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つながりの強いひと
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井上光貞
日本の歴史学者。東京大学名誉教授。国立歴史民俗博物館初代館長。紫綬褒章受賞者。文学博士。専門は日本古代史(上代日本史)。井上馨の孫に当たる。 |
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坂本太郎
特撮テレビドラマ作品の監督・演出家である。岡山県出身。日本大学藝術学部卒業。 |
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大野 晋(Susumu Ohno) 略歴 1988.3東北大学工学研究科建築学専攻修士課程修了 1988.4鹿島建設(株)技術研究所 2003.4東北大学工学研究科災害制御研究セン... |
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植木枝盛
明治時代の思想家、政治家、自由民権運動の理論的指導者。雅号は六花。 |
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美濃部達吉
戦前の日本の憲法学者、政治家。天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和時代には天皇機関説事件により、貴族院議員... |
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美濃部亮吉
日本の経済学者、政治家である。元東京都知事(第6・7・8代)。元参議院議員(全国区)。 |
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津田左右吉
20世紀前半の日本史学者である。『日本書紀』『古事記』を近代的な史料批判の観点から批判・否定したことで知られる。従三位勲一等瑞宝章。 |
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松本三之介
日本の政治学者。東京大学名誉教授。専攻は近代日本政治思想史。 |
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永原慶二(ながはらけいじ、1922年7月12日-2004年7月9日)は日本の歴史学者。専門は日本中世史。一橋大学名誉教授、和光大学名誉教授。一橋大学経済学博士。... |
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日本の小説家。愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。血液型はA型。東京大学文学部フランス文学科卒。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受... |
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日本の歴史学者。文学博士(東京教育大学)。三重県出身。茨城大学名誉教授、岡山大学名誉教授、「九条の会」賛同者。専門は日本近代思想史で自由民権運動の... |
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鹿野政直
日本の歴史学者。専門は日本近代史、思想史。1960年代以降に盛んになった民衆思想史研究の第一人者。早稲田大学名誉教授。妻は詩人の堀場清子。 |
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福島県生まれの日本思想史学者・古代史研究家。専門は親鸞等の中世思想史だが、むしろ古代史研究において著名である。 |
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プロフィール 名前 尾山宏 生年月日 1930年12月29日生。東京で生まれた後、北九州小倉に移住 経歴 1953年東京大学法学部卒/1956年弁護士開業1957年愛媛県の... |
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大田堯(おおたたかし、1918年-)は教育学者。東京大学名誉教授、都留文科大学名誉教授。日本子どもを守る会名誉会長。 |
