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393年に父姚萇が病没すると、長子(末子との記述もある)とされる彼が大秦皇帝に即位した。
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394年、姚興は攻め込んできた前秦の苻登を撃退すると、同年、これを馬毛山(現在の甘粛省平涼市)に討って処刑した。
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ここに後秦による関中の統一が実現した。
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姚興はこの後も盛んに外征を繰り返し、396年にオルドスを占領し、399年に洛陽を陥落させ、400年に西秦を滅ぼし、401年に後涼を降して河西諸政権を従属させた。
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402年に北魏と戦って大敗はしたものの、403年に東晋から淮河以北の広大な地域を占領し、405年に後仇池を降伏させるなど、華北に巨大な勢力を築き上げた。
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一方で、姚興は仏教を篤く信奉しており、401年に後涼を降伏させると、亀茲僧の鳩摩羅什を都長安(常安)へ招聘した。
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姚興は、鳩摩羅什を国師として拝し、各地に寺院を建立して手厚く保護した。
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姚興自身も熱心に仏典を追究し、鳩摩羅什に請いて特に『実相論』『維摩経注』を訳出させたといわれる。
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なお、姚興の弟の大将軍姚顕や左将軍姚嵩も、篤く鳩摩羅什を信奉し、しばしば説法に参加したという。
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405年、姚興は巨大化した仏僧集団を整備するため、鳩摩羅什の弟子僧肇を初代大僧正に任命して、これを統制した。
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晩年になると、姚興はしばしば危篤状態となり、それと共に諸子が後継者争いを起こして内紛を続出させた。
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姚興は国と太子の姚泓の身を案じて、51歳で死去した。
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