| その風貌がタレントの毒蝮三太夫に似ていたため、口の悪いチームメイトからは、「毒マムシ」という渾名で呼ばれていた。 |
| しかし、その人相や風体に似合わず無類の愛妻家であった。 |
| 毎日克明に日記を記していたが、その内容の殆どは妻へ宛てたものであったと、逝去後の特集番組で夫人が明らかにしている。 |
| ロマンティストでもあり、自身が本塁打を打った時はファンのために投げキッスのパフォーマンスをしたり、後述されるような文学的表現のある数々の名言を残している。 |
| 東映のブラジル遠征の折に「(飛行機が墜落して)私が死んだら、誰が母の面倒を見るんですか」と船移動を球団に直訴したり(当然却下)、前日のクロスプレーを巡って殴り倒したカール・ボレス(西鉄ライオンズ)に翌日謝罪するなど、その実直な人間性で人気の選手だった。 |
| 2000本安打達成時、記念のボールを渡してくれた審判に試合中であることも忘れて握手を求めたエピソードも大杉の人間性を表している。 |
| また、他の選手がアドバイスを求めると、相手が敵チームの選手であったとしても、自分の練習時間を削ってまでとことんコーチ役を買って出ていたと言う。 |
| 東映時代、ビジターの試合で一塁側スタンドからの執拗な野次に耐えられず、試合中に「てめぇ、表で待ってろ!!」と凄んだ。 |
| 東映時代、南海の野村克也が打席で囁きかけたところ、野村よりも10歳年下でありながら「うるせえ!」と一喝した為、後で「お前、先輩になんて口のききかたするんや!」と大激怒された。 |
| 腕っぷしが強いことでも有名で、球界で一番喧嘩が強いという噂もあった。 |
| 自軍の選手への攻撃に対しては容赦なく立ち向かい、ヤクルト時代には死球を与えた鈴木康二朗投手に襲い掛かったジョン・シピンを殴り倒している。 |
| また、この時巨人の長嶋茂雄監督を、乱闘の最中に殴った。 |
| 生前本人はこれについて「覚えていない」と述べていたが、プロ野球史上最大のスターと言われる長嶋茂雄を試合中に殴ったのは、後にも先にも大杉のみである。 |
| 中日ドラゴンズ戦で星野仙一から死球を食らった際、マウンドに歩み寄り「星野、わざとぶつけたな!」と詰め寄った。 |
| 大杉・星野ともに気性の激しい選手であったため、両軍とも大乱闘を覚悟していたが、星野は「大杉さん、同じ岡山の先輩にわざとぶつけるわけないじゃないですか」と返し、それを聞いた大杉は「それもそうだな」と言って一塁に歩いていき、結局乱闘に発展することはなかった。 |
| 広島東洋カープ戦では、打席に入ったところ、捕手の達川光男がマウンドに向かって「こいつは石ころだ」と叫んだ。 |
| コントロールの定まらないピッチャーの津田恒美を「球界の大先輩だからといって遠慮せず、思い切り投げろ」と叱咤する意味での発言だったのだが、これを聞いた大杉は激怒してわざわざ達川に身体に当たるようなリードを要求、達川が「すんません、当てます」と死球コースに要求すると身体に向かってきた球を引っぱたき特大本塁打にしてしまった。 |
| そしてダイヤモンドを1周してホームベースを踏むなり、「石ころだと?ふざけるなっ!!」と達川の頭を思いきり叩いている(達川の項目も参照)。 |
| このエピソードは、江本孟紀の著書「プロ野球を20倍楽しく見る本」内でも書かれている。 |
| 無類の肉好きであり、結婚後も必ず肉料理を作らせていた。 |
| しかし夫人は、プロ野球選手の健康管理という面からそれを好ましく思わず、ある日肉抜きの料理を食卓に出した。 |
| それを見て怒った大杉は、翌日、怒りに任せて特大本塁打を放ったという(試合翌日のスポーツ新聞より)。 |
| 足が遅く、守備も得手な方ではなかったため、当時のヤクルト監督・広岡達朗による選手としての大杉評は、決して高いものではなかった(広岡は走攻守が揃った選手を理想としていた)。 |
| が、大杉は広岡のことを「球界のサムライ」と高く評価し、師として慕っている様子も見られた。 |
| 1983年に「原因不明の不整脈が悪化した」として現役を引退したが、自著によれば、本人には引退の意思は全くなく、医師からも野球を十分続けられるという診断を下されていたという。 |
| その真相は、武上四郎監督との確執が原因で、フロント主導により一方的に退団が決められてしまった、とのことである。 |
| この時、松園尚巳オーナーからは巨人への移籍を勧められたが、新監督に就任したばかりの王貞治に迷惑がかかると移籍を固辞、引退を決意したという(また一説では、日々大杉の事を気遣う妻が心労で入院した事があったが為に、引退を決意したとも言われている)。 |
| 自らを「かすみ草」になぞらえたのは、これまでに達成した偉大な記録がことごとく他の話題の前に霞んでしまい目立つことがなかった(史上初の両リーグ1000本安打ですら、同じ日に福本豊が盗塁数の世界記録を樹立してしまい紙面のトップを飾ることが出来なかった)不遇さを、通算1500打点を達成した試合後のインタビューで、野村克也の「ON(王貞治・長嶋茂雄)がひまわりなら、自分は日本海にひっそりと咲く月見草」という言葉を引き合いに出し、「ONがひまわり、野村さんが月見草。 |
| まあハリさん(張本勲)も月見草で、さしずめ自分は神宮に咲いたかすみ草だ」と語ったことに由来する。 |
| 余談だが、後年著書でこの時のインタビューについて「ハリさんはどちらかといえば『雑草』だが、それではさすがに失礼なので月見草にした」と述べている。 |
| スワローズ初の日本一に貢献、前人未踏の両リーグ1000本安打、球団初の2000本安打の快挙に、背番号8はヤクルトの永久欠番に制定された。 |
| が、大杉本人の意志で、1985年に入団してきた広沢克己に背番号8が与えられている。 |
| 1987年、「とんねるずのみなさんのおかげです」で、とんねるず対大杉・土橋正幸(ともに当時、フジテレビ野球解説者)という野球大会が行われた。 |
| この試合で大杉が放ったサヨナラホームランは、まさに「神宮の夜空の月に向かって飛んでいった」打球で、打たれた石橋貴明はうなだれてぐうの音も出なくなっていた。 |