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野津道貫
幕末の薩摩藩士、明治の陸軍軍人、貴族院議員。東部都督、教育総監、第4軍司令官を歴任した。通称は七次。諱は道貫。最終階級は元帥陸軍大将正二位大勲位功一... |
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児玉源太郎
日本の武士、陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功一級子爵(なお、兒玉源太郞の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体)。日露戦争において満州軍... |
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大山巌
日本の武士、政治家、元老、軍人。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活... |
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乃木希典
日本の武士(長府藩士)、軍人。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年〔大正5年〕)。家紋は「市松四つ目結い」。幼名... |
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桂太郎
日本の武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。諱は清澄(きよずみ)元老井上馨とは義理の親子の... |
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立見尚文
立見尚文(たつみなおふみ、弘化2年7月19日(1845年8月21日)-明治40年(1907年)3月6日)。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。桑名藩士、日本の裁判官... |
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川上操六
日本の陸軍軍人、華族。官位は参謀総長・陸軍大将。位階勲等は従二位・勲一等・功二級・子爵。幼名宗之丞。長男の素一は陸軍少佐、娘は小原伝陸軍中将に嫁ぐ... |
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東郷平八郎
日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。階級位階勲等功級爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 |
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黒木為楨
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。伯爵。通称は七左衛門。 |
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長谷川好道
日本の陸軍軍人。韓国駐剳軍司令官、参謀総長、朝鮮総督を歴任。官位は元帥陸軍大将・従一位大勲位功一級伯爵。 |
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秋山好古
日本の陸軍軍人。階級及び位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。幼名は信三郎。陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味... |
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川村景明
日本の陸軍軍人、華族。東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任した。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級子爵。通称は源十郎。 |
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上原勇作
明治~昭和期の陸軍軍人。元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵。陸軍大臣、教育総監、参謀総長。日向国都城(現宮崎県都城市)出身。妻は野津道貫の娘、槙子。 |
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三浦梧楼
三浦梧楼(梧樓)(みうらごろう、弘化3年11月15日(1847年1月1日)-大正15年(1926年)1月28日)は日本の武士、軍人、政治家。陸軍中将、子爵。号は観樹。 |
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加藤友三郎
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。海軍大臣、内閣総理大臣(第21代)などを歴任した。 |
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山川浩
山川浩(やまかわひろし、1845年12月4日(弘化2年11月6日)-1898年(明治31年)2月4日)は幕末の武士(会津藩家老、斗南藩大参事)、明治時代の陸軍軍人、政... |
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谷干城
幕末から明治にかけて活躍した、土佐藩士、軍人、政治家。通称は申太郎、守部。号は隈山。第2代学習院院長。東京学士会院会員、後に帝国学士院会員。官位は陸... |
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秋山真之
大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は従四位・勲二等・旭日重光章。幼名は淳五郎(じゅんごろう)。母は貞。実兄に「日本騎兵の父」と云わ... |
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大隈重信
日本の武士(佐賀藩藩士)、政治家、教育者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は侯爵。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・11・14・29代)、農... |
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プロフィール
- 奥保鞏とは
- 生涯
- 南山の戦い
- 得利寺の戦い
- 遼陽会戦
- 沙河会戦
- 黒溝台会戦
- 奉天会戦
- 人物像
- 親族
- 参考文献
奥保鞏(おくやすかた、弘化3年11月19日(1847年1月5日)-1930年(昭和5年)7月19日)は、明治の大日本帝国陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。
生涯
| 豊前小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として豊前国小倉に生まれる。 |
| 15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぎ、馬廻・知行三百石となって七郎左衛門と改名。 |
