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つながりの強いひと
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出羽海
出羽海(でわのうみ)は日本相撲協会の年寄名跡のひとつである。初代から5代までは出羽ノ海であったが、角聖と呼ばれた5代・出羽ノ海(元第19代横綱・常陸山... |
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双葉山定次
大相撲の第35代横綱。大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身。身長179cm、体重128kg。)血液型はA型。 |
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双葉山
大相撲 の第35代 横綱 。 大分県 宇佐郡 天津村布津部(現在の 宇佐市 下庄)出身。身長179cm、体重128kg。 |
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羽黒山政司
新潟県西蒲原郡松長村大字羽黒(のちの中之口村、現新潟市西蒲区)出身の大相撲第36代横綱。身長179cm、体重130kg。得意手は左四つ、吊り、寄り、上手投げ。 |
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前田山英五郎
前田山英五郎(まえだやまえいごろう、1914年5月4日-1971年8月17日)は大相撲の第39代横綱。本名・萩森金松。愛媛県西宇和郡喜須来村(後の保内町、現在の八... |
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梅ヶ谷藤太郎
20代 梅ヶ谷 藤太郎(二代) 所属部屋 雷部屋 本名 小江音松 生年月日 明治11年3月11日 出身地 富山県富山市水橋大町 四股名改変 梅ノ... |
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若乃花幹士
大相撲の力士、第45代横綱。所属は入門当時は二所ノ関部屋、1953年に花籠部屋の独立とともに移籍。青森県弘前市青女子(あおなご)出身。身長179cm、体重107k... |
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千代の山雅信
千代の山雅信(ちよのやままさのぶ、1926年6月2日-1977年10月29日)は大相撲の力士で第41代横綱。本名杉村昌治。身長192cm。出羽海部屋所属。 |
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西ノ海嘉治郎
25代 西ノ海 嘉治郎(2代) 所属部屋 井筒部屋 本名 牧瀬→近藤休八 生年月日 明治13年2月6日 出身地 鹿児島県西之表市西之表川迎 四股名... |
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男女ノ川登三
大相撲の第34代横綱。茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市)出身。本名:坂田供次郎。読み方は「きょうじろう」と「ともじろう」の2説ある。現役時代の体格は... |
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栃木山守也
大正時代に無敵を誇った大相撲の第27代横綱。第22代横綱太刀山と並ぶ「大正の大横綱」。栃木県下都賀郡赤麻村(現在の栃木市藤岡町赤麻)出身。本名:横田(... |
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鏡里喜代治
青森県三戸郡斗川村(現在の三戸郡三戸町)出身で時津風部屋(入門時は粂川部屋)所属の元大相撲力士、第42代横綱。本名は奥山喜世治(おくやまきよじ)。現... |
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栃錦清隆
東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)出身の大相撲の第44代横綱。本名、大塚清(おおつかきよし)(のちに栃木山の養子になり、中田姓)。身長178cm、体重... |
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常ノ花寛市
スカウト
岡山県岡山市出身で出羽ノ海部屋所属の元大相撲力士、第31代横綱。本名は山野辺寛一(やまのべかんいち)。現役時代の体格は身長178cm、体重112kg。 |
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吉葉山潤之輔
