| その素質を惜しんだ常陸山の勧めで大坂相撲の高田川部屋に移籍し、宮木山(のち宮城山)を名乗り幕下から再スタートを切った。 |
| 後に1921年(大正10年)3月に行われた合併興行で九州山に勝ち、その後互いに昔の無礼を詫びて和解の握手をした。 |
| 四股名は最初は岩手川だった。 |
| 大坂加入後に宮木山、後に宮城山。 |
| 岩手県出身でありながら宮城山の四股名を名乗ったのは、出身地が仙台藩の領地だったからと言われているが、岩手県民からは反感を買ったという。 |
| 1922年(大正11年)に吉田司家から横綱免許を授与される。 |
| 大坂相撲の横綱としては宮城山が4人目で、それ以前には若島、大木戸、大錦大五郎の3人がいる。 |
| これが結果として大坂相撲では最後の横綱になった。 |
| なお現存する大坂相撲時代の写真で大木戸と宮城山の両者が締めている横綱は縒り方が逆である(上記写真と比較参照 |
| 東西合併後の宮城山の写真は現在の縒り方の横綱を締めている。 |
| ところが横綱免許直後瘭疽を患ってしまいほとんど休場ばかり。 |
| 特に1923年(大正12年)1月から1925年(大正14年)5月場所までの成績は7勝2敗1分50休という状況であった。 |
| 大正時代も末期になると、関東大震災で国技館を失い苦しむ東京相撲との合併の話が持ち上がり、番付統合のために合併場所が開催された(1925~26年、計3回)。 |
| ここで大坂力士は力量が東京力士より劣ることが判明し、大坂大関の荒熊は平幕の9枚目、錦城山は平幕の10枚目になってしまった。 |
| 唯一東京と互角に取れた真鶴は平幕の筆頭になった。 |
| 宮城山の実力評価は小結と判定されたが、吉田司家が認めた正式な横綱であるため、格下げするわけにも行かず張出横綱の形で編入させた。 |
| 迎えた合併後初の本場所である1927年(昭和2年)1月場所には、横綱常ノ花には負けるが10勝1敗で幕内最高優勝。 |
| 次の3月場所では千秋楽に常ノ花を倒して全勝を阻み大坂相撲の面目を保った。 |
| しかし持病の影響もあり1928年(昭和3年)10月場所に9勝2敗で2度目の優勝を最後に賜杯は抱けず、皆勤での負け越しも3回記録した。 |
| 1931年(昭和6年)1月場所では初日から前頭7枚目藤ノ里・同3枚目新海・同6枚目玉碇・同筆頭山錦と4日連続で金星を献上し、3度目となる皆勤負け越し(5勝6敗)でこの場所が事実上取り納めとなった。 |
| 金星配給数は29個で一場所平均にすると1.71個、一場所11番の時代だったことを考えればきわめて多いといえる。 |
| このため晩年には土俵入りで「弱い横綱」との罵声まで出たという。 |
| これは、常ノ花がまだ存分に取れる状態と見られていたにもかかわらず引退したため、1人横綱として土俵を支えねばならないという事情もあった。 |
| 実際、1931年3月場所限りで引退したが、そのために横綱不在状態になってしまったわけだから、その点での横綱としての責任感は評価してもよいと思われる。 |
| また年寄名跡がなかったので、現役続行のほか選択肢がなかったともいわれる。 |
| 周囲が引退を勧めても、「儂は横綱なんぞでいたくないんだ。 |
| 横綱の体面が立たないというなら十両で取ったっていいんだ。 |
| 儂は相撲が好きなんだからいつまでも取るぞ。 |
| 」と突っぱねたという。 |
| ただし、東京加入後の成績を見れば横綱としては不足と思われるが、東京・大坂合併後は明らかに全盛期を過ぎていた面も考慮すれば、大坂相撲の体面を最後まで守った横綱であると評価できる。 |
| 押し相撲を苦手にしたが前さばきが巧く、うっちゃりもある技能派力士だった。 |
| 引退後は年寄白玉から芝田山を襲名し、検査役を務めた。 |
| 部屋を経営したが、幕内力士を出すこともなく死去し、弟子たちは最終的に高砂部屋に引き取られた。 |
| 小結宮錦、幕内嶋錦がその中にいた。 |
| 多趣味でも知られ、野球、水泳、ビリヤード、舞踊、囲碁、将棋何でもこなし、相撲甚句や安来節をレコードに吹き込んだこともある。 |