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つながりの強いひと
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プロフィール
- 宿澤広朗とは
- 高校時代
- 大学時代
- 総評
- 銀行員として
- 新橋支店
- ロンドン支店
- 資金為替部上席部長代理
- 法人部次長
- 大塚駅前支店長
- 執行役員市場営業第2部長
- 執行役員市場営業統括部長
- 常務執行役員大阪本店営業本部長
- 取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長
- 日本代表監督(1989年~1991年)
- スコットランド戦での勝利
- W杯初勝利のジンバフェ戦
- 賛否両論のアイルランド戦
- 代表監督としての評価
- 日本代表強化委員長・専務理事(2002年~2005年)
- 多忙な業務
- ラグビー協会との軋轢
- 自ら離脱したとされる説
- 死去
宿沢広朗(しゅくざわひろあき、1950年9月1日-2006年6月17日)は、埼玉県出身の元ラグビー選手、ラグビー日本代表監督。その一方で三井住友銀行取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長を務めて金融界においても実績を残した(なお、宿沢の「沢」の文字は、当初「沢」だったが、いつしか「澤」の旧字が使われるようになった。ラグビーでは「沢」、銀行では「澤」が使われていたが、ここでは便宜上「宿沢」とする)。
高校時代
| 埼玉県立熊谷高等学校でラグビーを始める。 |
| 全国高等学校ラグビーフットボール大会(花園)出場歴はなし。 |
大学時代
| 早稲田大学政治経済学部に入学。 |
| 学業も優秀だった宿沢は、本当は東京大学への進学を考えていたが、当時の東大紛争で入試が中止されたので、やむなく早大へ進学した(宿沢は1950年生まれだが、同年生まれで、東大に現役合格した者はいない)。 |
| 早大での成績は「優」が20個以上もあったという。 |
| 英語も堪能で、ラグビーの海外遠征時には現地で英語でスピーチできるほどの宿澤は、アマチュア・ラグビー界では文武両道の「模範生」と言われた。 |
| 1年生からレギュラーに定着。 |
| 160cmの小兵ながら、卓越したゲームコントロール、機敏なプレー、果敢なタックルで常にグラウンドを沸かせ、早大最大の黄金時代を担った。 |
| 2年生の時には新日鉄釜石、3年生の時には三菱自動車京都を破って、2年連続の日本一に輝く。 |
| 4年生時は主将を務め、大学選手権3連覇を目指すも、決勝で明治大学に敗退。 |
| 2年生でラグビー日本代表に選ばれ、1971年9月のイングランドXV戦ではリザーブだった。 |
| その時のレギュラーには、山口良治(元伏見工業高校ラグビー部監督・テレビドラマ『スクールウォーズ』のモデル)がいた。 |
総評
| ポジションはスクラムハーフ(SH)。 |
| 歴代屈指のSHとの評価が高い。 |
| 卒業後は住友銀行(現・三井住友銀行)に入行。 |
| 同行はラグビー部がないため、1975年の英国遠征を最後に現役を引退した。 |
銀行員として
| 1973年に入行した住友銀行では新橋支店に配属される。 |
| 1977年末より7年半ロンドン支店に駐在。 |
| 帰国後は主に為替ディーリング畑を渡り歩く。 |
| 経験した役職は順に、。 |
| 資金為替部上席部長代理。 |
| 執行役員市場営業第2部長。 |
| 同市場営業統括部長。 |
| 市場部門統括副責任役員。 |
| 常務執行役員大阪本店営業本部長。 |
| 同西日本地区法人営業推進統括責任者。 |
| 取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長。 |
新橋支店
| 埼玉県北足立郡吹上町(現・鴻巣市)の自宅から毎日一時間半かけて通勤しながら、厳しい個人練習で日本代表の座を守る。 |
| 大学ラグビーで活躍したため、入行前から有名な存在で、当時専務取締役の磯田一郎後に頭取。 |
| 神戸二中(現兵庫高)ラグビー部⇒京都大学ラグビー部。 |
| 銀行マンとしても、功罪両面で非常に有名な人物がやたら目をかけていた。 |
| 新橋支店に配属が決まったのは、支店長が東京大学ラグビー部出身だからだったという。 |
| また、日本代表の試合が新聞に掲載されたときのメンバー表の標記は、選手名の後に括弧書きで所属が掲載されるが、住友銀行にはラグビー部がなかったため、「宿沢広朗(早大出)」とされていた。 |
| しかし、銀行内で「みすみす宣伝のチャンスを逃すこともなかろう」と、急遽ラグビー部が創部された。 |
| この支店勤務時代の同僚女性と、ロンドン駐在時代に結婚した。 |
ロンドン支店
| 貸付業務・カントリーリスク・為替ディーリング業務に携わる。 |
