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升田幸三
将棋棋士。実力制第4代名人。広島県双三郡三良坂町(現三次市)生まれ。名前は正しくは「こうそう」と読むが、将棋界では「こうぞう」で通した。木見金治郎九... |
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中原誠
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永世名人
永世名人(えいせいめいじん) - カルチャー&エンタテインメント - 2007年7月22日 将棋の名誉称号の1つ。「名人」とはもともと、江戸時代初期の1612年に大橋... |
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将棋棋士。棋士番号77。兵庫県神戸市出身。藤内金吾八段門下。演歌歌手、詰将棋作家としても活動。レコードジャケット、音楽配信での氏名の表記は「内藤国雄... |
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大内延介
将棋棋士。2010年、引退。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は86。東京都港区出身。中央大学卒業。 |
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山田道美
山田道美(やまだみちよし、1933年12月11日-1970年6月18日)は昭和期の将棋棋士。金子金五郎九段門下。愛知県名古屋市出身。 |
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丸田祐三
将棋棋士。九段。日本将棋連盟会長(1969年-1972年)。長野県長野市生まれ、東京都育ち。棋士番号43。平野信助七段門下。 |
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佐藤康光
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人間対人間、人間対コンピューターの対局が選べ、先手の飛車落ちなどのハンデや、コンピューターの強さを5段階から選択できるほか、王の守りを固める“穴熊”や... |
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プロフィール
- 大山康晴とは
- 生い立ち
- 名人位へ
- 升田幸三との闘争
- 五冠王時代
- 中原誠ら次世代の台頭、記録への挑戦
- 連盟の運営、将棋の普及、顕彰
- 晩年の闘い
- 棋風
- 盤外戦
- その他の棋類
- おもな記録
- 豆知識
- 関連サイト
大山康晴(おおやまやすはる、1923年(大正12年)3月13日-1992年(平成4年)7月26日)は、将棋棋士。棋士番号26。 木見金治郎門下。主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代1位)、棋戦優勝44回(歴代1位)、通算1433勝(歴代1位)等がある。十五世名人、および、永世十段・永世王位・ 永世棋聖・永世王将という、5つの永世称号を保持。日本将棋連盟会長でもあった。弟子には 有吉道夫、 中田功、 行方尚史などがいる。1990年(平成2年)に将棋界初の文化功労者顕彰となった。正四位勲二等瑞宝章を受章。 ...
生い立ち
| 1923年(大正12年)3月13日、岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれる。 |
| 5歳頃から将棋を覚え始め、たちまちその才能が注目されて、1935年(昭和10年)に大阪に出て、木見金治郎九段の内弟子として入門する。 |
| 順調に昇段していったが1938年(昭和13年)は中将棋と囲碁に没頭して昇段できなかった。 |
| しかしそのために駒の連絡をなによりも大事に考えて駒組づくりをする用心深く、粘りのある棋風が生まれたと大山自身後年述懐している。 |
| 師匠の木見は数少ない中将棋の指し手でもあった。 |
| 兄弟子に大野源一、角田三男、そして終生のライバル升田幸三がいる。 |
| 内弟子時代、はじめは兄弟子の升田幸三が受け将棋で大山は攻め将棋だったが、二人で数多く対局するうちに、升田は攻めが強くなり、大山は受けが強くなったという。 |
