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つながりの強いひと
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南部忠平
日本の陸上競技選手。ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳金メダリスト。 |
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瀬古利彦
瀬古利彦(せことしひこ、1956年7月15日-)は三重県桑名市出身の元陸上競技・マラソン選手、陸上競技指導者。1970年代後半から1980年代にかけて宗茂、宗猛、中... |
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田島直人
日本の陸上競技選手。ベルリンオリンピック金メダリスト。 |
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渡辺泰造
東京都出身の外交官。駐エジプト大使、駐インドネシア大使、外務省顧問、全日空顧問、青山学院大学教授などを務めた後、2005年日本国際博覧会政府代表。 |
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青木半治
日本のスポーツ指導者。日本陸上競技連盟名誉会長。 |
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有森裕子
元女子マラソン選手で日本におけるプロランナーの草分けでもある。日本体育大学卒業、日本陸上競技連盟の理事、日体大客員教授、国際陸上競技連盟女性委員会... |
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櫻井孝次
/ オリンピック / 東京オリンピック 1964 / トップアスリートインタビュー / 櫻井孝次選手 オリンピック 競技情報 選手インタビュー ... |
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河野洋平
日本の政治家。衆議院議員(14期)、衆議院議長(第71・72代)、副総理(村山内閣・村山改造内閣)、外務大臣(第122・127・128・129・130代)、内閣官房長官... |
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帖佐寛章
陸上競技の元選手で中長距離選手の指導者。香川県小豆郡土庄町豊島出身。 |
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佐々木秀幸
陸連のコーチ、指導者としてオリンピック大会に参戦したほか、専務理事として陸連組織の強化に奔走する。現在は日本陸上競技連盟名誉副会長、日本アンチドー... |
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木南道孝
998 木南道孝 大阪国際女子マラソンの創設などにも尽力した日本陸上競技連盟名誉副会長の木南道孝、敗血症性ショックのため大阪府枚方市の病院で8日死去、87... |
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西田修平
日本の陸上競技選手である。和歌山県東牟婁郡那智村(現・那智勝浦町)出身。ベルリンオリンピック銀メダリスト。早稲田大学卒業。 |
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松野明美
松野明美(まつのあけみ、本名:前田明美、1968年4月27日-)は日本の政治家。熊本市議会議員。無所属。旧鹿本郡植木町(現・熊本市)出身。現在2児の母。元陸... |
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澤木啓祐
陸上競技の元選手でマラソン・中長距離選手の指導者。順天堂大学スポーツ健康科学部学部長、日本陸上競技連盟専務理事。大阪府出身。 |
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中曽根弘文
日本の政治家。参議院議員(5期)、自由民主党参議院議員総会長(第27代)、自由民主党群馬県連会長。父は中曽根康弘元首相。外務大臣(第141代)、文部大臣... |
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錦織圭
島根県松江市出身の男子プロテニス選手。IMGニック・ボロテリー・テニスアカデミー所属。開星中学校→青森山田高等学校を卒業している。身長178cm、体重70kg。... |
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中山竹通
中山竹通(なかやまたけゆき、1959年12月20日-)は長野県北安曇郡池田町出身の元陸上競技(長距離種目)選手、指導者。身長180cm、体重58kg(現役当時)。息... |
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安田誠
安田誠 株式会社エス・ディー・エス バイオテック 農薬、工業用防黴剤、防疫薬剤及び特殊化学品の製造、輸入、販売 お気に入りに追加する 社長タイプ 安田誠... |
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高木希世子
日本のタレント、テレビ番組司会者である。 |
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プロフィール
- 小掛照二とは
- 来歴
- 五輪マラソン代表選手選出を巡る騒動
- 関連項目
- 関連サイト
小掛照二(こがけてるじ、1932年12月18日-2010年5月9日)は、広島県甲奴郡上下町出身の元陸上選手。陸上競技指導者。元三段跳世界記録保持者。日本陸上競技連盟(日本陸連)副会長、名誉副会長。日本オリンピック委員会(JOC)元副会長。日本オリンピアンズ協会元副会長。
来歴
| 中国山地山間の町、上下町の農家の長男として生まれる。 |
| 叔父、父も甲奴体協のリレーメンバーで、恵まれた体を生かし幼少期から跳躍の素養を発揮した。 |
| 同郷の先輩・織田幹雄(アムステルダムオリンピック(1928年))、から南部忠平(ロサンゼルスオリンピック(1932年))、田島直人(ベルリンオリンピック(1936年))まで三大会連続で金メダルを獲り、当時は日本のお家芸だった三段跳を教師の勧めで始める |
| 当時の日本では子供が"ホップ・ステップ・ジャンプ"、と遊びで使うほど、三段跳は人気種目だった。 |