北海道厚田郡厚田村(現、石狩市)出身の大相撲力士、第43代横綱。身長179cm、体重143kg。 |
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大鵬幸喜
元大相撲力士。第48代横綱である。身長187cm。血液型はB型。樺太敷香郡敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉で育った。 |
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佐田の山晋松
大相撲の第50代横綱。のち日本相撲協会理事長。本名、市川(旧姓佐々田)晋松。長崎県南松浦郡有川町(現新上五島町)出身。身長182cm、体重129kg。一時期佐... |
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谷風梶之助
仙台藩・陸奥国宮城郡霞目村(現在の宮城県仙台市若林区霞目)生まれの大相撲力士であり、第4代横綱。実質的な初代横綱。江戸時代の大横綱で、大相撲史上屈指... |
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朝潮太郎
高知県安芸郡(現在の高知県室戸市)出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は大関。現在は年寄・7代高砂浦五郎。本名は長岡末弘(ながおかすえひろ)、現... |
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プロフィール
- 安藝ノ海節男とは
- 打倒双葉山
- 世紀の一番
- 横綱昇進
- その後
- 主な成績
安藝ノ海節男(あきのうみせつお、1914年5月30日-1979年3月25日)は大相撲の第37代横綱。広島県広島市宇品町(現・広島市南区宇品御幸)出身。 双葉山の70連勝を阻止、69連勝で止めた「世紀の一番」で知られるが、自身も風格ある土俵態度で人気のある名横綱となった。本名は永田節男、四股名は「せつお」だが本名は「たかお」と読む。現役時代の体格は177cm、127.5kg。
打倒双葉山
| 食料品商の家に生まれ、宇品尋常高等小学校卒業後は家業を手伝う。 |
| 昭和6年(1931年)市内で開催された関西中学校相撲選手権を観戦した折、藤嶌(元横綱常ノ花)にスカウトされ角界入り。 |
| 昭和7年(1932年)2月場所に出羽海部屋から永田の四股名で初土俵。 |
| 序二段のとき安藝ノ海と改名する。 |
| 順調に昇進して昭和11年(1936年)1月場所に新十両、昭和13年(1938年)1月場所、23歳で入幕した。 |
| 当時の出羽海部屋では、打倒双葉を目指して場所ごとに作戦会議を開いたという。 |
| その中から、「どうやら双葉山は右に食い付かれるのを嫌がる」「無理な投げを打って体勢を崩すこともあるので、そこを掬うか足を掛けるかしてはどうか」という作戦が生まれた。 |
| また、それまで何度も双葉山と対戦したことのある力士では、弱点も知られている事もあり、入幕して初の上位挑戦であり、かつ前年の満州巡業のときに、双葉山からけいこ相手に指名されながらも体調不良で断り、その夜のうちに入院(盲腸炎だと伝わる)して、結果的にけいこでも取り組んだことのない安藝ノ海が打倒双葉の期待を担う事になった。 |
| 余談だが漫画家近藤日出造は出羽海部屋に出向き、打倒双葉山を捜している際同じ場所の初日に双葉山と当たった五ツ嶋が、「俺なんかダメだが、うちの安藝ノ海は面白いよ」と語ったことも、後で「世紀の予言」と語り草になった。 |
世紀の一番
| 昭和14年(1939年)1月場所4日目の「世紀の一番」、立行司17代式守伊之助の軍配が返るや突っかけた安藝は頭を下げながら突っ張った。 |
| 双葉も小刻みに突っ張り返して応戦、得意の右差しに持ち込み右を覗かせてきた。 |
| 左差しで食い下がろうと考えていた安藝は目論見が外れたが逆に右前褌を取って食い下がる型に入った。 |
| 両廻しを取れない双葉は強引に右から掬ったが、逆に腰が伸びた。 |
| 土俵下力士溜まりの前頭筆頭笠置山は心中、「今だ、今だ!」と絶叫したという。 |
| なかなか安藝ノ海の脚が飛ばず、後年、「あれだけ入念に作戦を練って、まさにその通りになっても、なかなかおもうようにいかないのだから、相撲はわからない。 |
| あの安藝ノ海をしてそうなのだから」と述懐したが、ついにその左外掛けで双葉の牙城を崩し、二回目の掬い投げを打とうと双葉が右足を踏み込んだ瞬間、安藝の左足が飛んだ。 |
| ぐらついた双葉が掛けられた足を振り払い起死回生の右下手投げを打つが、安藝は右足一本でこらえて体を浴びせ、遂に双葉が土俵中央に倒れた。 |
| 世紀の一瞬に両国国技館は比喩でなくその天井が大歓声によってふるえたという。 |