| 1940年(昭和15年)に17歳で四段の棋士となり、1943年(昭和18年)に六段に昇段。 |
| しかし、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)に召集され国内だが暫く兵役に就いていたので、将棋どころではなかった。 |
| 健康面では一抹の不安のあった兵役時代であったが、将棋指しであった事が幸いし下っ端の二等兵としては破格の待遇を受け、南九州時代に機銃掃射を受けた以外は危険な状況に陥る事も無く、召集を受けた他の棋士より恵まれた生活を送った。 |
名人位へ
| 戦後に復員して棋士に戻り、創設された順位戦にB級六段として出場。 |
| 1947年(昭和22年)に七段昇段。 |
| 1948年(昭和23年)、時の塚田正夫名人への挑戦者は升田幸三八段と見られていたが、大山はB級1位ながら当時の変則運用によりA級棋士を連破して、A級1位の升田にも「高野山の決戦」(第7期名人挑戦者決定三番勝負第三局)で辛勝して初めて名人挑戦者となる。 |
| しかし、名人にはまだ及ばなかった。 |
| この年、A級八段に昇段。 |
| 1950年(昭和25年)、創設されたばかりの第1期九段戦で第2の公式タイトル「九段」を獲得。 |
| 1952年(昭和27年)、大山は第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦して29歳で実力制3人目の名人位に就き、木村を引退に追い込む。 |
| 名人位を関西にもたらしたのは、阪田三吉以来の悲願の成就であった(対局後、勝った大山が負けた木村に深々と頭を下げた事はこの時、有名になった)。 |
| 以後、5連覇して1956年(昭和31年)には永世名人(十五世名人)の資格を得る。 |
| 名人・王将の二冠を3年間保持した。 |
升田幸三との闘争
| 「高野山の決戦」に敗れ、名人挑戦・名人獲得と大山の後塵を拝していた升田幸三であったが、「新手一生」「名人に香車を引いて勝つ」香落ち(自分の香車を落とすハンディ戦)にしてまでも勝つこと。 |
| を標榜しながら巻き返しを狙っていた。 |
| 1955年(昭和30年)度、升田は大山から王将位を奪取、二冠の一角を崩す。 |
| このとき、王将戦の規定(指し込み制)で升田は大山を香落ちに指し込んで屈辱を味わわせ、「名人に香車を引いて勝つ」という念願を達成している。 |
| この時の心境を大山は『ハラワタがちぎれるほど悔しかった』と言っている。 |
| 1956年(昭和31年)の第16期名人戦において、第12期・第13期と升田を退けてきた大山は、ついに升田に名人位を奪取され、無冠に転落した。 |
| 升田は、名人・九段・王将の全冠を独占して、棋界初の三冠王となった。 |
| その後大山は、1957年(昭和32年)度の王将戦、1958年(昭和33年)の九段戦、1959年(昭和34年)の名人戦と、升田から次々とタイトルを奪回して無冠に追い込み、棋界2人目の三冠王(全冠独占)となった。 |
| この頃の「助からないと思っても助かっている」という大山の言葉は、扇子の揮毫などでよく知られている。 |
| 以後、升田は、タイトルを一つも獲得できなかった。 |
五冠王時代
| 1959年(昭和34年)に三冠王となった大山は、1960年(昭和35年)創設の王位戦で王位を獲得して初の四冠独占をし、そして1962年(昭和37年)創設の棋聖戦で棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖)を果たした。 |
| 1959年-1966年(昭和34年-昭和41年、36歳-43歳)頃はタイトル棋戦でほぼ無敵の極盛期であり、1962年-1970年(昭和37年-昭和45年)頃も四度、五冠王になった。 |
| 特に、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてはタイトルを19連続で獲得し、その間、他の棋士達にタイトルを一つも渡さなかった。 |
| 大山の全盛期は、1950年代後半-1960年代の日本の高度経済成長期とほぼ重なっている。 |
| 二上達也・山田道美・加藤一二三・内藤國雄といった若い俊才たちが次々に挑みかかったが、大山の正確な受けによる「受け潰し」に阻まれた。 |
| また、木村義雄・升田幸三らと同様に、大山もしばしば「盤外戦」を駆使したといわれている。 |
中原誠ら次世代の台頭、記録への挑戦