| 新制高校1期生となった1948年、広島県立上下高校からジャンパーの歩みが始まる。 |
| 三段跳や走高跳、走幅跳などで多くのタイトルを獲得、全国高校陸上選手権の第二回、三回大会では一人で上下高校を総合2位に導いた。 |
| 前述の織田、西田修平らの誘いで早稲田大学に進学し早稲田大学競走部で活躍。 |
| 大学時代は伸び悩んだものの1955年、大昭和製紙入社後は才能が開花。 |
| 翌1956年、跳べば自己記録を更新、当時の新聞は「メルボルンに光明」と大きく騒ぎ立てた。 |
| 同年秋、仙台市宮城陸上競技場で行われた日本陸上競技選手権兼メルボルンオリンピック最終予選会に於いて、"三段跳世界新記録を樹立"(16m48cm)。 |
| 当時の世界記録を25cmも上回る驚異的な記録だった。 |
| しかし40日後の五輪本番までの合宿中、カメラマンの要望で何度も跳んで足首を捻挫、ほとんど練習出来ないまま本番に臨み8位に終わった |
| 当時のマスコミは「若さと精神面の問題」と厳しく批判した。 |
| 日本中の期待に沿えず重い十字架を背負いながらも競技を続け1960年、ローマオリンピック予選会で3位となり、出場権を得たかに思われたが、結果的に選考会議で漏れ、代わりに6位の選手が代表となった。 |
| このときユニフォームとスパイクを燃やし選手生活に訣別、陸上を辞めた。 |
| 2年後、織田から「選手を育てて自分の果たせなかった夢をコーチでかなえてほしい」と誘われ、自らの無念の思いをメダリスト育成にかけようと決意。 |
| 1962年、29歳から日本陸上競技連盟(日本陸連JAAF)強化コーチとなり指導者としての道を歩む。 |
| しかしこの後は日本陸上不遇の時代を長きに渡り歩むこととなった。 |
| 1964年、東京オリンピック陸上監督、1980年、幻のモスクワオリンピック陸上コーチ。 |
| 1983年、日本オリンピック委員会(JOC)常任委員。 |
| 1981年、日本陸連強化委員長に就任。 |
| 跳躍だけでなく、競技全体を見渡す立場になり、マラソンにも力を注いだ読売新聞2010年8月8日33面<追悼抄>。 |
| 1984年、ロサンゼルスオリンピック陸上監督。 |
| 1988年ソウルオリンピック惨敗後、JOCの日本体育協会(JASA)からの独立にも尽力 |
| 1989年JOC理事、この年から日本陸連強化本部長、1999年から副会長となり実務のトップとなる。 |
| またJOCも強化本部長に就任し1993年ユニバーシアード・バッファロー大会日本選手団団長、1994年広島アジア競技大会副団長、バンコク(1998年)、釜山(2002年)アジア競技大会で日本選手団団長を務めるなど、多くの世界大会で日本選手団団長として活躍。 |
| 1999年からJOC副会長。 |
| その他、広島の全国都道府県対抗男子駅伝、北海道マラソン、長野マラソンの創設に尽力、また東京陸上競技協会会長及び組織委員会副会長として東京マラソンの準備・運営など、多くの陸上大会開催、陸上競技の発展、底辺拡大に尽力した |
| 40年以上の長きに渡る日本陸連のリーダーとしての選手強化実績に対して2005年、旭日中綬章が授与された。 |
| また国際オリンピック委員会(IOC)のオリンピックオーダー銀賞も受賞している。 |
| 2010年5月9日、肝不全により逝去した |
| 長男はTBSスポーツ局のプロデューサー・小掛義之。 |
| 『知ってるつもり?!』などのアシスタントを務めた高木希世子は義理の娘にあたる。 |
五輪マラソン代表選手選出を巡る騒動
| 小掛の名前を有名にしたのは、しばしば繰り返されるオリンピックマラソン代表選考をめぐる(マスコミを中心とした)騒動である。 |
| 選考委員のトップ(強化本部長)として大きな影響力を持つとされたため、実力の伯仲した選手を選考したりする場合その選考理由をめぐって小掛の意向が取りざたされ、結果として騒動と呼ばれる状況が時に生じた |
| ソウルオリンピック男子マラソンでは、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられていた福岡国際マラソンをけがで欠場し、びわ湖毎日マラソンで優勝した瀬古利彦が選出された。 |
| びわ湖毎日も選考レースの一つではあったため、強引に選考したわけではないが、出るべきであった福岡国際に出られなかった早稲田の後輩・瀬古への救済であるという批判も少なくなかった。 |
| 瀬古の福岡欠場が決まった際に中山竹通は「自分なら這っても出ますけどね」と発言し、それが「瀬古、這ってでも出て来い!」などと挑発的な内容に歪めて報じられもした |
| バルセロナオリンピック(1992年)では選考競技会の大阪国際女子マラソンで好タイムながら日本人2位の松野明美と、同じく選考会である前年夏の世界陸上4位(日本人では2位)の有森裕子が比較の対象となった。 |
| 本番が夏のレースであることから、松野が選考直前に記者会見で「私は火の国の女だから私の方が(有森よりも)暑さに強い」とアピールするような事態となり、マスコミもこの選考を興味本位に取り上げ「恣意的な選考」「不透明」などと日本中で批判が渦巻いた朝日新聞2010年5月11日17面。 |
| 有森が五輪本番で銀メダルを獲得して面目を保ったが、選考前後には、小掛の自宅に脅迫状や日本刀が送られてくるなど、大変な批判・いやがらせに見舞われた |
| 本番ではトップで選考されていた野口みずきが金メダルを獲ったため、結果的にはこのときの選考は大きな問題とはならなかった。 |
| これらの選考は毎回のように物議をかもしたが、女子マラソンを世界屈指の強国に育てあげた功績は大きい |
| 陸上競技と五輪に情熱をささげ続けた生涯だった。 |
| 特に長年に渡り強化を推し進めた「マラソン日本」の礎を築いた。 |
| 小掛の通夜に参列した高橋尚子は、「シドニーの金メダルは小掛さんの情熱と信念があったから取れたと思います」と涙ながらに語った |
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1948年
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広島県立上下高校からジャンパーの歩みが始まる |
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1955年
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大昭和製紙入社後は才能が開花 |
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小掛照二さんについてのひとこと紹介
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