| 1990年4月からはJRAサービス推進部保安企画課所属となった。 |
| そして、社会人になって初めての大会となる全日本選手権では準決勝で金野を注意で破ると、決勝では71kg級世界チャンピオンである平成の三四郎こと古賀稔彦との夢の決勝対決となったが、序盤から優勢に試合を進めて7分過ぎに足車で一本勝ちして大会2連覇を達成した。 |
| 大会後のインタビューでは、古賀が決勝まで上がってくることは全く予想していなかったが、JRAの監督である関勝治に小さい相手ともよく練習しておけと言われたことで、大学の3年後輩で古賀と同じくらいの体格である秀島大介とは特によく練習したことで、決勝ではスムーズに勝つことが出来たと述べた「WINNER'SINTERVIEW全日本2連覇・小川直也5段」近代柔道 ベースボールマガジン社、1990年6月号、52頁ー55項6月には実業団体2部に出場して、JRAの優勝に大きく貢献した。 |
| 7月には体重別の準決勝で金野に苦戦するが辛くも注意で勝ち上がると、決勝では関根を朽木倒の有効で破って北京アジア大会代表に選ばれた。 |
| 9月のアジア大会ではJOCから日本選手団全体の主将に選ばれるが、95kg超級の準決勝で北朝鮮のファンに合技で敗れる予想外の結果となった。 |
| 実に2年3ヶ月ぶりの敗戦であった。 |
| 3位決定戦ではイランのF・ファラヒを上四方固で破った。 |
| 11月の嘉納杯95kg超級決勝では金野を判定で破ると、無差別決勝でもフランスのダビド・ドゥイエを小外刈の有効で破り、2階級制覇を達成した。 |
| 1991年4月の全日本選手権では決勝で金野を判定で破り3連覇を達成した。 |
| 5月の体重別は欠場したが世界選手権95kg超級代表に選ばれた。 |
| 7月にスペインのバルセロナで開催された世界選手権では95kg超級の準決勝でソ連のセルゲイ・コソロトフに崩袈裟固で敗れるも、3位決定戦ではフィンランドのユハ・サローネンに反則勝ちした。 |
| 当初無差別は関根が出場する予定だったが、選手団長の神永昭夫に無差別にも出場する意思があるのか尋ねられると、「やらせてください」「無差別級で優勝できなければ、ボクは現役を辞めて責任をとります」と固い決意のほどを述べたことによって、全日本監督である上村春樹が小川を無差別にも出場させることを最終的に決定した「特集 1991年男女世界選手権大会 Part5」近代柔道 ベースボールマガジン社、1991年9月号、50頁ー54項「男子柔道 小川直也」 特選外車情報F-ROAD スターライトヒーロー マガジンボックス社、1992年7月号増刊、83頁ー85項。 |
| その準決勝ではベルギーのハリー・バンバルネベルトに小外刈を返されて先に技ありを取られるも横四方固で逆転勝ちすると、決勝ではソ連のダヴィド・ハハレイシヴィリを体落で破り、オール一本勝ちで無差別3連覇を果たした。 |
| 1992年4月の全日本選手権決勝では後輩である明治大学の大漉賢司を横四方固で破り4連覇を達成した。 |
| 5月の体重別は欠場したが、バルセロナオリンピック代表に選ばれた。 |
| 7月のバルセロナオリンピックでは準決勝でドゥイエを合技一本で下すが、決勝ではEUNのハハレイシヴィリに合技で敗れて2位に終わった。 |
| 大会後のインタビューでは、オリンピックで勝ったら柔道を辞めようと思っていたと述べた「スペシャルインタビュー 小川直也」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年11月号、54頁ー58項。 |
| しかし現実にはオリンピックで敗れたことにより、その責任を感じて現役を退くことも考えたが、恩師である原吉実に説得されて現役を続行することにしたとも語った「全日本選手権V5 小川直也 スペシャルインタビュー」近代柔道 ベースボールマガジン社、1993年6月号、38頁ー43項。 |
