| 師匠からマンツーマンの厳しい指導を受け、体格に似合った押し相撲を体得。 |
| その後は順調に番付を上げていき、わずか4年半で1969年9月場所に十両に昇進した。 |
| 「大受」の四股名は、論語衛霊公の「君子は小知すべからず、大受すべし」(君子は小事にとらわれず、大事を任せられる)という一節からとられたものである。 |
| 1970年3月場所に西十両筆頭で14勝1敗の好成績で十両優勝。 |
| 翌5月場所に新入幕(東前頭6枚目)を果たすと徹底した押し相撲で勝ち越し、早くも技能賞を受賞し幕内に定着した。 |
| 1971年3月場所5日目、初日から4連敗だった新関脇の大受は初めて横綱大鵬を一気の押しで破り、この場所を勝ち越し見事殊勲賞を受賞、上位キラーとして三賞の常連に。 |
| この年7月場所まで関脇を保守したのち一時平幕に甘んじていたが、1973年5月場所に関脇に復帰すると2場所連続で終盤まで優勝争いに加わり、7月場所には13勝を挙げて史上初めて三賞を独占した。 |
| 翌9月場所に大関に昇進したが、腰痛もあり途中休場。 |
| 以降、首・右膝の故障にも悩まされ1974年5月場所を最後に関脇に陥落。 |
| 大関在位は5場所に終わり、最高位が大関だった力士では6場所制になってからは1位の短命記録だった(短命大関の2位は増位山の7場所)。 |
| 関脇に陥落した翌7月場所は、10勝以上すれば規定により1場所で大関に復帰出来たが、9勝6敗の成績でわずか1勝足りずに大関復帰を逃した。 |
| その後は満身創痍の土俵が続いていたが、左膝も故障し幕内下位でも成績を残すことができなくなり、1977年5月場所には大関経験者で初めて十両に陥落した。 |
| 当時、年寄名跡を取得しておらず、かつ「年寄名跡を持っていなくても、引退後3年間は四股名のまま年寄として残れる」という現在の大関の特権もなかったため、やむなく出場することとなったが、初日から3連敗を喫し、4日目から途中休場に追い込まれ、場所後に現役を引退し偶々空き名跡になっていた年寄・楯山を襲名した。 |
| 取り口は広い肩幅を生かし徹底した押し相撲で、「まわしを取ったら三段目の実力しかない」と言われるほどだったが、当時相撲解説者の玉の海梅吉が「土の匂いのする力士」と評するほど押し一徹を貫き通した。 |
| 引退後は現役末期から不仲だった師匠の下を離れ、伊勢ヶ濱部屋で後進の指導に当たっていたが、1997年5月場所中に同じ一門の朝日山親方(元小結・若二瀬)が急逝。 |
| 師匠代理の後に年寄・朝日山を襲名し朝日山部屋を急遽継承した。 |
| 暫く関取が不在で低迷していた時期もあったが、先代からの弟子である大真鶴が幕内まで昇進した。 |
| 年寄としては1980年から審判委員に就任し、2009年1月場所まで務めた。 |
| その後、2011年4月から再び審判委員となった。 |
| 元大関でありながら、師匠と同様に出世欲があまりないのか、役員や役員待遇の経験がない。 |
| また役員ではない親方が組織する年寄会の会長を務めている。 |
| 大受の時代の技術では一旦入れたシリコーンは除去不能であったため、全体的に頭の形状自体が変形し頭頂部が突き出ていた(後に舞の海も頭部にシリコーンを入れて新弟子検査を通過したが、大受と異なり、除去可能になっていた)。 |
| 引退後は審判委員を長く務めており、特に隠しもしなかったため、頭頂部が尖った楯山の姿は平成10年代までは毎場所幕内取組時に土俵下で見ることができた。 |
| その後頭痛に悩まされるようになったため、2009年春に除去手術を受けた。 |
| 杉山邦博によると、頭の中でシリコーンがグチャグチャになっていたらしく全てを綺麗に取り除くことはできなかったようだという(同年5月に出演したTBSラジオの番組にて発言)。 |
| 審判委員として長らく大相撲中継のテレビ画面に登場していたため、その際に親方の姿を見ることができた。 |
| なお、1973年11月場所の12日目、横綱琴櫻との一番で、お互いが頭を鉢合わせするような形でぶちかましたところ、琴櫻は脳震盪を起こして倒れてしまった(決まり手は突き落とし)。 |
| 取組後、琴櫻は「あんな石頭は初めてだ」とコメントしている。 |
| シリコーンが凶器となった可能性があるが、当時はそのことがあまり知られていなかったらしく、特に問題とはされなかった。 |