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日本の経済学者である。京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の職を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙... |
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矢内原忠雄
日本の経済学者・植民政策学者。東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。 |
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プロフィール
- 家永三郎とは
- 来歴
- 日本学士院・恩賜賞
- 日本思想史研究
- 反権力的自由主義者
- 家永三郎文庫
- 思想的変遷への評価
- 沖縄戦集団自決の記述
- 『日本占領秘史』絶版の真相
- 731部隊と従軍慰安婦
- 『上代仏教思想史研究』と変節
- 『津田左右吉の思想史的研究』への評価
- 教育勅語に関する見解の変遷
- 高校日本史教科書執筆と教科書裁判
- 編著
- 関連サイト
家永三郎(いえながさぶろう、1913年9月3日-2002年11月29日)は、日本の歴史家(日本思想史)・東京教育大学名誉教授。文学博士(東京大学)。
来歴
| 愛知県名古屋市生まれ。 |
| 父は陸軍少将家永直太郎。 |
| 社会学者で東北大学名誉教授の新明正道は舅。 |
| 市立東京一中、旧制東京高校を経て、1937年東京帝国大学文学部国史学科卒。 |
| 国民精神文化研究所教員研究科高等教員研究科修了。 |
| 東京帝国大学史料編纂所嘱託、旧制新潟高校教授を経て、1944年東京高等師範学校教授。 |
| 戦後間もなく開学した東京教育大学文学部教授に就任し、1978年の定年退職まで務めた。 |
| その間、東京大学、東京女子大学などで日本思想史の講義も担当した。 |
| 東京教育大学退官後は、中央大学法学部教授を務めた。 |
日本学士院・恩賜賞
| 1948年6月11日、日本学士院より恩賜賞 |
| 研究題目は『上代倭絵全史』と『上代倭絵年表』 |
| 授賞式では宮内府長官・文部大臣より祝辞を受けた日本学士院紀要6巻2・3号pp10~12。 |
日本思想史研究
| 当初の専攻は日本古代思想史であり、特に仏教思想史研究で成果をあげたが、次第に研究領域を広げ、後半生では反権力的姿勢を強め、その立場からの社会的発言をおこなったほか、植木枝盛・美濃部達吉・津田左右吉・田辺元など、同様の傾向を持った近代思想家に対する共感を込めた研究や第二次世界大戦に関する反省からの思想史的アプローチを試みた論著を多く発表した。 |
| 中でも『太平洋戦争』は広く読まれ、大きな影響力を持った。 |
家永三郎文庫
| 家永の蔵書の大部分(約12,000点)は遺族の希望に基づき、中国天津市にある南開大学の日本研究所に寄贈された。 |
| また、家永が『植木枝盛研究』(岩波書店)等の執筆に際して蒐集した明治期の出版物を中心とする文献資料は、町田市自由民権資料館に収蔵されており、それぞれ「家永三郎文庫」と命名されている。 |
思想的変遷への評価
| 家永は当初から反権力的志向だというわけではなく、青年期には陸軍士官学校教官を志望し受験するも、胃腸に慢性的な持病があったため身体検査で落とされるという経歴を持っている。 |
| また戦後も、昭和天皇に進講したり、学習院高等科の学生だった今上天皇に歴史を講ずるなど皇室との係わりを持っていた。 |
| 家永は日本国憲法下で『教育勅語成立の思想史的考察』(史学雑誌第56巻第12号1-19頁1947年12月、「日本思想史の諸問題」P119-146斎藤書店1948)という論文を発表しているが、この中で明治天皇と教育勅語を高く評価教育勅語は1948年に国会本会議で排除・失効決議がされたが、1946年10月からGHQの意向によって公教育における教育勅語の奉読が禁止され始めていた。 |
| している。 |
| また、『新日本史』(1947冨山房)にも明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、戦後も数年間は穏健かつ保守的な史観に依拠する立場をとっていた。 |
| それは、敗戦直後のてのひらを返したような言論界・思想界の豹変ぶりや、歴史学界における史的唯物論の風靡に、違和感をいだき反発の姿勢を示したことによる『家永三郎集』16 pp.104-105。 |
| 家永の思想が反権力的なものに変化したのは、逆コースと呼ばれる1950年代の社会状況に対する反発が背景にあり、そのころに憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている『家永三郎集』16 pp.108-123。 |