| 11月には嘉納杯無差別に出場して、準決勝でコソロトフを警告で破るも、決勝ではバンバルネベルトから先に小外刈で有効を取るも裏投で技ありを取られて逆転負けを喫して2位に終わった。 |
| 1993年4月の全日本選手権決勝では金野から足車で一本勝ちして5連覇を達成した。 |
| 7月の体重別では決勝で関根を判定で破って優勝して世界選手権代表に選ばれた。 |
| 10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では無差別に出場したが、準決勝でポーランドのラファウ・クバツキに払釣込足で敗れるも、3位決定戦でハンガリーのイムレ・チョスを掬投で破った。 |
| 1994年4月の全日本選手権準決勝では、大学の後輩である新日本製鐵の吉田秀彦と対戦して、前半は優勢に試合を進められるが中盤に支釣込足で大きく崩すも判定となり、1-2の微妙な内容ながら敗れて大会6連覇はならなかった。 |
| 12月には講道館杯に出場するも、決勝で天理大学の篠原信一に0-3の判定で敗れた。 |
| 引退後には、自分の指導者人生は小川に始まり小川で終わるとまで述べた原吉実との師弟対談において、この時期の判定に関しては納得いかず、「正直言って、俺に引退されたら困らないのかなあ、それにしては乱暴な扱いだなあと思っていましたよ」と大きな不満を抱いていたことを率直に語っていた「小川直也 引退特集 ザ・師弟対談 小川直也&原吉実」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年12月号、54頁ー57項。 |
| 1995年の2月にはフランス国際に出場するが、準決勝でドゥイエに大内刈で敗れるも、3位決定戦ではアルゼンチンのオルランド・バッチーノを足車で破った。 |
| 続いてオーストリア国際にも出場するが、準決勝でオーストリアのエリック・クリーゲルに指導を取られ敗れて3位決定戦は棄権した。 |
| 3月には6年ぶりに全日本選手権の東京予選に出場して、出場権を確保したベスト8の段階で棄権した。 |
| 4月の全日本選手権では決勝で篠原を横四方固で破り、2年ぶり6度目の優勝を果たした。 |
| 5月の体重別準決勝では金野相手にお互いに牽制しあうあまり両者反則負けとなった。 |
| 6月の実業団体1部決勝での新日本製鐵戦では吉田と対戦するが引き分けとなり、チームも2位に終わった。 |
| 9月に幕張で開催された世界選手権では、準決勝でドイツのフランク・モラーに一本背負投で有効を取られて敗れるが、3位決定戦ではトルコのセリム・タタログルに足車で一本勝ちした。 |
| 12月の講道館杯決勝では金野に2-1の微妙な判定ながら勝利した。 |
| 1996年2月のフランス国際では準決勝でタタログルに体落で一本勝ちすると、決勝はクバツキの棄権により優勝を果たした。 |
| 4月の体重別準決勝では篠原を注意で破るが、決勝で警視庁の真喜志慶治に0-3の判定で敗れて2位に終わった。 |
| 続く全日本選手権では準々決勝で金野に2-1の微妙な内容で判定勝ちすると(ちなみに、当時の全日本監督である山下泰裕はこの試合で主審を務めていたが、金野の方に旗を揚げた)、準決勝では会社の後輩であるJRAの賀持道明を横四方固で破り、決勝では日本道路公団の三谷浩一郎から掬投で一本勝ちして2年連続7度目の優勝を飾るとともに、アトランタオリンピック代表に選ばれた。 |
| 7月のアトランタオリンピックでは、準々決勝でクバツキから先に体落で有効を取るが終了間際に双手刈で有効を取り返されるものの3-0で判定勝ちするが、準決勝でドゥイエ相手に先に内股で有効を取られるがその後はよく攻めたものの結局ポイントを取り返せず敗れ、3位決定戦ではモラーに払巻込で敗れて5位に終わった。 |
| 9月には全柔連に国際試合強化選手の辞退届けを提出して、現役を引退することとなった。 |