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杉田玄白
師匠
江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩(福井県)医。私塾天真楼を主催。父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。諱は翼(たすく)、字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁。杉田... |
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前野良沢
師匠
豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。『解体新書』の主幹翻訳者の一人。良沢は通称で、名は熹(よみす)、字は子悦、号は楽山、のちに蘭化。 |
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大槻磐渓
幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。父は蘭学者の大槻玄沢。子に大槻如電と大槻文彦(国語学者で... |
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大槻文彦
日本の国語学者。本名は清復、通称は復三郎、号は復軒。江戸出身。日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として著名。宮城師範学校(現・宮城教育大学)校... |
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建部清庵
師事
建部清庵(たてべせいあん、正徳2年7月11日(1712年8月12日)-天明2年(1782年))は江戸時代中期の医者。陸奥国一関の地から杉田玄白と書簡を交わし、蘭学の... |
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稲村三伯
稲村三伯(いなむらさんぱく、宝暦8年(1758年)-文化8年(1811年)1月16日)は江戸時代後期の蘭学者。名は前、字は白羽。石井庄助、宇田川玄真らの協力で、... |
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杉本つとむ
日本の言語史研究者、早稲田大学名誉教授。本名・杉本孜。 |
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華岡青洲
江戸時代の外科医。記録に残るものとして、世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)を成功させた。諱は震(ふるう)。字は伯行。通称は雲平。号は青洲... |
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宇田川玄真
江戸時代後期の蘭方医。本姓は安岡、名は璘。玄真は字。榛斎と号す。養父は宇田川玄随、養子に宇田川榕菴。江戸蘭学における大槻玄沢の実質的後継者。門弟に... |
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朽木昌綱
丹波福知山藩の第8代藩主。福知山藩朽木家9代。 |
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宇田川玄随
宇田川玄随(うだがわげんずい、宝暦5年12月27日(1756年1月28日)-寛政9年12月18日(1798年2月3日))は医学者、蘭学者。名は晋、字は明卿、号は槐園(かい... |
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桂川甫周
医師及び蘭学者。名は国瑞(くにあきら)であり、甫周は通称である。月池・公鑑・無碍庵などの号を用い、字は公鑑。父桂川家3代目桂川甫三は、前野良沢、杉田... |
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橋本宗吉
橋本宗吉(はしもとそうきち、宝暦13年(1763年)-天保7年5月1日(1836年6月14日))は日本の蘭方医、蘭学者。初名は直政、のちに鄭。字は伯敏。号は曇斎。門... |
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緒方洪庵
緒方洪庵(おがたこうあん、文化7年7月14日(1810年8月13日)-文久3年6月10日(1863年7月25日))は日本の武士・足守藩士、医師、蘭学者である。大坂に適塾を... |
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山村才助
江戸時代後期の地理学者。父は土浦藩士の山村昌茂(司)、母はまき。才助は通称で、名は昌永、字は子明、号に夢遊道人。 |
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大黒屋光太夫
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう、宝暦元年(1751年)-文政11年4月15日(1828年5月28日))は江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とし... |
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若宮丸
「石巻ローンテニスクラブ」 を経営なさっている。 場所は 石巻市門脇二丁目2-6 丁度、鹿島御子神社の崖下位に位置しているのではないだろうか。風の心配... |
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大槻如電
明治時代から昭和時代初期にかけて活躍した学者・著述家。本名は清修。字(あざな)は念卿。通称は修二。如電は号。仙台藩士大槻磐渓の子。 |
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プロフィール
- 大槻玄沢とは
- 略歴・人物
- 著訳書
- 大槻三賢人
- 系図
- 関連文献
- 出典
- 関連サイト
大槻玄沢(おおつきげんたく、宝暦7年9月28日(1757年11月9日)-文政10年3月30日(1827年4月25日))は、仙台藩の支藩一関藩(田村氏領)出身の江戸時代後期の蘭学者。名は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)。磐水(ばんすい)と号す。『解体新書』の翻訳で有名な 杉田玄白・ 前野良沢の弟子。「玄沢」とは、師である2人から一文字ずつもらってつけた通り名である。
