衆議院議員総選挙落選。 |
著書
| 『朝のこない夜はない:保革伯仲から連合時代へ』富士社会教育センター出版局、1975年。 |
| 『われ、事に後悔せず』大和出版、1995年3月、ISBN4804713417。 |
|
1930年
|
大内 啓伍(おおうち けいご)は、日本の政治... |
|
1953年
|
右派社会党政策審議会事務局に就職 |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
大内啓伍さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|