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つながりの強いひと
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織田信長
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の1人。尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。室町幕府を滅ぼし、織田政権を確立。... |
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武田信玄
母
戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名... |
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武田勝頼
戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐の武将・戦国大名。甲斐武田家第20代当主。武田二十四将の一人と数える場合もある。当初は諏訪氏を継いだため、諏訪... |
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小山田信有
対・村上義清戦である砥石崩れ〔砥石城の戦い〕で重傷を負い、それが元で天文21年〔1552年〕に死亡した、とされています。…伝えられるところでは、です。 >... |
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真田昌幸
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃先方衆として甲斐武田氏家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自。武田信玄時代の武田家に仕え、武田... |
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徳川家康
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府初代征夷大将軍。三英傑の一人。本姓は、先に藤原氏、次いで源氏と名乗った。家系は、三河国の... |
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木曾義昌
戦国時代の信濃国の武将。木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名宗太郎。左馬頭・伊予守。法名は東禅寺殿玉山徹公大居士。木曾義康の長子。上松義豊の兄。木... |
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穴山信君
戦国時代の武将。甲斐国武田氏の家臣で、御一門衆のひとり。幼名は勝千代(かつちよ)。母南松院殿は武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたる。妻は信玄の娘であ... |
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山県昌景
戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で、武田四名臣の一人である。 |
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武田信虎
母
戦国時代の武将。甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主にあたる。 |
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内藤忠興
江戸時代前期の大名。陸奥国磐城平藩の第2代藩主。延岡藩内藤家宗家初代。 |
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北条氏政
戦国時代の相模国の武将・大名。後北条氏の第4代当主。武田信玄の娘婿で、武田義信・武田勝頼は義兄弟にあたる。父・北条氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に... |
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織田信忠
安土桃山時代の武将・大名。織田信長の嫡男で世子である。 |
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内藤昌豊
戦国時代の武将。武田氏の家臣。武田四名臣の一人。「内藤昌豊」の名で伝わるが、『高崎市史』によれば「内藤昌秀」が正しいという説が有力である。 |
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直江景綱
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越後国の守護代・戦国大名の長尾氏(上杉氏)の家臣。山東郡(三島郡)与板城城主。長尾為景・晴景・景虎(後の上... |
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板垣信方
戦国時代の武将。武田信虎、晴信(信玄)の二代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。武田晴信が父信虎... |
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上杉謙信
戦国時代の越後国の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。上杉氏の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎。兄であ... |
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甘利虎泰
戦国時代の武将。武田氏の家臣で、武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人である。甲斐源氏・一条忠頼の流れをくむ武田氏の庶流にあたる。甲斐国巨摩郡甘... |
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武田信繁
人物に関する 書きかけ項目 です。 この記事を加筆・訂正 などして下さる 協力者を求めています ( ウィキプロジェクト 人物伝 )。 この「 武田信繁 (室... |
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プロフィール
- 小山田信茂とは
