| 第二次世界大戦後、GHQの指令で軍人の銅像が軍国主義の象徴とされ鋳潰されるなか、軍装で乗馬姿の大山像は破却を免れた。 |
| そこには連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの功績があったことはあまり知られていない。 |
| マッカーサーにとって大山巌はナポレオンとならぶ英雄で、かねてよりその肖像画を自宅の書斎に飾るほど崇拝していたという。 |
| ファイル:GraveofOyamaIwaoinautumn.jpg|thumb|200px|栃木県那須塩原市の大山巌墓所参道。 |
| モミジ・ヒノキの並木が整備されており、新緑や紅葉の時期には美しい景観となるという{{Citeweb。 |
| 家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。 |
| 西南戦争では政府軍の指揮官として親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、による精神的ダメージから、以後、政治から距離を置くきっかけとなったと言われている(戦争後から寡黙になった)。 |
| また、-->二度と鹿児島に帰る事はなかった。 |
| ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。 |
| ジュネーブ留学時、ロシアの革命運動家レフ・メーチニコフと知り合う。 |
| のちに「東京外国語学校(旧制)」教師として赴任したが、大山の影響によるといわれる。 |
| 『回想の明治維新 一ロシア人革命家の手記』(岩波文庫)と『亡命ロシア人の見た明治維新』(講談社学術文庫)。 |
| ちなみに医学者のイリヤ・メチニコフはレフ・メーチニコフの実弟である。 |
| 従兄弟の西郷隆盛も大柄で肥満体だったが、大山もなかなかのものであった。 |
| その体型と顔の印象から「ガマ」(ガマガエル)というニックネームで呼ばれていた。 |
| しかも西洋かぶれでかなりの美食家であった。 |
| 息子の大山柏の回想によると40cm以上もある鰻の蒲焼がのった鰻丼をペロリと完食し、ビーフステーキとフランスから輸入した赤ワインが好物で、体重は最も重いときで95kgを越えていたという。 |
| その結果晩年は糖尿病に悩まされていた。 |
| 妻の捨松は友人への手紙で「主人は最近ますます太り、私はますますやせ細っています。 |
| 大山は非常に西洋文化への憧憬が強く、また造詣も深かった。 |
| 捨松との再婚の時の披露宴招待状は全文がフランス語で書かれた物で人々を仰天させたという。 |
| 陸軍大臣公邸を出たあとに建てた自邸はドイツの古城をモチーフとした物だった。 |
| しかし、見た目の趣味はお世辞にもいいとはいえない代物で、ここを訪ねた捨松の旧友(アメリカ人)にも酷評されている。 |
| 巌はこの新居に満足していたが、妻・捨松は「あまりにも洋式生活になれると日本の風俗になじめないのでは」と、自分の経験から子供の将来を心配し、子供部屋は和室にしつらえていた。 |
| この建物は1923年(大正12年)の関東大震災により崩壊した。 |
| また後藤象二郎、西園寺公望らと共に「ルイ・ヴィトンの日本人顧客となった最初の人」として、ヴィトンの顧客名簿に自筆のサインが残っている。 |
| 大山は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。 |
| 日露戦争の沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話がある。 |
| ただし俊異の性格は日露戦争中も残っており、児玉が旅順に第三軍督励のため出張している間は、大山が自ら参謀会議を主宰し、積極的に報告を求め作戦を指揮したという公式記録が残っている。 |
| 1905年(明治38年)12月7日にようやく東京・隠田の私邸に凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを挙げている。 |
| 病床についてから死ぬ間際まで永井建子作曲の『雪の進軍』を聞いていたと伝えられている。 |
| 大山の死は夏目漱石の死の翌日のことだった。 |
| 新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものだったが、それが大山と他の元老たちの違いを改めて印象づけた。 |
| 12月17日の国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えた。 |
| かつての敵国の武将からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の二人だけだった。 |
| 大山家は、東京・表参道(隠田一丁目=当時)に広大な私邸を持っていたが、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の5月の東京大空襲で焼失した。 |
| 陸上自衛隊宇都宮駐屯地には大山の遺品が多数収蔵され、資料館に展示されている。 |