| 1965年(昭和40年)7月場所再入幕。 |
| 兄弟子・横綱大鵬があれほど苦戦させられた横綱柏戸に強く、初顔の1966年(昭和41年)5月場所(地位は前頭5枚目)5日目、柏戸を土俵際で見事にうっちゃりで勝ち注目を浴びた。 |
| 重さと柔軟性を活かした取り口で、前さばきもうまく柏戸に何度も苦杯を舐めさせた(対戦成績は大麒麟(麒麟児)の9勝8敗)。 |
| 稀代のうっちゃり腰を持っていたが、解説の玉の海、神風とも『俵に足がかかると、うっちゃりしか考えない。 |
| 』とその取り口を批判した。 |
| しかし相手を腹に乗せうっちゃる技は決まれば他に例を見ないほど鮮やかなもので、「麒麟児のうっちゃり」ファンが多数いたのも事実である。 |
| その後三役で大勝ちし大関とりといわれる場所を何度も迎えたが、大事な所で弱く何度も失敗。 |
| 1968年(昭和43年)3月場所では、14日目を終えて2敗と大関豊山と平幕若浪と並んでトップであったが千秋楽で関脇前の山に敗れて優勝のチャンスを逸してしまう。 |
| 1969年(昭和44年)1月場所からは11場所連続で小結(5場所)・関脇(6場所)に座り続け、1970年(昭和45年)5月場所より「大麒麟」と改名。 |
| この場所関脇で9勝6敗、7月場所では14日目を終えて横綱北の富士と関脇前乃山と並びトップであったが、またも千秋楽で前乃山に敗れ優勝争いから脱落、12勝3敗で終えた。 |
| 大関獲りの場所となった秋場所では13日目まで12勝1敗と全勝の横綱玉の海を追っていたが、大関清國と琴櫻に連敗し、結局12勝3敗で終えたが、ようやく大関の座を射止めた。 |
| その後大関昇進後は終盤まで優勝争いという見方では1972年(昭和47年)3月場所と5月場所で13日目までトップを1差で追ってた程度で可もなく不可もなくといった成績を続けていたが、よく初日に敗れることが多かった(大関昇進後、初日のみの戦績は8勝16敗1休)。 |
| 1972年(昭和47年)7月場所に右腕を骨折してからは成績が降下し1973年(昭和48年)3月場所には3勝12敗と大きく負け越した。 |
| 結局大関時代の最高成績は11勝4敗そのうち1972年(昭和47年)5月場所9日目に小結魁傑(現放駒)との取組で、魁傑のマゲを引っ張り反則負けとなっている。 |
| 最近でも2003年(平成15年)7月場所で朝青龍が同様の反則を故意に行ったと見られているが、過失も含めそれほど珍しいことではないので、コメントアウト-->、素質は横綱を充分に期待できる程のものだったが優勝もなく果たせなかった。 |
| 1974年(昭和49年)11月場所、初日前頭筆頭旭國(現大島)、2日目小結魁傑(現放駒)と連敗、3日目前頭2枚目先代栃東に勝ったものの翌日引退、年寄・押尾川を襲名した。 |
| 師匠没後の1975年(昭和50年)9月、内弟子16名を連れて谷中・瑞輪寺に立て籠もり分家独立を申し出た。 |
| 二所ノ関の後継者の座を巡っては、かねてから当時まだ現役で、同年7月場所に初優勝を果たした関脇金剛と相続を争っていたが、金剛が師匠の次女と婚約し事実上勝利した。 |
| 独立はこれを受けてのものだったが周囲の反対に遭い紛糾。 |
| 「二所ノ関騒動」「押尾川の乱」と呼ばれる事態に発展する。 |
| またこの騒動には天龍源一郎も巻き込まれている(結果的に彼は廃業、プロレスラーへ転身した)。 |
| 最終的には花籠親方(元前頭3枚目大ノ海)の調停により、16名中6名(青葉城(現不知火)ほか)を連れて行くことが認められ押尾川部屋を開設した。 |
| 後に、益荒雄(現阿武松)、大至、恵那櫻、佐賀昇などの幕内力士やプロレスラーに転身した玉麒麟=田上明を育てた。 |
| しかし弟子の益荒雄が引退後、強引に分家独立(阿武松部屋)しようとした際には、自身が破門している。 |
| 尚、玉麒麟の突然廃業も確執によるもので、実質的には破門の形で廃業させている。 |
| 日本相撲協会では騒動の影響もあってかなかなか要職に就けなかったが、2004年(平成16年)から1期2年間、理事・審判部長を務めた。 |
| 自らの停年まではまだ余裕があったが後継者を指名することなく部屋を畳むことを決め、2005年(平成17年)4月1日付けで尾車部屋へ若麒麟(のちに大麻取締法違反の罪で起訴された)を含む全力士を移籍させ押尾川部屋は消滅した。 |
| 自身も尾車部屋の部屋付き親方となったが、区切りがついたとして停年まで1年を残して2006年(平成18年)6月30日、協会を退職した。 |
| 退職寸前の2006年の五月場所で幕下付出15枚目格で全勝優勝した下田圭将の十両昇進を見送り同力士がその後低迷したためこれに対する批判が未だにある。 |
| 審判部長退任後のことなので、コメントアウト-->その後、公の場(例:年寄名跡を譲った愛弟子・若兎馬の断髪式)に姿を見せたという話は聞かれなかったが、2010年の角界の野球賭博事件でかつて弟子であった若隆盛が逮捕される際に、ニュース番組の電話取材に応じていた。 |
| 天才と呼ばれることを嫌った兄弟子・大鵬に「彼こそ天才と呼ぶにふさわしい」と言わしめた。 |
| 横綱照國もそうだったが、体重のある大兵なのに足腰は柔軟であり吊り上げると相手に被さるように重さが掛かってしまうのが特徴だった。 |
| 廻しをきつく締めても取り組み中に緩みやすいところも似ていた。 |
| 口をへの字に曲げ下唇をやや突き出しながら、体をグニャグニャと動かし柔軟さを表した仕切り姿も特徴的で、特に廻しをちょっとずり上げる、かと思えば軽く叩く等細かい動きを仕切りの間中行い、丁度メジャーリーガーのノマー・ガルシアパーラが打席に立った時に手袋をいじり続けるのと非常に似通ったある種奇怪な動きを執拗に繰り返し、実況で大鵬が『あれはみっともないからやめろ。 |
| 』と注意したというエピソードが紹介された事があった。 |
| 上位に定着する頃からその動きはかなり減ってきた。 |
| 引退後は、脳梗塞に倒れた兄弟子・大鵬を目の当たりにしてか、絶食により体重を落としスリムな体型に。 |
| また力士になると声帯にも脂肪がついていわゆる力士らしい声になるというが、物言い協議終了後の場内への説明などでは、元力士とは思えぬ高い声であった。 |
| 長男は医師で、本人も健康管理には十分気を使い、平穏な隠居暮らしを望んでいたが、元弟子の若麒麟や若隆盛の逮捕・起訴による心労がたたったためか2010年8月4日、膵臓癌のため68歳で逝去。 |
| 信条とする言葉は「初志貫徹」。 |
| 趣味は読書・ジョギング・碁。 |