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李世民
李世民 小前亮/著 出版社名 : 講談社 出版年月 : 2005年6月 ISBNコード : 978-4--5
( 4--2 ) 税込価格 : 2,310円 頁数・縦 : 534P 20... |
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秦叔宝
中国の唐の軍人。姓は秦で、名は瓊。叔宝とは字であり、字をもって通称される。本貫は斉州歴城(現山東省済南市)。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられ... |
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李勣
李勣(りせき 594年?-669年)は中国唐代の軍人。字は懋功(ぼうこう)。元の姓は徐、元の諱は世勣で、唐より国姓の李を授けられ、後に太宗李世民を避諱して... |
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劉武周
隋末唐初に割拠した群雄の一人。瀛州景城県(現在の河北省泊頭市の東北)の人。 |
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李密
中国の隋末に割拠した群雄の一人である。遼東郡襄平県の出身。字は玄邃、法主。曽祖父は西魏の柱国の李弼、祖父は北周の邢国公の李曜、隋の蒲山郡公の李寛が... |
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魏徴
魏徴(ぎちょう、580年-643年)は唐の政治家。巨鹿曲陽(今の河北省晋県)の人で字は玄成。諫議大夫・左光禄大夫に任じられ、鄭国公に封じられた。直諫(じか... |
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李淵
唐朝の初代皇帝(在位:618年6月18日-626年9月4日)。隋末の混乱の中、長安を落として根拠地とし、恭帝侑を隋の正統として立て、その禅譲により唐朝を建国し... |
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李靖
中国唐代に太宗に仕えた軍人・政治家。李勣とともに初唐の名将として知られ、突厥征伐などで戦功を挙げた。字は薬師。衛公に封じられた。李靖と太宗の対話は... |
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凌煙閣二十四功臣
唐の中国統一に貢献してきた功臣24名を指す。貞観17年(643年)2月28日に唐太宗が西京宮城東北の凌煙閣に、画家である閻立本に功臣の絵を描かせたのが由来と... |
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煬帝
煬帝(ようだい、ようてい)は隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日-618年4月11日)。煬帝は唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君といわれる。 |
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孫立
中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。梁山泊第三十九位の好漢。地勇星の生まれ変わり。渾名は病尉遅(びょううっち)である。病というの... |
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王世充
王世充(おうせいじゅう)は隋末唐初に割拠した群雄のひとり。 |
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房玄齢
房玄齢(ぼうげんれい 578年-648年)は中国唐代の政治家・歴史家。玄齢は字で、諱は喬。杜如晦と共に太宗の謀臣として玄武門の変において太宗の権力奪取を助... |
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霍去病
前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。 |
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李元吉
中国の唐の高祖李淵の四男。高祖の即位に伴い斉王に立てられ、太原を守ったが劉武周の侵攻を受けて失陥した。玄武門の変にて長兄の李建成とともに次兄の李世... |
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劉弘基
中国の唐の軍人。本貫は雍州池陽県。凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。 |
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唐倹
中国の唐の軍人。字は茂約。本貫は并州晋陽。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。 |