| 小姓、物頭を務める。 |
| 幕末は幕府側に立つ主家に従い、長州征伐に参加。 |
| 明治2年(1869年)1月に足軽隊長となり、翌月、東京に遊学。 |
| 明治4年(1871年)5月、常備4番小隊長に就任。 |
| 同年6月、陸軍に入営し西海鎮台2番大隊小隊長に着任。 |
| 同年11月、陸軍大尉心得となり鎮西鎮台(後の熊本鎮台)に所属。 |
| 明治5年(1872年)4月、陸軍大尉に昇進し鹿児島分営所に配属。 |
| 1894年11月、野津道貫の後任として第5師団長となり、翌月、日清戦争に出征。 |
| 8月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。 |
| 10月27日に近衛師団長に発令。 |
| その後、東京防御総督、東部都督を歴任。 |
| 10月、インドに出張し、翌年3月に帰国。 |
| 11月、陸軍大将に進級。 |
| 1930年(昭和5年)7月19日没。 |
| 享年85(数え)。 |
南山の戦い
| 第2軍は第1師団、第3師団、第4師団、騎兵第1旅団で編成され、清国遼東半島における拠点として大連を確保することを目的とした。 |
| 5月5日から13日にかけて遼東半島に上陸し、5月26日午前5時からロシア軍の陣地である南山への攻撃を開始した。 |
| 第2軍はロシア軍の堅固な防塁と機関銃の斉射により大苦戦となったが、奥は攻撃を断念せず苛烈に攻めた。 |
| 午後5時になり海軍の砲艦による艦砲射撃も加えた突撃を行い、午後8時にようやく南山を占領した。 |
| この時の死傷者は4,387名にのぼり、損害数を聞いた東京の大本営は「ゼロが1つ多すぎるのではないか」と耳を疑ったという。 |
| この戦いにより、「南山の奥」としてさらに勇名を馳せることになった。 |
得利寺の戦い
| 大連占領後、旅順攻撃を行う第3軍へ第1師団が移り、編成替えにより第3師団、第4師団、第5師団、野戦砲兵第1旅団、騎兵第1旅団を指揮下とし、第2軍は遼陽を目指して北上した。 |
| 6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍4万と遼陽南方210キロメートルにある得利寺で激突した。 |
| 2日間にわたる戦闘で、第2軍は側面攻撃を有効に用いて自軍より兵力の大きいロシア軍を撃退した。 |
| これにより、旅順要塞の孤立が決定的になった。 |
遼陽会戦
| 得利寺での勝利後、新たに第6師団を指揮下に加え、蓋平、大石橋での戦闘に勝利した。 |
| その後第5師団が第4軍指揮下となって去ったが、8月4日までに遼陽をうかがう位置まで前進した。 |
| 24日の第1軍に続き、第2軍は第4軍とともに25日に作戦行動を開始した。 |
| 鞍山站は抵抗なく占領でき、続いて攻めかかった首山堡は頑強な抵抗に遭遇し、屍山血河の惨烈な戦闘となった。 |
| 後に軍神第1号となった第3師団歩兵第34連隊第1大隊長の橘周太少佐が戦死したのも、この首山堡であった。 |
| 31日朝に1度占領するも奪還され、第2軍は崩壊の危機に面したが、9月1日の第1軍によるロシア軍左翼への側面攻撃に動揺したロシア軍を追撃し、4日朝までに遼陽一帯を占領することができた。 |
沙河会戦
| 10月2日、日本軍の補給欠乏を見越したロシア軍が反転攻勢に出た。 |
| 迎え撃つ日本軍は右翼第1軍を軸とした旋回包囲作戦を開始し、左翼の第2軍は10日より果然前進した。 |
| 特に13日から14日にかけて、沙河左岸一帯において夜襲につぐ夜襲という猛烈な攻撃をかけた。 |
| この攻撃により、ロシア軍首脳部は大きな誤解をした。 |
| 日本軍には豊富な予備隊があるに違いないと判断したのである。 |
| さらに17日まで攻撃を続行すると、ロシア軍は退却を開始した。 |
| しかし戦力の限界にあった第2軍に追撃する余力はなかった。 |
黒溝台会戦
| 1月25日、日本軍最左翼を守備していた第2軍所属の秋山支隊8000(秋山好古少将指揮、騎兵第1旅団を中核とした歩・砲・工兵混成部隊)にロシア軍10万が攻撃を開始した。 |
| 秋山支隊は右翼から李大人屯、韓山台、沈旦堡、黒溝台の4陣地を軸として頑強に抵抗し、満州軍総司令部は予備隊の第8師団を援軍として急派したが、第8師団司令部の敵情誤断により黒溝台陣地の放棄を強制され、しかも第8師団自体も26日に逆襲包囲されるという事態に陥った。 |
| 第2軍は靡下の第3師団を派遣したが、満州軍総司令部の兵力逐次投入、急遽臨時軍(臨時立見軍:第8師団長・立見尚文中将が臨時司令官)編成という愚策に踊らされ、速やかな作戦行動ができなくなった。 |
| ようやく28日にいたり、第3師団と第5師団が秋山支隊右翼陣地のロシア軍を撃退した。 |
| 黒溝台陣地も第8師団及び第5師団による大夜襲を決行し、ロシア軍は潰走した。 |
奉天会戦
| 2月22日に鴨緑江軍による行動開始に始まり、第2軍は第3師団、第4師団、第6師団、第8師団、秋山支隊及び3個後備旅団を指揮下におき、日本軍中央左翼を担当して2月27日から砲撃を開始、3月7日まで攻撃を続行したが、ロシア軍の抵抗は激しく前進がままならなかった。 |
| ところが7日深夜になり、突如ロシア軍が退却を始めた。 |
| 日本軍に包囲されると勘違いしたロシア軍首脳部が、中央の部隊に退却命令を出したのである。 |
| 8日から猛烈に追撃戦を行い、10日に第2軍は第4軍とともに奉天を占領した。 |
| しかし、それ以上の攻撃余力がなく、この会戦が事実上日露戦争最後の陸戦となった。 |
人物像
| 佐幕側であった小倉藩出身であり、しかも長州藩と直接戦火を交えた立場であったにもかかわらず、陸軍内で異例の抜擢を受け続けた。 |
| これはひとえに奥自身の指揮統帥能力及び古武士に例えられる謙虚な性格によるものである。 |
| 後年、薩長・皇族以外の出身者としてはじめて元帥となったが、この時も異論を唱えるものが誰もいなかったと言う。 |
| 日露戦争において、軍司令官や参謀長人事は薩長出身者がほとんど独占したが、「奥だけは外せまい」というのが陸軍部内の一致した見方であった。 |
| 4人の軍司令官のうち、作戦参謀の補佐がなくても作戦計画を立案出来るのは奥だけだった。 |
| 奥は難聴であったが、指揮采配に支障をきたすことはなく、司令部では幕僚と筆談で意見交換を行ったと言われている。 |
| 生涯自分の戦功などを語ったことがなく、むしろ功績を消そうとすることもあったらしい。 |
| 日露戦争終戦後凱旋した際、日の丸を揚げてバンザイを叫ぶ人々の姿を見て、「済まぬ、許してくれ」(父親や兄弟達を大勢戦死させた自責の念と思われる)と呟いたという逸話が残っている。 |
| 天性の軍人らしく、政治向きのことには一切興味を示さず、静かな晩年を過ごした(第5師団長時代、桂太郎が台湾総督を辞任した際に後任を打診されたが断った事もある程)。 |
| それ故世間からは忘れ去られがちで、死去したときも「まだ生きていたのか」と驚く人が少なくなかったという。 |
参考文献
| 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。 |
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1847年
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奥 保鞏(おく やすかた、弘化3年11月19日193... |
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1869年
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足軽隊長となり、翌月、東京に遊学 |
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