| しかし、1960年代末期(昭和40年代半ば)になると、山田道美と、その研究グループ「山田教室」で腕を磨いた中原誠が台頭してきた。 |
| 山田は夭折したが、中原は大山攻略術を編み出した。 |
| 桂馬を巧く使うことが、大山の堅い囲いを崩すのに有効だったという。 |
| あるいは、中原には大山の盤外戦が通じなかったともいわれ、大山は中原だけには非常に相性が悪かった。 |
| 中原とはタイトル戦で通算20回戦っているが、うち、大山の獲得数は4、中原の獲得数は16である。 |
| 1968年-1972年(昭和43年-昭和47年)度にかけて、大山は中原によって次々とタイトルを奪取され、50歳目前の1973年(昭和48年)王将戦で無冠となった。 |
| 大山が無冠となったのは16年ぶり。 |
| 中原はこの年に四冠王(後に五冠王)になり、「棋界の太陽」と呼ばれ、「大山時代」が終わって「中原時代」が来たと言われるようになった。 |
| その1973年(昭和48年)、無冠になった大山は特例で現役のまま「永世王将」を名乗ることが認められ、1976年(昭和51年)には同じく現役のまま「十五世名人」を襲位した。 |
| これらの永世称号を名乗るのは原則として引退後であるが、大山が既に将棋界の一時代を築いてきた実績を持つ棋士であることを考えると、称号なしの「九段」とは呼べないという連盟側の配慮であった(後に中原も同様の理由で現役のまま永世十段を名乗ることになる)。 |
| しかしながら「中原時代」の大山も、分の悪い対・中原戦を除けば依然として強さを発揮し、50歳代にもかかわらず十段1期・棋聖7期・王将3期の計11期を獲得した(56歳の王将位獲得は、タイトル獲得の最年長記録)。 |
| また、谷川浩司によれば、通算成績においても、20歳代の時より50歳代の時の方が多く勝っているとのこと将棋世界2008年7月号「イメージと読みの将棋観」より。 |
| その他、谷川、羽生などにも負け越している。 |
連盟の運営、将棋の普及、顕彰
| 1974年(昭和49年)には「将棋会館建設委員長」となって日本将棋連盟本部である「東京将棋会館」の建設に、1977年(昭和52年)には「関西将棋会館建設副委員長」として「関西将棋会館」の建設に尽力。 |
| 1977年-1988年(昭和52年-昭和63年)には、第一線のA級棋士でありながら日本将棋連盟の会長に就任、プレイングマネージャーとして将棋界総本山の運営にも精力的に従事した。 |
| 将棋の普及活動にも熱心で、中でも青森県百石町(現・おいらせ町)には「第2のふるさと」と呼ぶほどの入れ込み方であり、百石町名誉市民の称号を贈られ、町の予算で大山の功績を称える「大山将棋記念館」が建てられたほどである。 |
| 出身地の倉敷市でも、1970年(昭和45年)に名誉市民を贈られ、「倉敷市立大山名人記念館」が建てられている。 |
| さらに没後の1993年(平成5年)には女流棋士の棋戦として「大山名人杯倉敷藤花戦」(倉敷市ほか主催)が創設されている。 |
| 1990年(平成2年)には、将棋界で初めて文化功労者に顕彰された。 |
| このほかの大山の表彰・顕彰としては、次のようなものがある。 |
| 1979年NHK放送文化賞。 |
| 1987年第3回東京都文化賞。 |
| 1987年菊池寛賞。 |
| 1992年正四位勲二等瑞宝章。 |
| また、現役棋士としても、下記の賞を受賞している。 |
| 1965年将棋栄誉賞(通算600勝達成)。 |
| 1972年将棋栄誉敢闘賞(通算800勝達成)。 |
| 1977年特別将棋栄誉賞(通算1000勝達成)。 |
| 1982年通算1200勝達成の表彰。 |
晩年の闘い
| 晩年になっても、ガンと闘病しながら何度も復帰してA級順位戦を闘い、さらにはタイトル獲得に挑んだ。 |
| 還暦を過ぎ、63歳となった1986年(昭和61年)に名人戦で中原名人に挑戦し、平成元年度の1990年(平成2年)には棋王戦で66歳にして南芳一棋王に挑戦したこの棋王戦挑戦者決定トーナメントにおいて、19歳で竜王にあった羽生善治に勝っている。 |
| 「A級から落ちたら引退する」という大山の決意はファンにも知れ渡っており注目を集めたが、A級の地位を維持した。 |
| 1987年(昭和62年)度は、生涯最低の3勝6敗の成績ながらも、最終戦を待たずして残留が決定していた。 |
| 1990年(平成2年)度は、最初に5連敗したが、その後4連勝して降級を免れた。 |