| 特に1960年に刊行した『植木枝盛研究』以降は、人権理念を自らの思想の中核に据えて、国家権力と対峙するような問題に取り組むようになっていった。 |
沖縄戦集団自決の記述
| 沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊の赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供出して自殺せよと命じ、柔順な島民329名は恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い集団自殺をとげた。 |
| 米軍に占領された伊江島の住民が投降勧告にくるとこれを殺し、島民の防衛隊員で命令違反という理由で殺されたものも何人かいた。 |
| 座間味島の梅沢隊長は、老人こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った。 |
| 改訂版では、渡嘉敷島の箇所のみ修正されたが、訴訟で原告からきびしく指摘された。 |
| 沖縄の慶良問列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。 |
| 島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。 |
『日本占領秘史』絶版の真相
| 秦郁彦の講演をまとめた『日本占領秘史』下巻(1977朝日新聞社P102-103)に「戦争中に心ならずも…軍部に迎合したり戦争を礼讃するような論文などを発表した人たちが今度はアメリカ民主主義の礼讃者あるいは平和主義者に早変わりする。 |
| 清水幾太郎とか家永三郎とかいう人たちはこの変節組です」という記載があったため、家永が厳重に抗議した。 |
| 1977年12月、佐伯真光の立会いの元で秦は家永と交渉した。 |
| 秦は表現の修正には応じるとしたが、家永は納得せず、1.問題部分の全面削除、2.再版に陳謝の意味で断り書きを入れる、3.初版についての措置を別に要求、4.応じなければ名誉毀損で告訴するとした。 |
| 秦は『変節』の一例をあげた。 |
| 「(日露開戦を決め)天皇は大奥入御の後も御悲しみのためしばらく御言葉がなく御目には御涙をたたえさせられていたと伝えられる」。 |
| 「無益なる戦争を中止して国民を戦火より救おうと決意遊ばされた天皇陛下の聖断により…降伏が通告された」。 |
| 『昭和の戦後史』(1976):天皇とマッカーサーの第1回会談。 |
| 「開襟シャツスタイルの連合軍最高指令官マッカーサーの横に背の低いモーニング姿の日本人が並んで立つ写真が新聞紙に掲載されたのを見た国民は…」}}。 |
| 家永は「皇室への見方が徐々に変わったが、知識面で戦前の後遺症があり、当時は知的水準が低かった。 |
| 節操が変わったのではない。 |
| 」と反論した。 |
| 会談は物別れに終わり、結局本書は絶版となり、1978年元日の読売・産経で報道された。 |
| 佐伯は読売(1978年1月5日)に「戦前から戦後にかけて、家永氏の思想は180度の転換をとげている」との投書をのせ、家永は同紙(同年1月10日)に「文献をゆがめて引用」と反論の投書をのせた。 |
| その後朝日ジャーナル(1978年1月20日)は家永の反論記事をのせたが、秦の投稿は掲載しなかったため、秦は産経(同年1月22日)で家永批判を続けた。 |
| 家永はマスコミ市民(1978年4月)で再び反論し、「新日本史」は「終戦直後に早変わりしておらず、軍部に迎合も戦争礼賛もしていない」と著した。 |
| 本書は問題の箇所を改訂せずに1986年に早川書房より文庫化された。 |
| 巻末の解説に金原左門は、家永は変節組の代表ではないと著した。 |
| 秦は1987年、家永第3次訴訟の国側証人として東京地裁で証言したとき、天皇観の極端な振幅を示した「新日本史」(1947)の例をあげ、「こういう振幅の多い方は、次代の青少年を教育する教科書執筆者には適当でない」と述べた。 |
| 1990年になり、家永は「私と天皇制・天皇」を書き留めたが、内容は死後に初めて公表された。 |
| ・・・「新日本史」(1947)は皇室に関し敬語を用い、天皇中心史観とでもいうべき見方(ただし天皇不親政を日本君主制の伝統とする点で、戦前の天皇親政を「国体の本義」とする正統的皇国史観と同じではないが)が随所に散見する。 |
731部隊と従軍慰安婦
| 第三次家永訴訟で国側証人の秦郁彦は、1983年の教科書検定の時点では731部隊に関しては信用に堪え得る学術研究論文や著書が発表されていないと、同部隊に関する記述の全面削除を検定合格の条件とした文部省を支持した『現代史の争点』(文藝春秋社1998)。 |
