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つながりの強いひと
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榎本武揚
江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。 |
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荒井郁之助
江戸時代末期(幕末)の幕臣。明治期の官僚。初代中央気象台長。幼名は幾之助。諱は顕徳(あきのり)、後に顕理(あきよし)とした。 |
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甲賀源吾
甲賀源吾(こうがげんご)、名は秀虎。天保10年1月3日(1839年2月16日)-明治2年3月25日(1869年5月6日)。幕末の幕臣で、軍艦操練方。のち、箱館政権(俗に... |
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東郷平八郎
日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。階級位階勲等功級爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 |
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野村利三郎
新選組隊士。諱は源義時。美濃国旗本加藤平内領出身。宗門人別から該当する人物は嘉市。 |
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南北朝時代
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。 |
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近藤勇
江戸時代末期の新選組局長、幕臣。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。家紋は丸に三つ引。 |
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大鳥圭介
日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官。正二位勲一等男爵。家紋は鶴の丸。 |
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松岡磐吉
幕末期の幕臣で箱館戦争時に旧幕府軍艦蟠竜丸の艦長を勤めた人物。長崎海軍伝習所生。なお、名前の「磐吉」は、「いわきち」と読むこともある。 |
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無血開城
同時に1年間お世話になった企画課を卒業することを意味します。 本当にいろんな方にお世話になった部署でしたので、3月は名残惜しい気持ちでいっぱいでしたね... |
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渡哲也
日本の俳優、歌手。芸能事務所石原プロモーション代表取締役の第2代社長(石原軍団2代目総帥)で芸能プロモーター。本名は渡瀬道彦(わたせみちひこ)。石原... |
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豊島沖海戦
日清戦争の嚆矢となった海戦。豊島沖の戦いとも言う。 |
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士官候補生
士官候補生団内の 中尉 (First Lieutenant)は一歩大学を出ればもちろん中尉ではなく、ただの士官候補生である。呼称はC/1LTのようにCが先頭につくことで通... |
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中島三郎助
幕末期の幕臣。ペリー来航時の浦賀奉行所与力。蝦夷共和国箱館奉行並。諱は永胤。雅号は木鶏。喘息の持病があったという。 |
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会津藩
陸奥国(後の岩代国)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、... |
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沖田総司
幕末の武士、新選組一番組組長及び撃剣師範。本姓は藤原を称した。諱は春政、後に房良。幼名は宗次郎。 |
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島田魁
新選組二番組伍長。守衛新選組隊長。嶋田ともいう。後に魁の訓を「さきがけ」と改めた。美濃国方県郡雄総村出身。諱は義明。家紋は丸に三つ鱗。 |
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乃木希典
