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つながりの強いひと
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菊池五山
江戸時代後期の漢詩人。名は桐孫(まさひこ)、字を無絃、通称を左太夫という。号として五山のほか娯庵と称した。曾祖父の菊池半隠の頃から高松藩の儒官とし... |
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頼山陽
友達
頼山陽(らいさんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日)-天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は... |
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揖斐高
近世日本文学の研究者。成蹊大学文学部教授。近世漢詩、特に柏木如亭が専門。福岡県出身。1971年東京大学国文科卒、76年同大学院博士課程単位取得満期退学。9... |
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酒井抱一
江戸時代後期の絵師、俳人。権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、... |
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谷文晁
江戸時代後期の日本の画家。江戸南画の大成者であり、その画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられる。名は正安。はじめ号は... |
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柏木如亭
江戸時代の漢詩人である。はじめ、名は謙、字は益夫、通称は門作といった。のち、名は昶、字は永日とあらためる。号ははじめ舒亭と名乗り、後に如亭とする。 |
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山本北山
江戸時代中期の儒学者である。名は信有、字を天禧、通称喜六、憙六、北山は号、別号に考経楼主人、学半堂逸士、奚疑翁、竹堤隠逸などがある。 |
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梁川星巌
江戸時代後期の漢詩人である。名は「卯」、字は「伯兎」。後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。星巌は号。 |
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亀田鵬斎
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興(... |
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市川寛
テレビ朝日アナウンサー、気象 予報士である。 目次. 1 人物; 2 経歴; 3 現在の出演番組; 4 過去の出演番組; 5 同期 アナウンサー; 6 関連人物; 7 関連項目..... |
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市河米庵
江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。名は三亥、字は孔陽、号は米庵のほかに楽斎・百筆斎・亦顛道人・小山林堂・金洞山人・金羽山人・西野子など。通称は小左... |
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大田南畝
天明期を代表する文人・狂歌師。漢詩文、洒落本、狂詩、狂歌などをよくし、膨大な量の随筆を残した。勘定所幕吏として支配勘定にまで上り詰めたが、一方、余... |
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菅茶山
江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。 |
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館柳湾
江戸時代後期の日本の漢詩人・書家である。本姓は小山氏、養子となって館を名乗る。名を機、字は枢卿、通称を雄次郎。柳湾の号は、故郷である信濃川河口の柳... |
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陸游
南宋の政治家・詩人。字は務観。号は放翁。通常は「陸放翁」の名で呼ばれる。越州山陰(現在の浙江省紹興市)出身。南宋の代表的詩人で、范成大・尤袤・楊万... |
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広瀬淡窓
江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(よみはモトメ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。別号... |
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立原杏所
江戸時代中期から後期にかけての武士、南画家。本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏... |
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大窪天民
皆その別號なり、通稱を柳太郎といふ、因て又た柳沱居士と號す、常陸の人にして江戸に住せり、市川寛齋の江湖社に列し、柏木如亭・菊地五山等と交り、詩名海... |
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渡辺崋山
江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮... |
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広瀬旭荘
球が坂をころげ、馬が駆け降りる様。雲が踊り、風が木の葉を舞上げる様だ」と言い、清代末期の儒者、兪曲園は「東国詩人の冠」と評している。また著述も多く... |
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プロフィール
- 大窪詩仏とは
- 少年期
- 修業時代
- 活動期
- 絶頂期
- 珍事
- 仕官
- 不運
- 晩年
- 人物像
- 業績・評価
- 書画
- 詩集
- 啓蒙書
- 戯作
- 交友
- 子孫
- 参考文献
大窪詩仏(おおくぼしぶつ、明和4年(1767年)-天保8年2月11日(1837年3月17日))は、江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。
常陸国久慈郡袋田村(現茨城県久慈郡大子町)に生まれる。名は行(こう)、字は天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく),痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、詩聖堂(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は唐詩人 杜甫が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは清の
少年期
| 詩仏が10歳の頃、隣家が火事となり大騒動になっていても、それに気付かず読書しつづけたという逸話が残っている。 |
| 父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国多賀郡大久保村に戻った。 |
| このため詩仏も大窪姓に復する。 |
| 代々大窪家は医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で江戸にて小児科医を開業する。 |