| しかるに最高裁大野判決では、検定当時すでに731部隊に関して多数の文献・資料が公刊され、同部隊の存在等を否定する学説はみあたらず、文部省は裁量権の範囲を逸脱したとした。 |
| 家永は『戦争責任』(岩波書店1985,pp104-107)で吉田清治の『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房1983)の記事を4頁にわたり転載し、済州島での従軍慰安婦の強制連行の記事を掲載した。 |
| また『太平洋戦争2版』(岩波書店1986,pp198)でもやはり吉田の著書を引用して著した。 |
| 秦は1992年現地調査を行い、吉田の記事が事実無根と報告した(吉田清治の項参照)。 |
| 結論的には、731部隊では家永が勝訴したが、従軍慰安婦に関しては秦に軍配が上がった。 |
『上代仏教思想史研究』と変節
| 『上代仏教思想史研究』は①1942年初版(畝傍書房)②1948年再版(目黒書房)③1950年三版(目黒書房)④1966年四版(法蔵館)の4種の版が存在する。 |
| 秦は産経新聞(78/1/22)で本著に関し家永批判を著した。 |
| 「『上代仏教思想史研究』は①の序文に『この意義深き時に当たり学界の一兵卒として学問報国の鮮烈に参加することの出来た吾人は誠に願っても無き幸せ者…以て君国に報じたい』とある。 |
| しかるに②ではこの箇所が削除改変され、③④では復活した」。 |
| 官憲の網にひっかからないようにくふうして表現した苦心の文章にほかならない。 |
| 文章の全体は文脈は今日そのまま私の信念として少しも変わっておらず、恥かしい文章であるとは全然考えていない。 |
| だからこの一節は1950年版にも1966年版にも、そのまま活字として載せてあるのである。 |
| 秦氏によると、1948年版には削られているという。 |
| あいにく私の手許に48年版がなく、削った記憶もないが、削られているとすれば、占領軍の検閲でひっかかるのを避けるためであったにちがいない。 |
| 恥かしいと思ったからでないことだけは確実で、その2年後の50年版に初版どおり復原してあるのがその証拠である。 |
| これに対して佐伯真光は「『上代仏教思想史研究』の象嵌」大倉山論集13号pp135-159,1978/3を著し、①~④各版を詳細に比較し、家永の旧著を引用した。 |
| 雑誌に発表した論文なら、すぐまた前のを訂正した論文が出せるけれど、単行本にまちがったことを書くと、世を誤る責任が重い、というのが理由だったそうである。 |
| 最初の象嵌訂正で紙型を改めたとき、古い紙型が廃棄されずに残っていて、それが二度目の重刷のときに誤って使用されてしまったのである。 |
| 『津田左右吉の思想的研究』(1972岩波書店)で、家永は津田の文章が戦前と戦後とでどう改訂されたか詳細な調査をしたが、家永自身も将来他の研究者により調査されると感じていた。 |
『津田左右吉の思想史的研究』への評価
| たまたま、一九六五年以来、私は教科書裁判という前例のない裁判の原告としてはげしい攻防戦の渦中に立つ身となったが、その争いの中で、争点の一つとなっている検定不合格箇所が、戦前の津田の研究成果に立脚して書かれたものでありながら、これを不合格とした文部省は、その不合格処分を正当化する証拠として戦後の津田の著作を法廷に提出するという、奇怪なできことに遭遇した。 |
| 訴訟当事者として理論的にゆるぎのない裏づけをするためにも、私は、戦前の津田と戦後の津田とを統一的に再認識することにより、文部省に右のような手口で利用されることとなった客観的根拠をきびしく洗い出してみなければならないと考え、津田左右吉の総合的な研究を、一日も早く完成する必要を、改めて強く感ずるにいたったのである。 |
| 教科書訴訟は二つの訴訟の総称であるが、ここでは便宜第二次訴訟のほうだけによって述べると、昭和四十二年三月二十九日、教科書検定権者である文部大臣は家永三郎著作高等学校用教科書原稿の一説「『古事記』も『日本書紀』も『神代』の物語から始まっている。 |
| 『神代』の物語はもちろんのこと、神武天皇以後の最初の天皇数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統一してのちに、皇室が日本を統治するいわれを正当化するために構想された物語であるが」とある部分を不合格処分に付したので、著者はその取消しを求める訴訟を東京地方裁判所に起し、この叙述は、津田左右吉の学説によったものであって「学界の殆んど異論のない最大公約数的命題」であり、著者の学問的見解に基く記述の当否を公権力により審査する検定処分は憲法に違反する、と主張した。 |
