| 樹木の育たない寒冷地の景色が広がる。 |
| 光太夫はここでエカチェリーナ2世に謁見し、帰国の許しを乞うた。 |
| 伊勢国亀山藩領南若松村(三重県鈴鹿市南若松)の亀屋四郎治家に生まれる。 |
| 四郎治家は船宿を営み、光太夫(幼名は兵蔵)は次男で兄の次兵衛がいる。 |
| 母は伊勢藤堂藩領玉垣村(鈴鹿市玉垣)で酒造業・木綿商などを営む清五郎家の娘妙伯(法名)。 |
| 父の四郎治は兵蔵の幼少期に死去し、四郎治家は姉の国に婿養子を迎え家督を相続させる。 |
| 兄の次兵衛は江戸本船町の米問屋白子屋清右衛門(一味諫右衛門)家に奉公し、兵助も長じると母方の清五郎家の江戸出店で奉公する。 |
| 1778年(安永7年)に兵蔵は亀屋分家の四郎兵衛家当主の死去に際して養子に迎えられ、伊勢へ戻ると亀屋四郎兵衛と改める。 |
| 伊勢では次姉いのの嫁ぎ先である白子の廻船問屋一味諫右衛門の沖船頭小平次(沖船頭大黒屋彦太夫)から廻船賄職として雇われ、船頭となる。 |
| 1780年(安永9年)には沖船頭に取り立てられ、名を大黒屋光太夫に改める。 |
| 1782年(天明2年)12月、光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢国白子の浦から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風にあい漂流する。 |
| 7ヶ月あまりの漂流ののち、一行は日付変更線を超えてアリューシャン列島の1つであるアムチトカ島へ漂着。 |
| 先住民のアレウト人や毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇した。 |
| 彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得。 |
| 4年後(1787年)、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。 |
| その後カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年(寛政元年)イルクーツクに至る。 |
| 道中、カムチャツカでジャン・レセップスフランス人探検家。 |
| スエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父に会い、後にレセップスが著した旅行記には光太夫についての記述がある''JournalhistoriqueduvoyagedeM.deLesseps,consuldeFrance,employédansl'expéditiondeM.lecomtedelaPérouseenqualitéd'interprèteduroi;depuisl'instantoùilaquittélesfrégatesFrançaisesauportSaint-PierreetSaint-PaulduKamtschatkajusqu'àsonarrivéeenFrancele17octobre1788'',Paris,Impr.royale1790,2vol.Royal1790,2vol.in8.in8. |
| 英題''TravelsinKamchatkaduringtheyears1787and1788'' |
| イルクーツクでは日本に興味を抱いていたキリル・ラクスマンと出会う。 |
| キリルを始めとする協力者に恵まれ、1791年(寛政3年)、キリルに随行する形でペテルブルクに向かい、キリルらの尽力により、ツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世に謁見し、帰国を許される。 |
| 日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て磯吉、小市と三人で根室へ上陸、帰国を果たしたが、小市はこの地で死亡、残る二人が江戸へ送られた。 |
| 光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、新蔵と庄蔵の2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけであった。 |
| 帰国後は、11代将軍徳川家斉、老中の松平定信の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周が『漂民御覧之記』としてまとめ多くの写本がのこされた。 |
| また、桂川甫周は、光太夫の口述と『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして『北槎聞略』を編纂した。 |
| 海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は蘭学発展に寄与することになった。 |
| 光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に対し影響力を強めていくようになった。 |
| その後、光太夫と磯吉は江戸・小石川の薬草園に居宅をもらっている。 |
| ここで光太夫は新たに妻も迎えている。 |
| 故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ている。 |
| 昭和61年(1986年)に発見された古文書によって故郷伊勢へも一度帰国を許されていることが確認された。 |
| 寛政7年(1795年)には、大槻玄沢が実施した新元会に招待されている。 |
| また、多くの人に招待されてロシアの話を語るなど、比較的自由な生活を送っており、決して軟禁されていた訳ではないようである。 |
| 即時の帰郷を認められず行動も制限されていた。 |
| こういう状況を一般には軟禁と呼ぶはずである。 |
| 完全に自由を奪われていたなら拘禁もしくは監禁という-->。 |