- 信玄時代
- 勝頼時代
- 人物
- 小山田氏の立場
- 関連項目
- 関連サイト
小山田信茂(おやまだのぶしげ)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。甲斐岩殿城(岩殿山城)に居を構えた国人領主(勝山記、妙法寺記の記述より、居城は谷村城との説もある。改正三河後風土記に、武田氏の重代譜代の 御家人。
信玄時代
| 天文8年(1539年)、坂東八平氏の一流・秩父氏の血を引く小山田氏当主・小山田出羽守信有の次男として生まれる。 |
| 母は武田信虎の妹で、武田信玄の従兄弟に当たる。 |
| 天文21年(1552年)に父が病死(信濃・常田の戦いまたは砥石崩れで戦死説、その時の傷が元で後日死亡説有り)した後は異母兄(生母は地元家臣の娘?)と推定される弥三郎信有が家督を継ぐが、永禄8年(1565年)に弥三郎が病死したために家督を継いだ。 |
| ただし、弥三郎が病弱であったために当主の職務を早くから代行していたとされ、後世において両者が混同されている。 |
| 弘治2年(1557年)の第3次川中島の戦いで初陣を果たし、永禄4年の第4次川中島の戦いでは妙法寺記に「よこいれ(側面攻撃)を成され候ひて」と言う記述が残されており、妻女山に向かった高坂昌信率いる別働隊に従軍していたとされている。 |
| 永禄12年(1569年)の小田原北条氏攻めでは、小田原城の支城である滝山城攻城戦の前哨戦で北条氏照軍を打ち破った(廿里古戦場)。 |
| 元亀3年(1572年)の信玄による西上作戦においても、12月の三方ヶ原の戦いにおいては3500の兵を動員、投石部隊を率いて徳川軍の石川数正隊と戦端を切り、勝ち鬨の音頭取りと言う最大の栄誉を与えられる武功を挙げた。 |
勝頼時代
| 元亀4年(1573年)に信玄が死去すると、武田勝頼に仕えた。 |
| 勝頼の下でも多くの戦いに参加している。 |
| 天正6年(1578年)に武田家と北条家の同盟が破棄されると、北条氏の抑えを務めている。 |
| 天正3年5月に行われた長篠の戦いでは家中最大の3200人の兵員を動員し、約1000名が討ち死にしたと言われている。 |
| 天正10年(1582年)2月、織田信長の信濃・甲斐への侵攻(武田攻め。 |
| 総大将織田信忠、副将滝川一益が始まると、武田勝頼に新府城から自分の居城である岩殿山城に逃れるように勧めた。 |
| しかし途中で裏切り、勝頼や嫡男の武田信勝らを郡内に入れず、結果的に滅亡へ追い込んだとされている(天目山の戦い)。 |
| 甲斐が平定された後、嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から不忠を咎められ、甲斐善光寺で嫡男とともに処刑された。 |
| 千鳥姫と言う信茂側室の伝説もある。 |
| 千鳥姫は織田家の大軍に包囲された岩殿山城から信茂の次男賢一郎と赤子の万生丸を連れ護衛の小幡太郎らと共に落ち延びたが、万生丸が泣き出したため小幡太郎は千鳥姫から万生丸を取り上げ岩殿山城の断崖から投げ捨てたと言うものである。 |
| その場所は稚児落としと呼ばれて伝わっている。 |
| 娘の香具姫は、勝頼の娘、仁科盛信の娘らとともに、信玄の娘の松姫に連れられ、武州(現・八王子)に落ち延び、松姫により育てられている。 |
| のちに磐城平藩主内藤忠興の側室となり、嫡男内藤義概(よしむね)らをもうけている。 |
人物
| 信玄に従って数多の功績を挙げ、武田家中で随一の勇将・小山田と呼ばれた。 |
| 武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場ら重臣と共に名を列ねている。 |
| 武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。 |
| 山梨県の郡内地方では武田家から離反する事で理知的に戦火から所領と領民を守ったとして人気がある。 |
| 武功だけの活躍に止まらず、郡内支配を中心とした発給文書も30点以上残っており、北条氏や上杉氏などとの外交取次ぎの役割を果たしたりと内政・外交の分野でも有力宿老として活躍している。 |
| 設楽ヶ原の戦いにおいては早々に撤退し戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。 |
小山田氏の立場
| 小山田氏は武田家臣ではあるが、武田家中においては穴山氏とともに自領に独自支配を及ぼす地域的領主・地域領主であり、その位置づけに関しては戦国大名論の観点から注目される。 |
| 北条氏より381貫100文の知行を認められていたことや(但し武蔵国の小山田荘周辺のみ)、領内に武田氏によって建てられた寺院等が少ない、所領の郡内地方に武田氏発給の文書が少ない(但し富士講の参拝者に対する通行税への干渉、北条氏政に嫁いだ長女の安産祈願状はある)等が根拠として挙げられている。 |
| 実際は信玄の娘婿でありながら武田氏に母親を人質に差し出していたこと(同様に木曾義昌も人質を出している)、織田信忠から当人や男子のみならず、妻に母、娘までもが信長に処刑されていることから、寝返りについて、武田氏の配下でかなり咎められる立場にいたものと考えられる。 |
| 信玄の葬儀に於いて葬儀序列4番目に当たる剣持ちを務めており(1番は喪主の四郎勝頼・2番は遺影持ちの五郎盛信・3番は位牌持ちの六郎信貞といずれも信玄の息子が務めている)、武田家と同祖である穴山信君や同じ信玄の娘婿である木曾義昌を差し置いて任されていることからも長篠の戦で重臣を失った武田家で重きを成していた事が伺える。 |
| また、北条氏との関係については、武田氏から北条氏の抑えを任される立場にあり、小田原攻めにも従軍し、北条軍と戦っている。 |
| 独立色が濃く、相手国と縁深い存在に武田氏が本国の守りを任せるのは不自然である。 |
| 信茂自身も武田信虎の妹を母に持ち信玄の従兄弟に当たる存在で、外戚とはいえ武田家の親族衆であった。 |
| 但し、与えられていた職責は譜代家老衆と同等の地位であった点、戦国末期以前の武士団同士の関係は小豪族の寄合いや豪族同士の地縁血縁で成り立っているもので武家の名門武田家も当然このような形態で成り立っているため、他家からは「武田家の家臣」と見なされていたものと思われる。 |
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1539年
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坂東八平氏の一流・秩父氏の血を引く小山田氏... |
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1573年
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信玄が死去すると、武田勝頼に仕えた |
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