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北条氏政
戦国時代の相模国の武将・大名。後北条氏の第4代当主。武田信玄の娘婿で、武田義信・武田勝頼は義兄弟にあたる。父・北条氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に... |
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松田憲秀
北条家に降伏を決意させることとなったと言われている。この結果、北条家滅亡後に、秀吉にその不忠を咎められて切腹した。なお、次男・直秀は氏直とともに高... |
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前田利家
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生ま... |
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北条綱成
戦国時代の武将。後北条氏家臣。父は今川氏家臣の福島正成とされる。幼名は勝千代。 |
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大道寺直次
息子
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。大道寺政繁の嫡男。母は遠山綱景の娘。官位は内蔵助。正室は高城胤辰の娘。はじめ北条氏直に仕える。1590年の小田... |
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大道寺資親
父
戦国時代の後北条氏の家臣。大道寺周勝の子とするのが通説であるが、弟や従兄弟とする説もある。大道寺政繁の父。受領名は駿河守。通称は弥三郎。周勝の生前... |
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大道寺友山
江戸時代の武士、兵法家。山城国伏見の人で、諱を重祐、通称を孫九郎(大道寺氏嫡男代々の通称)と称した。晩年に『武道初心集』『岩淵夜話』『落穂集』などを... |
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遠山綱景
戦国時代の武将。後北条氏の家臣。遠山直景の長男とされる。遠山隼人佐、遠山政景、法性院の父。官位は甲斐守、丹波守。なお、綱の字は北条氏綱から1字もらっ... |
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後北条氏
関東の戦国大名。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる伊勢盛時(北条早雲)(1432年-1519年)をその祖とする... |
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北条氏邦
戦国時代の武将。北条氏康の四男。氏政、氏照の弟、氏規、氏忠、氏光、上杉景虎の兄。藤田康邦の娘婿となり家督を継いだ。藤田安房守(藤田氏邦)を名乗り、... |
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大道寺盛昌
父
大道寺盛昌(だいどうじもりまさ、明応4年(1495年)-弘治2年(1556年))は戦国時代の武将で、後北条氏の家臣。 |
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真田昌幸
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃先方衆として甲斐武田氏家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自。武田信玄時代の武田家に仕え、武田... |
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北条氏照
戦国時代の武将。北条氏康の3男で北条氏政の弟である。生年を天文10年(1541年)、天文11年(1542年)とする異説もある。宗家の虎に呼応し、「如意成就」と刻... |
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北条早雲
室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢宗瑞(いせそうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、... |
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北条幻庵
戦国時代の武将。北条早雲(伊勢盛時)の3男。箱根権現社別当。金剛王院院主。 |
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梶原景宗
安土桃山時代の武将。後北条氏の家臣。備前守。紀伊国の出身であったが、水軍の指揮に長けたことを北条氏康に見込まれて、その家臣となった。里見氏や武田氏... |
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北条氏直
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。 |
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大道寺直英
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。弘前藩津軽氏の家臣。紀伊国藤縄の住人舎人経忠の長男。後北条氏の家臣大道寺政繁の養子となる。幼名は勇丸。通称... |
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清水康英
戦国時代の武将。後北条氏の家臣で伊豆・下田城城主。もともとの本拠地は伊豆奥郡で加納矢崎城城主。康英の「康」は、北条家第三代当主である北条氏康からの... |
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上杉憲政
戦国時代の大名。室町幕府の関東管領を務めた山内上杉家の当主である。上杉謙信を養子とした。憲当、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の呼称で統一... |
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プロフィール
大道寺政繁(だいどうじまさしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 後北条氏の家臣。父は大道寺重興。大道寺氏代々の通称である「孫九郎」を名乗る。通称は大道寺駿河守。
生涯
| 大道寺氏は平氏とも藤原氏とも言われるが、代々末裔では「平朝臣」を名乗っている。 |
| 大道寺氏は北条氏小田原後北条氏。 |