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薛仁貴
中国の唐の軍人。名を礼といい、仁貴とは字で、字をもって通称される。北魏の薛安都の後裔であり、河東薛氏の出身であった。本貫は絳州龍門県。経歴 薛軌の子... |
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程知節
中国の唐の軍人。姓は程で、名は咬金。本貫は済州東阿県。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。 |
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プロフィール
尉遅敬徳(うっちけいとく、中国語尉遲敬德、尉迟敬德YùchíJìngdé、585年-658年11月26日)、尉遅恭(うっちきょう、尉遲恭、尉迟恭、YùchíGōng)は、中国の唐の軍人。姓は尉遅で、名は恭。敬徳は字であり、字をもって通称される。本貫は朔州善陽県。唐の 凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。また、後世には『捜神記』を基に 秦叔宝とともに門神として信仰された。
経歴
| 隋の儀同の尉遅羅迦の子として生まれた。 |
| 大業末年、高陽で従軍して、翟松柏・劉宝強らを討伐して功績を挙げ、朝散大夫となった。 |
| また王須抜・歴山飛らを攻撃して、功により正議大夫となった。 |
| 617年、劉武周が乱を起こすと、その下で偏将となった。 |
| 619年、宋金剛とともに南進して、晋州・澮州を奪い、唐の永安王李孝基を撃破し、独孤懐恩・唐倹らを捕らえた。 |
| 620年、劉武周が唐の秦王李世民と柏壁で決戦して敗れると、敬徳は残軍を統率して介休を守った。 |
| 李世民が任城王李道宗・宇文士及らを派遣して敬徳を説得し、敬徳は尋相とともに唐に降った。 |
| 敬徳は右一府統軍となり、王世充に対する攻撃に従った。 |
| まもなく尋相が唐に叛くと、諸将は敬徳も乱に加わったものと疑い、彼を捕らえた。 |
| 屈突通や殷開山が敬徳を殺すよう進言したが、李世民は「敬徳が叛くときは、尋相の後になどつくものか」と相手にせず、敬徳を寝室の中に招いて「わたしは讒言をもって良士を害したりはしない」といい、「去りたいときには資金とせよ」と金まで渡した。 |
| この日たまたま王世充が数万の兵を率いて襲撃してくると、敬徳は李世民の前で奮戦し、敵将の単雄信・陳智略を捕らえた。 |
| 621年、竇建徳が板渚に駐屯すると、敬徳は竇建徳の大軍を挑発して堡塁から引きずり出し、李勣らの伏兵が横撃して、竇建徳を大いに破った。 |
| また王世充の兄の子の王琬が隋の皇帝の馬をこれ見よがしに乗り回していたが、敬徳はわずか三騎で敵陣に乗り込み、王琬を捕らえ、その馬を引き連れて帰った。 |
| 劉黒闥との戦いで、李世民・李勣らが奇襲を受け、敵に包囲されたことがあったが、敬徳は壮士を率いて敵陣に乗り込み、混乱に乗じて李世民は脱出することができた。 |
| また徐円朗との戦いでも功績があって、秦王府左二副護軍に任ぜられた。 |
| 太子李建成が敬徳に金品を贈って麾下に招こうとしたことがあったが、敬徳はこれを拒絶して怒りを買った。 |
| このため刺客に襲われたり、讒言されて高祖に殺されかけたりした。 |
| 李世民と李建成・李元吉との間が緊張を高めると、敬徳は長孫無忌とともに李世民の決断を迫った。 |
| 626年、玄武門の変が発動されると、敬徳は70騎を率いて李元吉を射殺し、高祖に迫って李世民に全権を委ねる詔を出させ、治安を回復させた。 |
| 李世民が皇太子となると、敬徳は左衛率に任ぜられ、李建成・李元吉の党与に罪を及ぼさないよう進言した。 |
| 変における論功第一として絹万匹と斉府の金幣・什器を賜った。 |
| 627年、右武侯大将軍に任ぜられ、呉国公に封ぜられ、実封1300戸を受けた。 |
| 突厥の侵入を受けると、涇州道行軍総管となり、涇陽でこれを撃退した。 |
| 敬徳は功績に対する自負心が強く、大臣の長孫無忌・房玄齢らと合わず、629年には襄州都督に左遷され、さらに634年には同州刺史とされた。 |
| 637年、宣州刺史に任ぜられ、鄂国公に改封された。 |
| のちに鄜州都督・夏州都督を歴任した。 |
| 643年、隠退を願い出ると、開府儀同三司とされた。 |
| 太宗李世民が高句麗遠征(麗唐戦争)を決めると、敬徳は親征しないよう求めたが、容れられなかった。 |
| 本官のまま、太常卿を代行し、左一馬軍総管となり、駐蹕山で高句麗軍を破った。 |
| 帰還すると官界から隠退した。 |
| 晩年は仙人の道を信じて、金石を錬り、雲母の粉を呑み、人との交際を絶って修行したという。 |
| 658年、74歳で没した。 |
| 司徒・并州都督の位を追贈され、忠武と諡され、昭陵に陪葬された。 |
| 敬徳の妻の蘇娬(そぶ、589年-613年5月28日)は、若くして亡くなり、鄂国公夫人を追贈された。 |
| 子に尉遅宝琳(うっちほうりん)があり、衛尉卿に上った。 |
伝記資料
| 『旧唐書』巻六十八列伝第十八「尉遅敬徳伝」。 |
| 『新唐書』巻八十九列伝第十四「尉遅敬徳伝」。 |
| 大唐故開府儀同三司鄂国公尉遅君墓誌。 |
| 大唐故司徒公并州都督上柱国鄂国公夫人蘇氏墓誌。 |
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