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つながりの強いひと
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橘道貞
父
平安時代中期の官僚。下総守・橘仲任の子。官位は正四位下・陸奥守。和泉守、陸奥守などを歴任した地方官僚でいわゆる受領階級に属する。藤原道長の側近で、... |
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和泉式部
父 母
和泉式部(いずみしきぶ、天元元年(978年)頃-没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙の1人。 |
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一条天皇
平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年7月31日)-寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 |
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藤原定頼
藤原定頼(ふじわらのさだより、長徳元年(995年)-寛徳2年1月19日(1045年2月8日))は平安時代中期の公家・歌人。権大納言・藤原公任の長男。官位は正二位... |
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藤原公成
平安時代の公卿。藤原北家閑院流の流れをつくる。中納言藤原実成の長男。従二位、参議、権中納言。滋野井別当と号す。幼名は犬君。幼くして祖父である太政大... |
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藤原教通
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白・太政大臣、贈正一位。大二条殿と号す。 |
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伊勢大輔
平安時代中期の女流歌人。大中臣輔親の娘。高階成順に嫁し、康資王母・筑前乳母・源兼俊母など優れた歌人を生んだ。中古三十六歌仙の一人。1008年(寛弘5年)... |
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藤原保昌
平安時代中期の公家。藤原南家巨勢磨流の一族、右馬権頭藤原致忠の子。弟に盗賊として名高い藤原保輔がいる。摂津守となり同国平井に住したことから平井保昌... |
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赤染衛門
平安時代の女房・女流歌人。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。大隅守・赤染時用の娘。歌集は『赤染衛門集』。『栄花物語』の作者とも目される。 |
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紀貫之
平安時代前期の歌人。『古今和歌集』の選者のひとり。また三十六歌仙のひとりでもある。紀友則は従兄弟にあたる。 |
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藤原義孝
平安時代中期の公家・歌人。摂政・太政大臣・藤原伊尹の三男(または四男)。子に三蹟の一人藤原行成がいる。中古三十六歌仙の一人。官位は正五位下・右少将... |
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藤原範永
藤原範永 (歴史上の人物 日本史) 人物検索 アダルトフィルタ:オン JavaScriptの設定を有効にしていただくと、さらに情報をご覧いただけます。 ※JavaSc... |
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藤原彰子
第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院といい、のち大女院などとよばれた。女房に『... |
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小野小町
平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。 |
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藤原道長
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守... |
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為尊親王
平安時代中期の皇族。冷泉天皇の第三皇子。母は藤原兼家の娘超子。三条天皇の同母弟。官位は二品・弾正尹。 |
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大江雅致
和泉式部
生没年未詳。大江雅致女。円融朝の貞元ごろ(970年代)の出生と推定され、初め冷泉天皇皇后昌子内親王のもとに出仕。橘道真と結婚して、夫の官名(... |
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藤原実方
平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家小一条流。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。大納言・藤原済時の養子。官位は従四位上・左近衛中将。中古三十... |
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敦道親王
平安時代中期の皇族・歌人。冷泉天皇の第四皇子。母は藤原兼家の娘・超子。三条天皇の同母弟。官位は三品・大宰帥。 |
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プロフィール
小式部内侍(こしきぶのないし、長保元年(999年)頃-万寿2年(1025年)11月)は平安時代の女流歌人。掌侍。父は 橘道貞、母は 和泉式部。母の 和泉式部と共に 一条天皇の中宮・彰子に出仕した。そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになった。
経歴
| 母同様恋多き女流歌人として、藤原教通・藤原定頼・藤原範永など多くの高貴な男性との交際で知られる。 |
| 教通との間には静円、範永との間には娘をもうけている。 |
| 万寿2年、藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に20代で死去し、周囲を嘆かせた。 |
| この際母の和泉式部が詠んだ歌。 |
| は、哀傷歌の傑作として有名である。 |
| 小式部内侍の逸話は、下記の「大江山」の歌のエピソード、また教通との恋のエピソードを中心に、『十訓抄』や『古今著聞集』など、多くの説話集に採られている。 |
| また『無名草子』にも彼女に関する記述があり、理想的な女性として賞賛されている。 |
小式部内侍の歌
| この歌は『金葉和歌集』にも収録されているが、そちらは「ふみもまだ見ず」となっており、百人一首とは語順が異なる。 |
| これは、「大江山を越えて、近くの生野(京都府亀岡市内の古地名)へと向かう道のりですら行ったことがないで、まだ母のいる遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」という意味である。 |
| 歌合に歌を詠進することになった小式部内侍に、四条中納言(藤原定頼)が「丹後のお母さん(和泉式部は当時、夫の任国である丹後に下っていた)の所に、代作を頼む使者は出しましたか。 |
| 使者は帰って来ましたか」などと意地の悪い質問をしたのに対し、その場で詠んだ歌とされている。 |
| 当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったため、四条中納言は小式部内侍をからかったのだが、小式部内侍は見事な歌で答えたのだった。 |
| これに対し四条中納言は、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにも関らず、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去ってしまい恥を掻いたという。 |
| 「行く野・生野」「文・踏み」の巧みな掛詞を使用したその当意即妙の受け答えが高く評価され、以後小式部内侍の歌人としての名声は高まったという。 |
| なお、「ふみ」と「橋」は「道」の縁語である。 |
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小式部内侍さんについてのひとこと紹介
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