略歴・人物
| 一関藩の医師でのちに藩医となった大槻玄梁の長子として陸奥国西磐井郡中里に生まれる。 |
| 「磐水」の号は磐井の地名にちなむ。 |
| 同じ郷里の医師建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示した。 |
| 安永7年(1778年)に江戸への遊学を許されて、建部清庵と手紙のやり取りをしていた杉田玄白の私塾・天真楼に学び、医術を修めるかたわら、前野良沢にオランダ語を学んだ。 |
| 安永9年(1780年)には、良沢のもとを訪れた仙台藩江戸詰の藩医工藤平助と知り合った。 |
| 玄沢の遊学期間が終わりに近づいていることを師の前野良沢が惜しんでいることを知った工藤平助は、藩主田村氏に遊学延長を願い、そのため期間が2年延長され、玄沢の学問はそれゆえ大いに進展したといわれている関(2008)p.27-28。 |
| こののち、玄沢は遊学期間を終え、天明2年(1782年)にいったん一関に帰郷している。 |
| 天明5年(1785年)10月、玄沢は長崎遊学を許され、その地で本木良永に寄寓し、良永や吉雄耕牛らと交わって語学力を磨き、翌年5月に江戸に戻った「大槻玄沢」朝日日本歴史人物事典。 |
| 天明6年(1786年)、玄沢は仙台藩の藩医に抜擢されて江戸定詰を命じられたが、玄沢を本藩に推薦し、その実現に尽力したのも工藤平助であった。 |
| こうしたことが機縁となり、のちに玄沢と工藤家とは親戚同様の交際をもつようになる。 |
| 江戸詰になったのを機に、玄沢は江戸三十間堀に私塾・芝蘭堂をひらいて多くの人材育成に当たった。 |
| 弟子としては、宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と称された。 |
| 玄沢は、天明8年(1788年)、蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立した。 |
| 師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、寛政2年(1790年)改訂に着手した。 |
| 寛政10年(1798年)の『重訂解体新書』がそれで、改訂作業は文化元年(1804年)にいちおう完了した(刊行は文政9年(1826年))。 |
| 寛政6年(1794年)のオランダ商館長ヘイスベルト・ヘンミー(GijsbertHemmij)の江戸出府の際、オランダ人一行を定宿の長崎屋に初めて訪れ、対談した大槻玄沢は、これを機にこの年の閏11月11日が西暦で1795年1月1日に当たることから、多くの蘭学者やオランダの文物の愛好家を芝蘭堂に招き、「オランダ正月」と呼ばれる西洋の暦に合わせた新年会を開いた。 |
| オランダ正月はそののち数十年にわたって毎年開かれ、ロシアに漂流したのち帰還した大黒屋光太夫なども招待された。 |
| また、オランダ商館長参府一行との対談は、以後、数回にわたっておこなわれ、これらは『西賓対晤』としてまとめられた。 |
| 文化8年(1811年)江戸幕府の天文台に出仕して『厚生新編』の訳業に参加した。 |
| これは、ショメール(Chomel)の百科事典を翻訳するというもので、のちにその写本をひそかに仙台藩の書庫に収めた。 |
| これは『生計纂要』という名称で現在まで伝えられている。 |
| 寛政12年12月10日(1801年1月24日))、工藤平助が没する。 |
| その死後、玄沢は困窮した工藤家を救うために負債の後始末を含めた援助に尽力し、また、文化13年(1816年)3月に刊行された平助の医書『救瘟袖暦』には序を書いている関(2008)p.175。 |
| 文政10年3月30日1827年4月25日死去。 |
| 墓所は、江戸高輪の東禅寺。 |
著訳書
| 著訳書はたいへん多く、300余巻におよぶといわれる。 |
| 『重訂解体新書』。 |
| 『六物新志』。 |
| 『瘍医新書』ハイステル(L.Heister)の外科書の翻訳。 |
| 文政8年(1825年)完成。 |
| 『蘭畹摘要』。 |
| 『大西徽瘡方』。 |
| などの医書や本草書のほか、。 |
| 『蘭学階梯』…安永10年起草、天明3年完成、天明8年刊行。 |
| などの語学書・蘭学入門書があり、上述の『生計纂要』、『西賓対晤』(せいひんたいご)、若年寄堀田正敦への献策書『捕影問答』(ほえいもんどう)、および、仙台藩の依頼でロシア船で送り返された同藩の漂流民に事情聴取した際の記録『環海異聞』などがある。 |
大槻三賢人
| 玄沢以後、大槻氏からは優秀な学者が多く輩出し、「西の頼家、東の大槻家」(頼家は頼山陽で有名)ともいわれた。 |
| 玄沢の息子に漢学者の大槻磐渓、孫に国語学者の大槻文彦がおり、郷里の一関では、この3人を「大槻三賢人」と称する。 |
| 養賢堂学頭の大槻平泉も同じ一族の出身である。 |
系図
| ┏清慶━━清雄━┳清臣。 |
| ┃┗平泉━━習斎。 |
| ┗玄梁━━玄沢━┳磐里。 |
関連文献
| 『大槻玄沢の研究』(洋学史研究会編、思文閣出版、1991年)。 |
| 『蘭学、その江戸と北陸 大槻玄沢と長崎浩斎』(片桐一男 思文閣出版 1993年)。 |
| 『槻弓の春大槻玄沢の横顔』(大島英介、岩手日日新聞社、1999年)。 |
| 『遂げずばやまじ 日本の近代化に尽くした大槻三賢人』(大島英介、岩手日報社、2008年)。 |
| 『大槻三賢人』(阿曽沼要、高橋印刷株式会社、2005年)。 |
| 『磐水存響 乾坤』(大槻茂雄編 思文閣出版 1991年)、編者は子孫。 |
| 『環海異聞』(志村弘強編/池田晧訳、海外渡航記叢書 雄松堂出版 1989年)。 |
| 『初めて世界一周した日本人』(加藤九祚、新潮選書、1993年)、詳しく紹介した章がある。 |
出典
| 関民子『只野真葛』吉川弘文館<人物叢書>、2008年11月。 |
| ISBN4-642-05248-8。 |
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1778年
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江戸への遊学を許されて、建部清庵と手紙のや... |
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玄沢は仙台藩の藩医に抜擢されて江戸定詰を命... |
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