| ラグビーのファイブ・ネイションズ(現・シックス・ネイションズ)やテストマッチを数多く観戦した。 |
資金為替部上席部長代理
| ラグビー日本代表の監督に選任され、スコットランドに勝利(後述)。 |
執行役員市場営業第2部長
| 49歳の若さで、執行役員(市場営業統括部長)に抜擢される。 |
| これは住友銀行に限らず、銀行業界の中でも異例のスピード出世であった。 |
| そのため、社長人事ではないにもかかわらず、経済誌・一般紙に広く取り上げられ、話題となった。 |
| この人事には当時の頭取・西川善文の意向が働いたといわれる。 |
| 日本の社債発行体として初となる本格的なデットIRに関った。 |
| 旧住友銀行が都市銀行として初めて普通社債を発行するに当たり、発行を担当する市場営業第二部長として社債投資家説明会を東京、名古屋、大阪、福岡で開催した。 |
| 今では当たり前となっているデットIRの先駆けとなるものだった。 |
| 旧住友銀行の社債発行で、「DebutDealoftheYear1999」(日経公社債情報)、「IssueroftheYear2000」(トムソン)を受賞している。 |
執行役員市場営業統括部長
| 金融界でその実力を知られるようになったのは、三井住友銀行が発足した2001年からの市場営業統括部長時代。 |
| 金利低下局面の追い風も受けながら、同部門は金利関連の取引によって年間で4000億円もの業務純益を出したこともある。 |
| 当時、三井住友銀の業務純益の4割に当たる規模。 |
| 泥沼化する不良債権処理のため、利益が底なしに食いつぶされていく中で「市場営業部門の収益が大きな支えになった」(三井住友銀幹部)ともいい、同行を支えた立役者でもある。 |
| 2001年のアメリカ同時多発テロ事件の発生の際には、早大ラグビー部の酒宴後に自宅へ帰宅したところ、銀行からの呼び出しを受けた。 |
| 執行役員市場営業統括部長として、3日間ほぼ徹夜同然で陣頭指揮に当たった。 |
常務執行役員大阪本店営業本部長
| 頭取・西川善文からの特命で、いわゆる「松下問題」に取り組んだ。 |
| 「松下問題」とは松下電器産業の子会社・松下興産(現・MID都市開発)の経営悪化で、本体の経営を揺るがす恐れがでてきた事を指す。 |
| 当時の松下社長の中村邦夫は「松下創業の精神以外、全て破壊する」と公言したと言われ、メイン銀行の三井住友銀行としても長年の懸案事項であった。 |
| 同行松下チームの責任者として大阪に乗り込んだ宿沢は様々な軋轢を経験しつつ、大幅な債権放棄を行って解決した。 |
| これには、当時の頭取・西川善文の決断があった。 |
| しかし、銀行内では「損切りの額が大きすぎる」と賛否両論が渦巻いた。 |
| 関西地盤のアパレルメーカー・ワールドが2005年に経営陣による自社株式取得(MBO)を行うことになり、宿沢が本部長として陣頭指揮を執った。 |
| 当時、企業買収防衛策が一般的でなかったなかで実施されたため話題となった。 |
| これは、産業活力再生特別措置法に基づき経済産業省の後押しも受けた、特徴ある企業買収防衛策でもある。 |
| 関西経済同友会の副会長に就任、財界活動にも進出した。 |
取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長
| 同本部は、課題解決型の部門である。 |
| 銀行の企業アプローチが弱くなった事を背景に、銀行業界で初めて創立され、三井住友銀行の組織改編の目玉とされた。 |
| 業種ごとに分けた東西で12人の部長を配置し、宿沢が初代本部長として指揮を取った。 |
日本代表監督(1989年~1991年)
| 監督就任までは全く経験もなく、本場のラグビーを観戦したリポートを日本協会に送ったり、代表の海外遠征試合のテレビ解説をしていた。 |
| 日本を離れていた分、海外のラグビー戦術などに精通し、しかも頭脳明晰なエリートサラリーマンであったため、就任時は「日本ラグビー界の切り札的存在」と、マスメディアでも話題沸騰だった。 |
| 打診された時、本人は「銀行が許してくれない」と固辞していたが、銀行から「どうせやるなら、しっかり」と言われ、快諾したという。 |
| 当時の住友銀行頭取が、1936年のラグビー日本代表の磯田一郎だった事から、銀行側の特段の配慮が窺える。 |
| しかも、宿沢は資金為替部に所属していたが、ワールドカップ・イヤーに法人部へ異動となった。 |
| この法人部は営業支援を業務の柱とし、ディーリング部門に比べると、時間的な拘束はゆるい。 |
| しかし、ラグビーと銀行の二足のわらじを履いたことは事実。 |
| 「ノーギャラで良いからディーラーをやりたい」と述べており、銀行マンとしての仕事も両立するという信条を崩していなかった。 |
| 第2回ラグビーワールドカップ(1991年)で、監督として日本代表の今までの唯一の勝利を得た(日本は1987年の第1回大会以来、毎回、つまり6回、ラグビーワールドカップに参加しているが、今までの戦績は1勝18敗1分である)。 |
