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実如
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蓮如
母
室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第8世。本願寺中興の祖。同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。明治15年(1882年)に、明治天皇より「慧燈大師」の諡号を追...
証如
戦国時代の浄土真宗の僧。本願寺第10世法主。本願寺第8世法主蓮如の曾孫。
蓮悟
室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧である。本泉寺住持。本願寺第8世法主蓮如の7男。母は伊勢貞房の娘蓮祐。妻は次兄蓮乗の娘。子に実教。養子...
円如
戦国時代の浄土真宗の僧侶。本願寺第9世法主実如の次男、母は高倉永継の娘・如祐。妻は叔父の願証寺住持蓮淳の娘・慶寿院。本願寺第10世法主証如の父。父に先...
蓮淳
室町時代・戦国時代の浄土真宗の僧である。願証寺、顕証寺兼住。本願寺第8世法主蓮如の6男で、母は伊勢貞房の娘蓮祐。子に実淳、実恵、実玄室、実顕室、円如...
顕如
戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。本願寺第十一世。妻(裏方)は三条公頼の三女の如春尼。子に教如・顕尊・准如がいる。
順如
室町時代中期から後期にかけての浄土真宗の僧。光善寺住持。本願寺8世法主蓮如の長子。母は伊勢氏庶流とされる伊勢貞房の娘如了。子に光淳室。諱は光助。幼名...
細川政元
室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名、管領。足利氏の庶流・細川氏当主。幕臣ながら将軍をしのいで事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ば...
蓮綱
室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧である。松岡寺住持。幼名は光養、諱は兼祐。初名は玄寿、後に蓮康と改める。本願寺第8世法主蓮如の3男で、...
蓮誓
室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧である。光教寺住持。本願寺第8世法主蓮如の4男で、母は伊勢貞房の娘如了。幼名は光玉、諱は康兼。子に蓮能...
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存如
室町時代の浄土真宗の僧で、本願寺第七世。本願寺中興の祖・蓮如の父。越中瑞泉寺住持如乗は弟、大和興福寺大乗院門跡・経覚は従兄弟とされる。現在の本願寺...
代宗
代宗(だいそう)は唐朝の第11代皇帝。
真宗
北宋の第3代皇帝(在位:997年5月8日-1022年3月23日)。
蓮乗
室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧である。瑞泉寺・本泉寺兼住。本願寺第8世法主蓮如の次男で、母は伊勢貞房の娘如了。幼名は光養、諱は兼鎮。...
蓮如上人
吉崎御坊跡の蓮如上人銅像のクチコミ あわら市北潟湖の吉崎には蓮如聖人が作った吉崎御坊が有る。 所謂嫁脅しや肉付きの面でも有名だが浄土真宗のメッカ、一...
富樫政親
室町時代後期の加賀の守護大名。富樫家12・14代当主(高家の代から数えての数)。富樫成春の長男で、富樫幸千代の兄。幼名は鶴童丸。
如信
鎌倉時代中期から後期にかけての浄土真宗の僧。父は親鸞の子善鸞。歿後、覚如により本願寺第二世に位置づけられる。本願寺宗主・御歴代のうち、唯一、諱が伝...
教如
安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧。東本願寺第12代法主。
覚如
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧。本願寺第三世。「大谷廟堂」の寺院化(本願寺の成立)に尽力し、本願寺を中心とする教団の基礎となった...
綽如
南北朝時代の浄土真宗の僧。父は善如。権大納言日野時光の猶子となる。本願寺第五世。
プロフィール
実如とは
生涯
実如(じつにょ、實如)は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。本願寺第9世。
生涯
年齢は数え年。
日付は文献との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とした。
長禄2年8月10日(1458年9月26日)、本願寺第8世
蓮如
の第8子(5男)として誕生。
母は伊勢貞房の娘蓮祐尼(
蓮如
の2番目の夫人)。
文正2年(1467年)、延暦寺から「仏敵」とされ京都を追われた父・
蓮如
がやむなく延暦寺に屈した時に
蓮如
の隠居と長男
順如
の廃嫡、そして当時光養丸と呼ばれていた実如への家督継承が強要されるが、本願寺の勢力回復とともに有耶無耶となり、元のように
順如
が法嗣とされた。
文明15年(1483年)、長兄である
順如
の死没により改めて法嗣となる(そのため、法主が後継者指名に用いた譲状が実如には2枚存在する)。
延徳8年(1489年)、父の退隠にともない、本願寺を継承し第9世となる。
継承後も父により急激に拡大した教団を維持する必要があった。
特に実如が重視したのは管領
細川政元
との関係である。
かつて加賀一向一揆が守護
富樫政親
を攻め滅ぼした際に9代将軍
足利義尚
が本願寺に討伐令を下そうとしていた折に政元がこれに強く反対して討伐令を撤回させたという経緯があったため、実如は大きな恩義を感じていた。
明応4年(1495年)、加賀一向一揆の指導者で反政元派の河合宣久の粛清を容認する。
明応8年(1499年)3月25日、
蓮如
歿。
永正3年(1506年)、
細川政元
の要請を受けて
畠山義英
討伐への協力に応じると、畠山氏との関係が深かった摂津・河内の門徒が猛反発し、実如の異母弟で畠山氏の血を引く実賢(後に近江称徳寺住持)を石山御坊にて擁立して法主交替を求める。
実如はこれを力づくで抑え込む(河内国錯乱)。
永正4年(1507年)、政元の養子・澄之が政元を暗殺(永正の錯乱)してもう1人の養子・澄元と争うと、その争いに巻き込まれた実如は澄元により一時山科本願寺を追放され、近江堅田本福寺住持明顕・明宗の協力を得て堅田御坊へ逃れた。
永正6年(1509年)に山科本願寺に復帰するが、この事態に苦慮した実如は、同母弟の
蓮淳
、息子
円如
と共に北陸門徒に対し一揆の禁止をはじめとする3か条の戒めを発布したり、本願寺の一族を一門衆(嫡男)と一家衆(次男以下)に分ける一門一家制を設けたり、宗門
信条
の基本とするなどの策を講じた。
大永元年(1521年)、青蓮院脇門跡に任ぜられるが、同年に
円如
が急死、孫の
証如
が後継者となった。
大永5年2月2日(1525年3月5日)、68歳にて示寂。
証如
が後を継いだが、幼い
証如
に代わって
蓮淳
が後見人(
証如
の外祖父でもあった)として本願寺を取り仕切った。
実如 - Wikipedia
より要約
1458年
長禄2年8月10日( )、本願寺第8世蓮如の第8...
1467年
延暦寺から「仏敵」とされ京都を追われた父・...
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