| 実況を担当していたNHKアナウンサー和田信賢は、後ろの席にいた先輩アナウンサーである山本照に「双葉山負けたね?双葉山負けたね?」と繰り返し確認した後、「双葉散る!双葉散る!旭日昇天まさに69連勝、70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭安藝ノ海の左外掛けに散る!時に、昭和14年1月15日、双葉山70連勝ならず!まさに七十、古来やはり稀なり!」と絶叫した。 |
| かくて安藝ノ海は双葉山の70連勝を阻止、一躍英雄となる。 |
| 当時の両国国技館から出羽海部屋までは、普段は歩いて5分ほどだったが、この日は双葉山を倒した英雄を一目見ようと詰めかけた大観衆にもまれ、部屋までたどり着くのに30分もかかり、到着した時に足元を見ると雪駄が片方消えていたという。 |
| 故郷の広島には「オカアサンカツタ」の電報を打ち、また実家に直接電話をして勝利を報告した(実家ではラジオで勝利の報を聞いた家族が、全員で万歳している写真が残っている)。 |
| この時、師匠出羽海(元小結両國)や、入門の時世話になった藤嶌からは、「''勝って褒められるより、負けて騒がれるようになれ''」とさとされた。 |
| この「世紀の一番」は大相撲史上で最初の号外として伝えられた、と言われている。 |
| しかし、この号外の紙面は現存しない。 |
横綱昇進
| 「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」と稽古に励み、昭和18年(1943年)1月照國と同時に横綱昇進。 |
| のちのちまで「横綱になれたのは、あの一番があったから」と述懐した。 |
| 一方で「なんとかもう一度」と挑んだ双葉山には、その後9連敗と二度と勝てなかった。 |
| しかし、「双葉関は相手が誰でも変わらぬ相撲を取った人だが、自分に対してだけは特別な感情があるように感じた」と言い、後々までこれを誇りにしていた。 |
| 現役を通して唯一の金星が双葉山を倒した一番だった。 |
| また幕内在位18場所で皆勤して負け越したのは実質の最終場所になった昭和20年(1945年)11月場所と、双葉山を倒した場所だけだった。 |
| 優勝は1回だが、これは関脇時代の昭和15年(1940年)5月場所、14勝1敗で記録したものであった。 |
| ほかにも、大関時代の昭和17年(1942年)5月場所は、14日目まで13勝1敗で優勝争いの首位にいたが、千秋楽に2敗の横綱双葉山に敗れ、当時の上位優勝制度のために優勝は双葉山にさらわれた。 |
| 上述の通り双葉山には二度と勝てなかったが常に善戦し、玉錦の現役死から照國らの台頭まで、双葉山の全盛期が完全なライバル不在になってしまうことを防いだ。 |
| 左四つを得意とし、前褌を取って食い下がり右をおっつけながら攻める速攻相撲。 |
| 突っ張りや出し投げもあり一番相撲の名人とも呼ばれた。 |
| 非力だったが「相手はみんなウジ虫だと思って土俵に上った」と後年自身が語るほど負けん気の強い人物でもあった。 |
| どういう理由によるものかは不明だが昭和19年(1944年)以降は引退まで逆に縒った綱を締めていた。 |
その後
| 常ノ花の娘と結婚し年寄不知火から藤嶋を継承して、理事になった。 |
| 当然次の出羽海親方の有力候補だったが離婚問題で平年寄に降格されると昭和29年(1954年)一杯で廃業してしまった。 |
| のちに東京で料理店やアパートを経営し、晩年、NHK大相撲中継のゲスト解説にたびたび登場した。 |
| 昭和54年(1979年)3月25日、うっ血性心不全のため鎌倉市の病院で死去。 |
| 安藝ノ海の実家は、広島市の海岸沿い、宇品港の近くにあった。 |
| 戦時中、日本陸軍の兵隊は皆この港から外地へ送られた。 |
| 実家で母親が長らく駄菓子屋を営み、近所の子供達のたまり場となっていたが、近年高速道路建設による立ち退きで消失した。 |
主な成績
| 幕内在位:18場所(うち横綱8場所、大関4場所、関脇2場所)。 |
| 幕内通算成績:142勝59敗38休 勝率.706。 |
| 横綱通算成績:38勝19敗38休 勝率.667。 |
| 幕内最高優勝:1回(1940年1月場所)。 |
| 金星:1個(双葉山)。 |
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1940年
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幕内最高優勝:1回(場所) |
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1979年
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うっ血性心不全のため鎌倉市の病院で死去 |
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投票数
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安藝ノ海節男さんについてのひとこと紹介
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