| 江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。 |
修業時代
| 詩仏は15歳頃、江戸日本橋新銀町で開業する父の元に身を置き、医術を学び、剃髪し宗盧と号した。 |
| 21歳頃より山本北山の門人山中天水の塾晴霞亭に通い儒学を学び、市河寛斎の江湖詩社にも参加して清新性霊派の新風の中、詩作を始める。 |
| 24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。 |
| 同年、師の天水が33歳の若さで早世し、中野素堂の紹介で山本北山の奚疑塾に入門する。 |
活動期
| 25歳の時、市河寛斎が富山藩に仕官した後、江湖詩社に活気がなくなってくると、先輩の柏木如亭と向島に二痩社を開いた。 |
| 詩仏の別号痩梅、如亭が痩竹と号したことに因んだ命名である。 |
| この二痩社には百人を超える門人が集った。 |
| その後、自らの詩集や啓蒙書などを活発に刊行する。 |
| また各地を遊歴し、文雅を好む地方の豪商などに寄食しながら詩を教え、書画の揮毫などで潤筆料を稼いだ。 |
| その足跡は東海道、京都、伊勢、信州、上州に及ぶ。 |
絶頂期
| 文化3年3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる江戸の大火に罹災。 |
| 家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の釧雲泉と信越地方に遊歴し、秋に帰ると神田お玉ヶ池に家を新築、詩聖堂(現東京都千代田区岩本町2丁目付近)と称した。 |
| しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。 |
| 文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。 |
| この頃、頼山陽などと交流する。 |
珍事
| 文化13年(1816年)、書画番付騒動が起こり、これに巻き込まれる。 |
| これは当時の江戸の学者や文人達を相撲の番付に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。 |
| 東の関脇に詩仏が格付けされており、親友の菊池五山とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。 |
| 大田錦城らと大きく悶着したが、後援者である増山雪斎の調停でなんとか治まった。 |
| 真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。 |
| この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。 |
仕官
| 地方に遊歴してもしだいに振るわなくなったことに焦りを感じたためか、詩仏は文政8年(1825年)、59歳にして秋田藩に出仕する。 |
| ほとんど拘束を受けない条件で江戸の藩校日知館の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった。 |
不運
| 文政12年(1829年)は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。 |
| 3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。 |
| 下谷練塀小路に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。 |
| ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。 |
晩年
| 晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。 |
| また肉体的にも衰えが目立ち、65歳秋田に旅した帰路には脚気が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。 |
| 天保8年2月(1837年)、自宅で没する。 |
| 浅草松葉町の光感寺に葬られる。 |
| 後に藤沢市本町に改葬された。 |
人物像
| 詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。 |
| また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇のアイドル的な人気を獲得した。 |
業績・評価
| 市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられ、また、画家の清水天民、儒者の並河天民、詩人の大窪天民(別号)で三天民と評される。 |
| 蜀山人は「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。 |
| 師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、古文辞格調派の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。 |
| 詩仏の詩は范成大、楊万里、陸游など南宋三大家の影響が強いといわれる。 |
| 詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。 |
| このように写実的な詩風を好んだため、特に詠物詩を得意とした。 |
書画
| 孫過庭に影響され草書を能くした。 |
| また画については蘇軾に私淑し、墨竹図をもっとも得意とした。 |
| 墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれ、多くの人から書画の揮毫を求められ、潤筆料を稼いだ。 |
詩集
| 『卜居集』(寛政5年)。 |
| 『詩聖堂百絶』(寛政12年)。 |
| 『詩聖堂詩集初編』(文化7年)。 |
| 「詩仏百絶」(『今四家絶句』収録(文化12年))。 |
| 『西遊詩草』(文政2年)。 |
| 『北遊詩草』(文政5年)。 |
| 『再北遊詩草』(文政8年)。 |
| 『詩聖堂詩集二編』(文政11年)。 |
| 『二島遊草』(天保2年)。 |
| 『詩聖堂詩集三編』(天保9年)。 |
啓蒙書
| 『詩聖堂詩話』(寛政11年)。 |
| 『放翁先生詩鈔』(享和元年)中野素堂、山本緑陰とともに校定。 |
| 『宋詩礎』(享和3年)。 |
| 『宋三大家絶句』(享和3年)山本緑陰と共編。 |
| 『石湖先生詩鈔』(文化元年)山本緑陰とともに校定。 |
| 『唐宋箋注聯珠詩格』(文化元年)。 |
| 『佩文韻府両韻便覧』(文化2年)山本緑陰とともに校定。 |
| 『方秋厓詩鈔』(文化2年)佐羽淡斎とともに校定。 |
| 『楊誠斎詩鈔』(文化4年)山田伯方らとともに校定。 |
| 『詩学自在』(文化6年)。 |
| 『広三大家絶句』(文化9年)。 |
| 『清新詩題』(文政2年)。 |
| 『随園女弟子詩選選』(天保元年)。 |
子孫
| 子孫の一人に、歴史学者・考古学者の大窪範光がいる。 |
参考文献
| 揖斐高 『市河寛斎・大窪詩仏 江戸詩人選集5』(平成2年、復刊平成13年)。 |
| 鈴木碧堂 『大窪詩仏』(昭和12年)。 |
| 三村竹清 「大窪詩仏の思ひ出」(『書苑』(昭和13年))。 |
| 今関天彭 「大窪詩仏」上・下 (『雅友』昭和35年)。 |
| 揖斐高著 「詩仏年譜考——化政期文人の交遊考証 1-6」、(『国文白百合』、『成蹊国文』)。 |
| 清水礫洲 『ありやなしや』 彩雲閣、明治40年(1907年)。 |
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1816年
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書画番付騒動が起こり、これに巻き込まれる |
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1825年
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59歳にして秋田藩に出仕する |
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