日本の武士(長府藩士)、軍人。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年〔大正5年〕)。家紋は「市松四つ目結い」。幼名... |
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黒田清隆
薩摩藩士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。位階はは従一位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。通称は仲太郎、了介。新字体で黒田清隆(くろだきよたか)と表記... |
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回天
旧日本海軍の特攻兵器の一つで、人が乗り組み操縦できるよう、九三式三型魚雷(通称「酸素魚雷」)を改造した人間魚雷。炸薬量は1.55トンあり、一撃で戦艦で... |
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プロフィール
- 宮古湾海戦とは
- 背景
- 作戦
- 経過
- その後
- 参考文献
宮古湾海戦(みやこわんかいせん、明治2年3月25日(1869年5月6日))は、箱館戦争における戦闘のひとつで、盛岡藩宮古村(現在の岩手県宮古市)沖の宮古湾で発生した。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍は、新政府軍の主力艦である甲鉄への斬り込みによってこれを奪取する作戦を決行したが、失敗に終わった。これはアボルダージュ(フランス語・、英語・)と呼ばれるいわゆる接舷攻撃で、敵艦に乗り込みこれを奪い取るという近代以降では世界でも数少ない戦闘事例である。
背景
| 明治元年(1868年)、江戸城無血開城に対して徹底抗戦を主張した榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、江戸を脱走後、蝦夷地(後の渡島国)の箱館を占領し、箱館政権を樹立したが、旗艦の開陽を暴風雨で喪失し、海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた。 |
| 明治2年3月、旧幕府軍は新政府軍艦隊(甲鉄、春日、丁卯、陽春の軍艦4隻と戊辰丸、晨風丸、飛竜丸、豊安丸の軍用船4隻)が宮古湾に入港するとの情報を入手した。 |
| なかでも旗艦の甲鉄は、江戸幕府がアメリカに発注したフランス製軍艦で、当時日本唯一の装甲軍艦であった。 |
| 榎本は、江戸脱走以前から甲鉄の譲渡についてアメリカと交渉をしていた経緯があり、甲鉄を入手できれば、対外交渉においても有利に働くと考えていた。 |
作戦
| 元フランス海軍士官候補生ニコールニコールとコラッシュの二人はフランス東洋艦隊のミネルヴァに士官候補生として乗艦していたが、横浜停泊中に脱走して箱館政権に合流していた。 |
| の発案で海軍奉行・荒井郁之助、回天艦長・甲賀源吾らが宮古湾に停泊中の甲鉄を奪取する作戦を立案し、フランス軍事顧問団のブリュネと総裁・榎本武揚がこれを承認した作戦決行の4ヶ月以上前(開陽丸はまだ健在であった)、ブリュネは甲鉄が新政府軍に引き渡され場合、唯一の策はアボルダージュであると述べていた。 |
| (1869年1月16日付のハリー・パークスからスタンレー外相への報告書)。 |
| 斬り込みのための陸兵を乗せた回天、蟠竜、高雄の3艦が外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始と同時に日章旗に改めて甲鉄に接舷、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠するというものであった。 |
| ごく単純な騙し討ちであるが、第3国の旗を掲げて近づき、攻撃直前に自国の旗を掲げることは万国公法で認められていた。 |
| 作戦準備が整い、回天には総司令官として海軍奉行・荒井郁之助、検分役として陸軍奉行並・土方歳三らが乗船し、元フランス海軍のニコール、コラッシュ、クラトーら、ならびに斬り込み隊として神木隊・彰義隊など合わせて100名の陸兵もそれぞれ3艦に乗り込んだ。 |
| この作戦に投入された旧幕府軍の戦力は以下の通り。 |
| 海軍:海軍奉行・荒井郁之助、艦長・甲賀源吾、以下200余名、元仏海軍・ニコール。 |
| 陸軍:陸軍奉行並・土方歳三、添役・相馬主計、同介・野村利三郎、彰義隊10名、神木隊36名。 |
| 海軍:艦長・松岡磐吉、以下100余名、元仏海軍・クラトー。 |
| 陸軍:新選組10名、彰義隊10名、遊撃隊12名。 |
| 高雄(第二回天)。 |
| 海軍:艦長・古川節蔵、以下70名、元仏海軍・コラッシュ。 |
| 陸軍:神木隊25名。 |
| 甲鉄への接舷は蟠竜と高雄の2艦で実行、回天はその援護にあたる予定であった。 |
経過
| 3月21日未明、箱館を出港した3艦は、回天・蟠竜・高雄の順に互いを大綱で繋いで一列縦隊で進んだ。 |
| 翌22日、偵察のために鮫村(青森県八戸市)に寄港して情報を得ると、宮古湾を目指してさらに南下するが、その夜暴風雨に遭遇し、3艦を繋いでいた大綱は断絶されて艦隊は離散してしまう。 |