| 兵頭高夫比較文學研究24号pp162-168は「家永氏が津田の『思想史的変貌』あるいは『転向』と呼ぶものが必ずしも十分に根拠のあるものではないことが理解できよう」と述べ、西義之『変節の知識人たち』(PHP研究所1979)と田中卓『祖国再建⑦』正論2004年7月pp350-361,『祖国再建・上』(青々企画2006):家永教科書裁判に秘められた陥穽も家永の論理の弱点を指摘した。 |
教育勅語に関する見解の変遷
| 家永は、戦後に教育勅語についての皇国史観に満ちた論文を『史学雑誌』(1947年12月)に発表した。 |
| 教育勅語にある「常ニ國憲ヲ思シ國法ニ遵ヒ」と云ふ此の一句に就ては、……明治天皇は、久しき間、其案を御手許へ御留置になつて、この点に就ては、深く叡慮を悩ませられたのであつたが、遂に此句は現今の時勢に於いては必要である、と云ふことに御裁定遊ばされたとのことである。 |
| 詔勅には輔弼の臣僚の思想が多く加はつてゐるが、御製にはそのことがない上に、もともと他に示す御意なくして御詠みになつたものであるから(井上通泰博士「明治天皇御製編纂に就て」)、御胸裏の精神が最も明に流露してゐると解しまつつてまちがひなからう。 |
| (140頁)何故ならば、「常ニ國憲ヲ思シ國法ニ遵ヒ……扶翼スヘシ」といふ近代的国家道徳を掲げているこの勅語には、「忠」といふが如き君臣の個人的関係を主とする儒教的な道義はもはや必要ないからであつて、勅語が儒教的道徳に跼蹐してゐないことをきはめて明白に示してゐるのである。 |
| それは「教育勅語」という小見出しでありまして、「憲法によって、法律上から天皇主権の国家体制を確立した政府は、――これは明治憲法の制定を意味しておりますが、――「精神的にも国民のこの体制に対する忠誠を確保しようとして、1890年(明治23年)教育勅語を発した。 |
| しかし、私の学問的な研究の結果によりますれば、教育勅語の社会的役割というものは、その内容によってというよりも、むしろそれがこの三大節あるいは四大節などの祝日において、おごそかな口調で捧読され、子供たちが頭をたれてこれを聞くというような儀式を通じて子供たちの精神に影響力を与えたということが主であって、あのむずかしい漢文口調の教育勅語が、小学校の低学年の児童などに全部理解されたはずはないわけであり、したがって、教育勅語の内容ということは私は客観的な、社会的役割においては、それほど大きなものであったと認めることはできない。 |
| したがって、実質的にはこの教科書原稿では、教育勅語の実質的内容に触れてあるわけであって、教育勅語の内容が書いてないということは、これは意識的に書く必要がないということを判断したから書かなかったので、決して一方的な取り扱いではなく、むしろ勅語が出たとたんに内村鑑三事件などが起こっているところにこそ、大きな歴史的意義があるのである、そういう説明をいたしましたが、これに対しては、調査官からは別に再反論はございませんでした。 |
| 後年「日本歴史大事典6」「国史大辞典4」「家永三郎集3」に教育勅語についての解説文を掲載したが、内容は1948年当時とは大幅に変更された。 |
高校日本史教科書執筆と教科書裁判
| 家永は、戦後間もなく編纂された歴史教科書『くにのあゆみ』の執筆者の1人であったが、その後長く高校日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)の執筆を手がけた。 |
| 自身の執筆した日本史教科書における南京大虐殺、731部隊、沖縄戦などについての記述を認めず、検定基準を不当に解釈して理由をこじつけた文部省に対して、検定制度は違憲であるとして三次の裁判を起こし、教科書検定を巡る問題を世間に広く知らしめた。 |
| 訴訟における最大の争点であった「教科書検定は憲法違反である」とする家永側主張は、最高裁にて「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」として、家永側の主張の大部分が退けられ、家永側の実質的敗訴が確定した。 |
| 教科書の発行に関しては、自由発行・自由採択であるべきだとの持論を教科書裁判提訴の頃より一貫して明らかにしており、80年代半ばの『新編日本史』を巡る議論が盛んだった時期には、記者の取材に「立場は違うが、検定で落とせとは口が裂けても言えない」と語り検定を否定し続けた1993/03/18 読売新聞朝刊 |
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家永は、戦後に教育勅語についての皇国史観に... |
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