| さらに1991年(平成3年)度(1992年(平成4年)3月まで)の順位戦では、ガン治療中の身でありながらも名人挑戦権を争い、残り1局の時点で単独トップの谷川浩司四冠王(当時)を最終9回戦で破って、6勝3敗の4人でのプレーオフに持ち込んだ。 |
| プレーオフはパラマストーナメントのため、リーグ表で下位の大山は3連勝をする必要があったが、初戦の対・高橋道雄戦で敗れた(勝勢になったが、手を間違えて敗局)。 |
| 翌1992年(平成4年)度の順位戦も休場せずに生涯現役を貫き、1992年(平成4年)7月、A級在籍のまま死去した。 |
棋風
| 小技を得意とした真剣師出身の花村元司を下したあと「花ちゃん、あんたは所詮素人だもんね」と言い放った。 |
| 最初のチャンスは見送る主義で、優勢となっても勝ちを急がず、常に安全に勝つことを目指した升田幸三は晩年、自著の中で、修業時代は大山は攻めの棋風だったがすぐに相手から逆襲されて潰されたので、しぶとい受けの棋風になり、一方で升田自身は受けの棋風だったが簡単に相手から攻め潰されたので、自分から討って出る攻めの棋風になったと述懐していた。 |
| 終盤での強靭な粘りと、最善手ではない、敢えて相手の悪手や疑問手を誘うよう手を指す逆転術は「終盤が二度ある」「二枚腰」と讃えられた米長邦雄『逆転のテクニック—悪い将棋はこう指せ!』(日本将棋連盟、上巻、ISBN:978-4819701112)。 |
| 羽生善治は将棋世界2006年8月号の中で、大山の棋風について「読んでいないのに急所に手が行く」「最善手を追求しない」と発言している。 |
| 若い頃は、その当時の主流であった矢倉や腰掛銀などの居飛車が多かったが突如振り飛車党に転向、特に美濃囲いでの四間飛車とツノ銀中飛車を好んで指した体力がなくなって、大野源一に相談したところ、大野が「振り飛車をやればいい。 |
| 振り飛車は、当時のアマチュアには棒銀と並んで人気があった一方で、プロ棋界ではいきなり角道を止める振り飛車は受け身で消極的とされ、若手棋士が指すと年輩棋士から叱責を受けるほどだった。 |
| この転向について、勝又清和は「ファンに喜ばれる将棋を指そうと考えたため」と説明しているが、この他に、振り飛車はどの対局も序盤の指し方が大して変わらないので、研究時間等の短縮が簡単にできたためとも言われている。 |
| しかしその一方で相振り飛車は極端に嫌っていて、相手が飛車を振った場合は必ず居飛車で指していた(このため、大山が公式戦で相振り飛車を指したことはほとんど無く、後年にはたった一局しか棋譜が残っていない)。 |
| 鈴木大介は、大山が相振り飛車を嫌っていた理由として、当時の相振り飛車で一般的に使われていた金無双の右銀の使い方に苦心していたためではないかと話している。 |
| その根拠として、大山が最後に指した相振り飛車の対局では、大山は二枚金の形にはしたものの右銀は2八に上げずに3九に置いたまま戦い、最終的に終盤で取られてしまうまで3九から動かすことは無かった将棋ニュースプラス2007年8月3日配信分「将棋列伝」より。 |
盤外戦
| 朝日新聞社の嘱託棋士であった升田には対局の日程も場所も事前に通知は無かった一方で、毎日新聞社は大山には高野山への豪勢な送迎をしていた。 |
| しかも、十二指腸の具合がよくなかった升田は温暖な場所での対局を依頼していたが、毎日新聞社は寒冷な高野山を選ぶなど、升田は対局する以前に大山側から強烈な盤外戦を喰らっていた河口俊彦『大山康晴の晩節』(新潮文庫、ISBN:978-4101265131)。 |
| 升田が勝てば役員総出で大宴会になり、大山が勝ったらそのまま全員帰ったとか、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も投了の瞬間を再現するようせまったとかの逸話が伝えられている河口俊彦『大山康晴の晩節』。 |
その他の棋類
| 日本の古典将棋である中将棋の権威でもあり、さらにはチェスでも日本チャンピオンになり、日中象棋協会(のちに日本シャンチー協会)を設立して会長職を務めシャンチー(中国象棋)の普及にも努めた。 |
おもな記録
| 1956年度王将戦は同年度九段戦(2-4月、大山登場せず)より前なので、起算は1956年度王将戦ではなく1957年度名人戦になります。 |
豆知識
| バトルロイヤル風間の将棋4コマ漫画にも初期にはよく登場し、将棋と全然関係ないシーンで大山が「ワシにまかせろ!」なる怒号と共に出てきて、強引に片付けてしまうのが定番のギャグだった。 |
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