| 24日には嵐がやや静まり、回天と高雄の2艦は合流できたが、嵐で機関を損傷した高雄は修理を要し、やむなく2艦は宮古湾の南に位置する山田湾(岩手県山田町)に入港した。 |
| その頃、蟠竜は互いを見失った際の取り決めに従って鮫村沖で待機していた。 |
| 同日、山田湾に停泊する2艦の元に新政府軍艦隊が宮古湾鍬ケ崎港に入港しているという確かな情報が入ってきた。 |
| 目前にいる敵を逃すまいと、蟠竜との合流を諦めて2艦のみで作戦を実行に移すことになった。 |
| 高雄が甲鉄を襲撃し、回天が残りの艦船を牽制するという作戦で、決行は25日早朝、夜明け前の午前4時とした。 |
| 一方、新政府軍では、所属不明の艦船が、宮古湾沖に出現したとの情報を得ていたが、佐賀藩を中心に編成されていた新政府海軍は旧幕府軍を軽視しており、海軍首脳は上陸して警戒を怠っていた。 |
| 薩摩藩出身の陸軍参謀・黒田清隆はこの情報を重視して、斥候を出してこれを確認するように海軍に促したが、海軍副参謀・石井富之助はこれを受け付けなかった。 |
| この翌日、旧幕府軍によるアボルダージュ作戦が実行されることになる。 |
| 24日深夜、山田湾を出港して宮古湾へ向かう途上、高雄が再び機関故障を起こす。 |
| しかし航行は可能だったので、まず回天が甲鉄に接舷して先制攻撃をし、高雄が途中で参戦して残りの艦船を砲撃するという新たなシナリオに書き換えられた。 |
| 25日、夜明けが迫っていたため、回天は速力の遅い高雄を待たずに単独で宮古湾への突入を敢行する。 |
| この時新政府軍艦隊は機関の火を落としており、アメリカ国旗を掲げた回天の接近にも特に注意が払われることはなかった。 |
| 暴風雨による被害で、回天の特徴であった3本のマストが2本になっていたことも旧幕府軍には幸いした。 |
| 甲鉄に接近した回天が作戦通りアメリカ国旗を下ろし、すぐさま日章旗を掲げて接舷すると、甲鉄の隣で唯一警戒に当たっていた薩摩藩籍の春日から敵襲を知らせる空砲が轟いた。 |
| 奇襲には成功したが、外輪船で小回りが利かなかった回天は接舷向きではなく、艦長の甲賀源吾の必死の操艦にもかかわらず、回天の船首が甲鉄の船腹に突っ込んで乗り上げる形となり、約3メートルもの高低差が生じてしまった。 |
| それでも回天からは先発隊が甲鉄の甲板に飛び降り、斬り込んでいったが、細い船首からでは乗り移る人数が限られ、またガトリング砲など強力な武器の恰好の標的となってしまう位置だったため、乗り移る前に回天甲板上で倒れる兵が続出し、ニコール、相馬主計なども負傷した。 |
| 春日をはじめ周囲にいた新政府軍艦船も次第に戦闘準備が整い、回天は敵艦に包囲されて集中砲撃を浴びるに至る。 |
| 甲賀源吾は腕、胸を撃ち抜かれてもなお指揮をふるっていたが、弾丸に頭を貫かれて戦死。 |
| 形勢不利と見た荒井郁之助が作戦中止を決め、自ら舵を握って甲鉄から船体を離し、回天は宮古湾を離脱した。 |
| 甲鉄に斬り込んでいった野村利三郎ら数名は、撤退に間に合わずに戦死。 |
| この間、約30分だったと言われる。 |
その後
| 新政府軍は直ちに追撃を開始、回天は撤退途中に蟠竜と合流して26日夕方には箱館まで退却したが、機関故障を起こしていた高雄は甲鉄と春日によって捕捉された。 |
| 艦長・古川節蔵以下95名の乗組員は田野畑村付近に上陸し、船を焼いたのちに盛岡藩に投降している。 |
| 新政府軍では、回天の砲撃によって損傷した運送船・戊辰丸が北航不能となり、負傷者を収容して江戸へ戻った。 |
| 新政府海軍の砲術士官として春日に乗船していた東郷平八郎は、この回天による奇襲の衝撃を、「意外こそ起死回生の秘訣」として後年まで忘れず、日本海海戦での采配にも生かしたと言われる。 |
| また、危険な作戦を実行し、勇敢に戦った甲賀源吾について「甲賀という男は天晴れな勇士であった」と高く評価している。 |
| 現在、宮古市には東郷が残したこの海戦に関するメモが石碑となっており、観光地になっている。 |
参考文献
| 土方愛、横田敦『宮古海戦を追え!』。 |
| M.ド・モージュ、アルフレッドウェット、ウージェーヌ・コラッシュ著、市川慎一、榊原直文訳『フランス人の幕末維新』、有隣堂(1996年)、ISBN978-4896601350。 |
| 萩原延壽著『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄7江戸開城』、朝日新聞社(2008年)。 |
| カテゴリ:戊辰戦争の戦闘。 |
| カテゴリ:岩手県の歴史。 |
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1868年
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江戸城無血開城に対して徹底抗戦を主張した榎... |
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1869年
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宮古湾海戦(みやこわんかいせん、明治2年3月... |
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