| 以降この項目では「北条氏」と略す家中では「御由緒家」と呼ばれる家柄で、代々北条氏の宿老的役割を努め、主に河越城を支配していた。 |
| 政繁は北条氏康・氏政・氏直の3代に仕えた。 |
| 「政」の字は氏政の諱字を賜ったものだとも言われている。 |
| 内政手腕に優れ、河越城代を努めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行、火元奉行などを設けて城下振興を行うなど、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと伝えられている。 |
| 天正12年(1584年)には新たに坂戸宿を開き、現在の坂戸市発展の礎となっている。 |
| 父の職を相続し、鎌倉代官を務めて寺社の統括にも当たっていたと伝えられている。 |
| 軍事面においては「河越衆」と呼ばれる軍団を率い、三増峠の戦いや神流川の戦いなど、時々の北条氏の主要な合戦の、そのほとんどに参戦して武功を挙げた。 |
| 天正10年(1582年)、甲斐の武田氏滅亡後に北条氏が支配していた上野国に、武田氏滅亡戦の余波のまま織田信長の侵攻が始まった。 |
| しかし同年、本能寺の変が起こり織田家中が混乱すると、その隙に北条氏は上野を奪還し、逆に信濃へ侵攻する。 |
| 政繁は小諸城主とされ、最前線を担当し徳川家康と対峙するが、北条と徳川の間に講和が成立し、政繁らも信濃より引き上げる。 |
| 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、中山道の入り口である上野国の松井田城を守っていた政繁は、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとするが、兵力で劣勢にあり敗北した。 |
| そして籠城戦を覚悟し、城に籠もって戦うが、圧倒的な大軍の前に郭を次々と落とされたため、政繁らは討ち死にを覚悟して孫を脱出させたが、真田昌幸が見て見ぬふりをしたという。 |
| 水脈を断たれた上兵糧を焼かれ、ついに本丸に敵兵が及ぶに至り、開城降伏した。 |
| その後、豊臣方に加えられ、忍城攻めの道案内を勤め、5月22日に武蔵松山城、6月14日に鉢形城、6月23日に八王子城攻めと北条氏の拠点攻略戦に加わっている。 |
| 特に八王子城攻めにおいては、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し最も働いたとされている。 |
| しかし7月5日に小田原城が陥落した後の同月19日、秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀らと同じく開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、北条氏の中心勢力を一掃させたかった、など諸説あり)、自らの本城である河越城下の常楽寺(河越館)にて切腹を命じられた。 |
| 一説には江戸の桜田で処刑されたともいわれる。 |
| 大道寺氏は政繁の死によって、一旦滅亡した。 |
| 埼玉県川越市の常楽寺に供養塔が残り、群馬県安中市の補陀寺に墓が残る。 |
| さらに、青森県弘前市の貞昌寺には、政繁・養子の隼人が建立した供養塔と隼人の墓が並んで残っている。 |
家系図
| 周勝(重興)・資親の系譜関係は、盛昌の子で兄弟とも、盛昌-周勝(重興)-資親-政繁と親子になるともされはっきりしない。 |
| 大道寺周勝(重興) 大道寺資親。 |
| 大道寺直繁 大道寺直重 ● 大道寺直次。 |
子孫
| 政繁の妻は、遠山綱景(藤九郎隼人)の娘である。 |
| 最初、舎人経忠に嫁ぎ男子を儲けたが、経忠は第二次国府台合戦(1563年)で戦死した。 |
| 同じ合戦で、遠山綱景と綱景の嫡男・隼人佐もが戦死した。 |
| 綱景は、江戸城と江戸葛西城の城代だったが、大道寺政繁とは後北条氏3大重臣の同志でもあった。 |
| 綱景の娘は、この窮状打開のため、政繁へ再婚の願いを申し出た。 |
| 申出は認められ、娘は政繁に再嫁し前夫との間の子は政繁の養子になり大道寺直英を名乗った。 |
| その後、4人の異父弟が生まれた。 |
| 直英は養子のため、系図には五男と記載されているが、最年長で実質の長男だった。 |
| 築城の名手との記録もあり、政繁と共に河越城、松井田城の大改修を行った。 |
| 天正10年(1582年)、徳川家康の次女・督姫と北条氏直との婚礼を機に徳川・北条両家が同盟を結ぶと、大道寺氏は関八州の守りを任された。 |
| 直英が河越城の城代、政繁と直重が松井田城の城代、直繁と直次が小田原城に家臣として居住した。 |
| 小田原攻で北条方が破れ、秀吉の命で政繁は自害した。 |
| 秀吉に対し、家康の強い懇願によって、督姫と氏直や、政繁の子供らは家康への預かりの身となった。 |
| 直繁は一時、北条氏直と共に高野山へ配流されたが、間もなく解放された。 |
| その後も家康の計らいで、優遇され夫々が幕末まで家名を保っている。 |
| 長男・大道寺直繁は将軍・徳川秀忠に召し出され仕えた。 |
| その子は越後高田藩の松平忠輝に仕えたが忠輝が改易となり浪人。 |
| その子の代に甲州流軍学者を輩出し(大道寺友山)、広島藩、会津藩の客分を経たのち蟄居するが、再度越前福井藩に仕官した。 |
| その子孫はそのまま福井藩士として存続し、江戸留守居役などを勤めた。 |
| この家系が政繁ら大道寺氏の通称「孫九郎」の名を継承している。 |
| 次男・大道寺直重(直昌とも)は前田利政に仕え、主家が関ヶ原の戦いで改易後松平忠吉に仕えたのち尾張藩に2千石という高禄で招かれた。 |
| 子孫に至り加増を繰り返して4~5千石を知行し、城代家老を務める家柄となった。 |
| 幕末の尾張藩に起こった青松葉事件に際し、大道寺直良(大道寺主水)が永蟄居処分を受けている。 |
| 三男は仏門に入り、弁誉と号した、江戸深川の名所清澄庭園の隣にある深川本誓寺を中興したと伝わる。 |
| 四男・大道寺直次は当初母方の苗字「遠山長左衛門」「遠山直次」と名乗り順に黒田孝高・豊臣秀次・福島正則・黒田長政・京極忠高に仕えた後、徳川秀忠に1千石で仕え幕府旗本となった。 |
| 尾張藩士・舎人恒忠の子を養子とし、子孫は大道寺に復姓して江戸時代も存続した。 |
| 養子・大道寺直英(大道寺隼人)は徳川家康に仕え、名古屋城築城に携わった。 |
| 尾張藩客分のち弘前藩に仕え弘前城築城にも携わった。 |
| また長命だったので終生、異父弟の面倒もみた。 |
| 子孫は紆余曲折を経て家老を勤める家柄として1千石余を預かり存続し、維新後に県会議長となった。 |
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甲斐の武田氏滅亡後に北条氏が支配していた上... |
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1584年
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新たに坂戸宿を開き、現在の坂戸市発展の礎と... |
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