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沖縄県那覇市出身。
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沖縄高校(現・沖縄尚学高校)から琉球煙草を経て、1964年に広島に入団。
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沖縄県の高校が初めて実力で甲子園に出場(1962年の第44回全国高校野球選手権大会。
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当時、夏の甲子園大会はまだ1県1代表制ではなく、甲子園に出るには宮崎県代表を破る必要があった)した時の主戦投手として知られていたが、当時まだアメリカの占領下にあった沖縄県から初のプロ野球選手として注目された。
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琉球煙草でも沖縄県勢として都市対抗野球大会に初出場しているため、甲子園、都市対抗、プロ野球、すべてが初となり、さらに初先発した巨人戦は沖縄県でプロ野球がテレビで生中継された『野球小僧』、白夜書房、2009年2月号、188-194頁。
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当時、テレビが10軒に1軒あるかないかという時代。
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全国各地では沖縄県出身者による後援会が次々と誕生し、投げる前から話題が先行、そのプレッシャーたるや大変なものであったという。
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1966年7月31日の巨人戦では9回2死まで無安打無四球に抑えたが、あと一歩のところで逃すなど、当時唯一ラジオ中継があった巨人戦では死ぬ気で投げた。
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横手投げから、2種類のシュートとカーブ、スライダーを投げ分ける投球である。
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1968年、根本陸夫監督に見いだされ得意のシュートを武器に強気の投球でこの年23勝を挙げエースとなる。
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その後低迷した時期もあったが1974年オフに若生智男とのトレードで阪神に移籍し見事復活、1975年には最優秀防御率のタイトルを獲得した。
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1979年オフに金銭トレードで広島に復帰し、リーグ優勝に貢献し同年の日本シリーズ第1戦にリリーフ登板。
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巨人戦で通算34勝を挙げ「巨人キラー」と呼ばれた。
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その後広島のコーチや二軍監督、中国放送、デイリースポーツの解説者を経て、2005年から一軍投手コーチに復帰したが、春季キャンプで投手に2500球もの凄まじい投げ込みを命じて、タフな黒田・大竹を除き、達成した河内・佐藤・長谷川と言うドラフト上位選手の肩を潰した事はあまりにも有名で、球団としてはこのような失態を二度と繰り返す事がなきよう、凄まじい投げ込みを禁止し、球団の成績不振で辞任した山本浩二監督とともに辞任した。
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この年の安仁屋はあごに白いヒゲを生やしており、赤い広島のユニフォームと相まって「安仁屋サンタ」と一部から呼ばれていた。
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2006年から中国放送野球解説者、デイリースポーツ野球評論家の活動を再開している。
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解説、評論の仕事をするようになっても広島市民球場は毎試合、1日も欠かさず見に行っており、新球場にも毎試合行くという『野球小僧』、2009年2月号、196-197頁。
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また郷里では、社会人野球チームで自身が総監督を務める安仁屋ベースボールTRYを結成した。
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幼い頃から巨人の藤田元司に憧れを抱いており、都市対抗野球で当時巨人の本拠地であった後楽園球場を訪れた際には感動したという。
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通算119勝はその藤田と同じである。
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余談になるが野球漫画、テレビドラマ、映画などで知られる「ROOKIES」の安仁屋恵壹の苗字は安仁屋からとったものである。
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また、津田恒実の現役時代や闘病の模様をドラマ化した「最後のストライク」(フジテレビ)において宇崎竜童が演じた安仁屋の役は、酒乱で誰も寄せ付けなく酒場では独壇場であるが、その反面情に脆いという好演であり安仁屋の人の良さが浮き彫りになったドラマであった。
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見舞いに行った安仁屋に、ほとんど口もきけない状態だった津田が「あにやさん、のみすぎんように」とつぶやいたエピソードは有名。
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実際酒豪で鳴らし、現役中には二日酔いで練習中腹筋をしながら居眠りしたり、コーチ時代にも投手陣を引き摺り広島のネオン街・流川でのハシゴはもちろん、遠征中も夜ホテルの選手の部屋を見回り、部屋に選手が残っていると「遊びに出ろ!」と命令したという。
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川口和久も公私ともお世話になった恩師と名前を挙げている(投球論 川口和久著より)。