| 秀吉と織田家筆頭家老である柴田勝家の対立は決定的となり、吉継はこの時期の秀吉の美濃侵攻にも馬廻衆として従軍した。 |
| そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こった。 |
| この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させ、合戦においても先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた(『一柳家記』)。 |
| 天正13年(1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2000の兵を率いて従軍、最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が『根来寺焼討太田責細記』に記されている。 |
| 秀吉が伊勢長島城に移った織田信雄を祝いに赴いた際にも同行している。 |
| 文書の発給もこの頃から見え、称名寺へ寺領安堵状を「大谷紀之介」の名で発給している(「称名寺文書」、日付不詳)。 |
| 天正13年(1585年)7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任したが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下・刑部少輔に叙任される。 |
| これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。 |
| なお、刑部叙任に際して源姓を名乗ったという説があり、永賞寺の供養塔には「預修源朝臣」の刻銘が現在も残る。 |
| この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更したという(「古今武家盛衰記」)。 |
| 9月には秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行している(「宇野主水日記」)。 |
| 天正14年(1586年)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を立てた。 |
| 同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。 |
| 毛利輝元の著した『輝元上洛日記』には天正16年(1588年)に輝元が上洛した際、世話になったり挨拶周りをした豊臣家の諸大名の名とそれぞれへの献上品が細かく記されており、三成、増田らの下位に吉継の名も見え、この時点で奉行衆の下位に列していたことが分かる。 |
| 天正17年(1589年)に越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の5万石を与えられ、敦賀城主となった。 |
| 同時に蔵入地10万石を代官地として預けられている。 |
| 吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城を大々的に拡大改修し、現在の敦賀市結城町と三島町にまたがる広壮な近代城郭とした他、三層の天守閣も造営し、笙ノ川・児屋ノ川の二川を境界として町立てを行ない、町割を川西・川中・川東の三町に改めた。 |
| 吉継の敦賀入封は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であった敦賀港を秀吉直系の家臣に掌握させることにあり、敦賀城改築の用材は秋田実季らが軍役として賦課されている。 |
| この敦賀新城は吉継の支配の下、北国から畿内への輸送の拠点、出兵時の物資の調達拠点として機能した。 |
| 吉継は蜂屋頼隆時代から廻船屋を営む敦賀の川船座の頭分道川氏の一族・川舟兵衛三郎に間口19間、奥行10間の地子、諸役、舟三艘の役免除の特権を与えて支配体制に取り込み(天正20年2月、「道川文書」)流通を掌握した。 |
| 文禄3年(1594年)に伏見城(指月山伏見城)が築城された際の用材「太閤板」は、道川氏一族道川兵二郎の船で秋田から敦賀経由で伏見へと送られ、同じく道川一族の越後屋兵太郎は吉継に船を提供している。 |
| この他高嶋屋伝右衛門らの高嶋屋一族も特権を認められて吉継に協力し、慶長元年(1596年)に木幡山伏見城が築かれた際には高嶋屋久次が太閤板14間半、同2年(1597年)には高嶋屋良左衛門が50間を運んでいる。 |
| この間文禄3年には草津に湯治に赴いており、直江兼続に宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状を送っている。 |
| この他、慶長2年(1597年)2月に鍛冶屋刀禰へ地子本銭790貫文を永代免許したという記録が残り(「刀根市左衛門文書」)、地場産業の育成を図ったことが見て取れる。 |
| 水軍も編成され、後の関ヶ原の戦いで前田利長が小松城を攻撃した際には、「大谷水軍が金沢を攻撃する」との噂を流させ撤退に追い込んでいる。 |
| 西福寺に対し発給した禁制など、文書も相当数が現在に伝わっている。 |
| 寺社への寄進も積極的に行ない、秀吉の命を受けて常宮神社を再興、氣比神宮に朝鮮から持ち帰った戦利品の鐘を奉納した他、八幡神社に本殿の欄間飾りや鳥居、灯篭などを寄進している。 |
| 「蓋し、吉隆、平日家臣に対して慈心深く、義をもつて之を奨励せし故、皆命を致して、其の恩に報ぜりと云う」「北国を経略し、士卒を訓練すること臂の指を使うがごとし」と言われ、家中の統制も行き届いていた。 |
| 天正18年(1590年)の小田原の役にも従軍し、続いて東北地方の奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当した。 |
| この時蠣崎慶廣と面会し、独立の承認と豊臣政権への臣従について助力を依頼されている。 |
| 検地においては、配下の代官が抵抗する農民を斬ったことが発端となり一揆が発生したが、上杉景勝の支援を要請し鎮圧した。 |
| 文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。 |
| 同年6月には秀吉の命令で奉行衆の一人として長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に渡海し、特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取り纏めた。 |
| 明との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って石田・増田と共に一時帰国し、文禄2年(1593年)5月23日に名護屋城で秀吉と明使との面会を果たした。 |
| その後、再度朝鮮へ渡海したが、6月に晋州城攻防戦で晋州城を攻略すると戦局は和平交渉により停滞し、閏9月上旬には帰国した。 |
| 最終的に決裂した和平では、明国の秀吉冊封に際し、吉継は大都督(他に石田三成、小西行長、宇喜多秀家、増田長盛)の官位を受けることになっていた。 |
| 慶長2年(1597年)9月24日、秀吉は徳川家康・富田知信・織田有楽斎らを伴い、伏見の大谷邸に訪問した。 |
| 鹿苑日録。 |
| 慶長3年(1598年)6月16日の豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列し、秀吉から菓子を賜った(「戸田左門覚書」)。 |