スコットランド戦での勝利
| 1989年5月28日、秩父宮ラグビー場でIRB所属のスコットランドに、28-24で勝った(主将・平尾誠二)。 |
| 試合前日、秩父宮ラグビー場でのスコットランドの非公開練習に、宿沢はラグビー場を見渡す事のできる伊藤忠商事ビルの12階から双眼鏡で偵察した。 |
| 試合前の国歌斉唱で「フラワー・オブ・スコットランド」を流すべきところを、イングランド(イギリス)の「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を流したことにより、士気を下げコントロールを崩したとも考えられる。 |
| 宿沢以降の日本代表の遠征では、アイルランドに9-78(監督・平尾誠二)、ウェールズに0-98、スコットランドに8-100(監督はともに萩本光威)という壊滅的な敗戦を喫している。 |
W杯初勝利のジンバフェ戦
| しかし、スコットランドに9-47の敗北、アイルランドに16-32の善戦(後述)と、2試合の敗戦を喫していたので、決勝トーナメントに進めなかった。 |
賛否両論のアイルランド戦
| しかし、その一方で「相手は主力メンバー8人を温存したのに、それでもダブルスコアが付いた」との厳しい見方・意見もあり、宿沢は「もっと体の大きい人材を育てていかないと、IRB諸国(世界ベスト8レベル)には勝てない」と苦しい心情を吐露。 |
| 東京中日スポーツ記者の大友信彦は「宿沢監督は、歴代の代表監督と寸分たがわぬ事を口にした。 |
| (余談だが、第3回W杯の小籔監督は、吉田(義)を初戦メンバーからはずしそのことに関する記者からの質問へ「それはこっちが決めることだ!1戦1戦試していくんだから!!」と声を荒げ、指揮官としての危機感の無さを露呈した)しかし、初戦となったスコットランド戦では、宿沢の大学の後輩の堀越正巳は使わず、新鋭の村田亙を起用した。 |
代表監督としての評価
| ラグビー協会の欧州のIRB重視の強化策には「もっと現実的な相手と試合したほうが強化につながる」と消極的で、アジア環太平洋の国々と数多く強化試合を組んだ。 |
| 従来は関東地区の大学・社会人チームに偏りがちだったのを、全国を見て歩いての選手発掘を行い、前監督の日比野弘の時代から大幅に選手が入れ替わった。 |
| 逝去時の宿沢の評伝で、スポーツライターの藤島大は「ロンドン駐在で、世界のラグビーを知る男は、決して世界を模倣せず、独自性を培った」と書いている。 |
日本代表強化委員長・専務理事(2002年~2005年)
| 代表監督の人選が特定の学閥に偏っている(早大か同志社大学出身者)事に嫌悪感を示し、委員長時代に向井昭吾(東海大学卒)の就任を発表した。 |
| 宿沢の日本代表監督時代も、メンバーに自身の後輩(早大関係者)はわずかに2人(堀越正巳・増保輝則)、コーチには1人(植山信幸)であった。 |
多忙な業務
| ラグビー界の知人・森重隆(明治大学~新日鉄釜石、日本代表)が「(宿沢は)ラグビー界を見捨てたのではないか」と心配して尋ねると、宿沢は「今、ラグビー界に戻ると、株主代表訴訟で訴えられるかもしれないなあ」と苦笑したという。 |
ラグビー協会との軋轢
| 宿沢が尊敬していた、ラグビー協会副会長・町井徹郎(東大ラグビー部、東芝副社長)が癌で急逝し、後任に元首相の森喜朗が座ってから、協会による宿沢への冷遇が始まったと言われる。 |
自ら離脱したとされる説
| 加藤仁の著作にも登場する東芝副社長・町井徹郎は、そうした地域の利害関係が全くなく、国際感覚や大企業で副社長まで登りつめた手腕を、宿沢が高く評価しており、会長選挙立候補を宿沢がお願いしていたというなお、宿沢は代表監督や強化委員長を務めた際の自らのブレーンに据えたのは、サラリーマンとしてある程度の地位を持った日本代表経験者であった。 |
死去
| 主な参列者に政界からは森喜朗、河野洋平、町村信孝、財界からも多数の著名人が出席、また平服のラグビーファンまでつめかけ、宿沢との別れを惜しんだ。 |
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1971年
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1年生からレギュラーに定着。160cmの小兵なが... |
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1973年
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入行した住友銀行では新橋支店に配属される |
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宿澤広朗さんについてのひとこと紹介
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