| 同年3月場所にて、15歳で初土俵を踏んだ。 |
| 1970年1月場所で新十両昇進、1971年9月場所で新入幕を果たした。 |
| 突き押しをもっぱらの戦術とし、ひたむきな土俵姿は相撲ファンから突貫小僧(後には突貫おじさん)の名で愛された。 |
| 気っ風の良い相撲ぶりから、「甲斐の江戸っ子」とも呼ばれた。 |
| 昭和天皇も富士櫻の土俵を好んだという。 |
| 同じ押し相撲の麒麟児との対決は特に人気があり、東京場所では天覧相撲用のとっておきの割として重宝された。 |
| 中でも1975年5月場所の8日目、東小結・麒麟児対西前頭筆頭・富士櫻の一番は、激しい突っ張りの応酬もあり大いに盛り上がった。 |
| 富士櫻の口の中が切れるほどの激戦で、昭和天皇も身を乗り出し固唾を呑むように勝負の行方を見守った。 |
| 2003年に日本経済新聞が掲載した「大相撲の名勝負ベスト10」で第5位に選ばれたこの一番で富士櫻は敗れたが、思い出に残る相撲としてこれを挙げている。 |
| 四つに組むと弱い小柄な力士であったが、人一倍稽古に励み関脇にまで昇進した。 |
| その稽古熱心さは師匠の高砂親方(元横綱・前田山)がやめろと言わない限りいつまでも稽古するため、他の力士が「もっと稽古せんか」と注意される中で彼だけは「稽古熱心もいい加減にしろ」と注意を受ける程だったという。 |
| 同部屋で、同じく関脇まで昇進した高見山との三番稽古は高砂部屋の名物であり、若い衆にとっては、傍で2人の稽古を見ているだけでいい勉強になるといわれた。 |
| 富士櫻の稽古熱心ぶりを伝えるエピソードであるとともに、稽古の質の高さも伺わせるものである。 |
| そして負けると、「まだ稽古が足りない」と言って稽古量を増やしていた。 |
| そのような力士であったため、角界きっての毒舌家として今でも名高い天竜三郎や玉ノ海梅吉(ともに、元関脇)が「あれほどの力士はいない」「富士櫻を褒めないわけにはいかない」と絶賛したほどであり、特に角界ナンバーワンの毒舌家だった天竜から褒められた力士は数多くの力士の中でも彼1人だけである。 |
| 2代若乃花をたびたび苦しめ、9つの金星のうち3つは対若乃花戦のものである。 |
| また1974年1月場所では、3横綱(北の富士・輪島・琴櫻)を全て倒した。 |
| 陸奥嵐との対戦に強く、同じ関脇を最高位としながら11戦全勝と一方的な記録を残した。 |
| 1963年5月場所で序ノ口に付いてから1度も本場所を休むことはなかったが、1984年1月場所、斉須との一戦で左アキレス腱を断裂して初の休場を余儀なくされた。 |
| しかし、富士櫻が残した「1543回連続出場」という記録は、現在もなお大相撲史上2位の連続出場記録として輝きを放っている。 |
| 以後は十両で相撲を取り続けるも、幕内復帰は成らなかった。 |
| 西十両9枚目で3勝12敗に終わった1985年3月場所を以って、37歳で引退。 |
| この場所では、弟弟子の大関・朝潮が初の優勝を果たし、最後の餞として優勝旗を持たせてもらった。 |
| 場所後、年寄・中村を襲名。 |
| 引退後は部屋を持つ意向はなく、師匠の高砂親方にも「(親方として)部屋に残ります」と約束していたものの、ある時、上半身の怪我で稽古ができない力士に対してランニングやウェイトトレーニングをするように声を掛けたところ、師匠の高砂親方から「そういうことは言わなくていい」と止められたことを機に「自分の考え方で弟子を育ててみたい」と思うようになり、独立の過程に際しては高砂親方を怒らせる騒ぎにもなった |
| ものの、1986年7月に高砂部屋から独立して中村部屋を創設した。 |
| 角界きっての人格者として知られ、弟子に対する粘り強い指導で知られる。 |
| また、所属力士達を通信課程制の高校に入学させ、高校卒業資格を取らせるなどの先駆的な試みをして注目を集めている。 |
| 日本相撲協会では勝負審判の他、再発防止検討委員会委員を歴任。 |
| 2010年には、無投票で副理事に当選した。 |
| 現在は、審判部副部長を務めている。 |
| また力士としては大成しなかったものの、後にお笑い芸人になった安田大サーカスのHIROも育てている(元序二段「和歌桜」)。 |
| 長男・信栄は2009年にフォークシンガーとしてソロデビューした。 |
| 中村部屋の玄関には信栄のポスターが貼られ、CDもよく聴くという。 |