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つながりの強いひと
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桂太郎
日本の武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。諱は清澄(きよずみ)元老井上馨とは義理の親子の... |
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伊藤博文
日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(... |
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井上馨
日本の武士・長州藩士、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。元老桂太郎陸軍大将とは義理の親子の... |
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津田梅子
明治の教育者。日本の女子教育の先駆者と評価される。初名はうめ(「むめ」と書いた)で、1902年に漢字表記に改めて「梅子」とした。 |
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後藤新平
後藤新平(ごとうしんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日)-昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。伯爵(明治39年... |
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小村欣一
息子
大正・昭和初期の外交官、貴族院議員、華族(侯爵)。 |
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高橋是清
日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任:1921年(大正10年)11月13日-1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次(わき... |
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寺内正毅
日本の陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は勲一等。功級は功一級。爵位は伯爵。「&x5167;」の異体字を用いて寺内正毅とも表記される... |
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加藤高明
日本の外交官、政治家。外務大臣(第16・19・26・28代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。位階は正二位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。学... |
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平田東助
日本の明治・大正期の官僚・政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。山縣有朋の側近としても有名。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に推進... |
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東郷平八郎
日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。階級位階勲等功級爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 |
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曾禰荒助
曾禰荒助(そねあらすけ、嘉永2年1月28日(1849年2月20日)-9月13日)は日本の政治家。 |
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富井政章
日本の法学者、教育者。法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、帝国大学法科大学長、貴族院勅選議員、枢密顧問官等を歴任。法典調査会民法起... |
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若槻禮次郎
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。旧姓は奥村。幼名は源之丞。号は克堂。新字体にて若槻礼次郎(わかつきれいじろう)と表... |
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犬養毅
日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣... |
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陸奥宗光
幕末から明治時代の武士、政治家、外交官。カミソリ大臣と呼ばれ、外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之... |
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清浦奎吾
日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。幼名は普寂(ふじゃく)。旧姓は大久保(おおくぼ)。貴族院議員、司法大臣、農商務大臣... |
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湯川秀樹
日本の理論物理学者である。京都府京都市出身。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的... |
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プロフィール
- 小村壽太郎とは
- 経歴
- 顔や体格に関する逸話
- 父親の借金と妻
- ポーツマス条約
- その他
- 栄典
- 伝記
- 演じた俳優
- 関連項目
- 関連サイト
小村壽太郎(こむらじゅたろう、安政2年9月16日(1855年10月26日)-1911年(明治44年)11月26日)は、明治の外交官、政治家。 外務大臣、貴族院議員などを務めた。侯爵。 小村寿太郎とも表記される。初代拓務次官の 小村欣一は長男。
経歴
| 安政2年(1855年)9月16日、日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市のほぼ全域および宮崎市南部)の下級藩士・小村寛平と梅子の長男として生まれる。 |
| 明治3年(1870年)、大学南校(東京大学の前身)に入学。 |
| 第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学し、法律を学んだ。 |
| 帰国後は司法省に入省し、大審院判事を経て外務省へ転出。 |
| 陸奥宗光に認められて清国代理公使を務めた。 |
| 日清戦争の後、駐韓弁理公使や外務次官、駐米・駐露公使を歴任。 |
| 1900年(明治33年)の義和団の乱では、講和会議全権として事後処理にあたった。 |
| 1901年(明治34年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任。 |
| 1902年(明治35年)、日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込む。 |
| その功により男爵を授けられる。 |
| 日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。 |
| ただし、その後にアメリカの鉄道王・ハリマンが満洲における鉄道の共同経営を提案(桂・ハリマン協定)したのを首相や元老の反対を押し切って拒否した件については評価が分かれる。 |
| 日露講和条約締結の功により伯爵に陞爵。 |
| 1908年(明治41年)成立の第2次桂内閣の外務大臣に再任。 |
| 幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉を行う。 |
| 1911年(明治44年)に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。 |
| 日露協約の締結や韓国併合にも関わり、一貫して日本の大陸政策を進めた。 |
| 韓国併合の功により侯爵に陞爵。 |
| 同年の桂内閣総辞職に伴い政界を引退するも、同年11月26日、結核療養のために滞在していた葉山町の別荘にて死去。 |
| 墓所は東京都港区の青山霊園にある。 |
顔や体格に関する逸話
| 小村は小柄で頭が大きく、鼻の下から口の辺りに両端の下がった貧相な髭を生やして顔は「やつれ相」で目はくぼんで頬は落ち、眉は太めで垂れ下がり、すばやい行動力などから、人にある種の小動物を連想させずにはおかず、北京では口さがない外交団から「ねずみ公使」(ラット・ミニスター)と仇名され、同朋からは「小村チュー公」と呼ばれたという(金山宣夫『小村寿太郎モーレツ人間の光と影』)朝倉治彦三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店平成8年2月、P400の3段。 |
| 海軍大臣の西郷従道は小村に「その身体で外国人の中にまじったら、子どものように思われましょう」と言った。 |
| 小村は「大丈夫です。 |
| 私は日本を代表して行くのですから、日本は小さくても強いですからね」と答えたという(金山宣夫『小村寿太郎モーレツ人間の光と影』)朝倉治彦三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店平成8年2月、P400の3段。 |
| 李鴻章と対面した際、巨漢の李に「この宴席で閣下は一番小そうございます。 |
| 日本人とは皆閣下のように小そうございますか?」と背の低さを揶揄されたのに対して、「残念ながら日本人はみな小そうございます。 |
| 無論閣下のように大きい者もございます。 |
| しかし我が国では『大男 総身に智恵が回りかね』などといい、大事を託さぬ事になっているのでございます」と切り返したという。 |
父親の借金と妻
| 父親による借財のため、生涯を通じて返済に苦労したと伝わる。 |
| 父親が事業に失敗して作った多額の借金を小村は肩代わりした。 |
| 債権者は次々と役所や小村邸に押しかけてきたが、新婚だった妻が着物を金に変えたり、見るに見かねた有志が債権者全員を集めて一部を帳消しにさせたり、減債基金を設けるなどした。 |
| が、小村は待ち合い通いを続けたため、夫人は赤坂や新橋を歩き回って夫の行っている場所をかぎ出し、散々に当り散らしたという(金山宣夫『小村寿太郎モーレツ人間の光と影』)朝倉治彦三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店平成8年2月、P400の3・4段。 |
ポーツマス条約
| ポーツマスに出発するとき、新橋駅で戦勝を祝う歓呼の人垣に囲まれて見送る首相の桂太郎に、「(自分が)帰って来る時には、人気は丸で正反対でしょう」と言った。 |
| 小村は大国ロシアとの交渉が難航することを最初から予見していたという(金山宣夫『小村寿太郎とポーツマス』)朝倉治彦三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店平成8年2月、P400の4段。 |
| 「ロイター」「タイムズ」が日本寄りのニュースを送っていたことから1905年(明治38年)のアメリカは日本びいきの世論が醸成されていた。 |
| 社交界で揉まれたヴィッテは両国間で秘密とされた交渉途中の内容をアメリカの新聞記者に漏らして恩を売るなど世論工作を繰り広げたが壽太郎は国の代表として秘密を守った。 |
| しかし裏技を行使しても国益を守るべきとする評価も現在では存在する。 |
| ポーツマス条約が結ばれた深夜、ホテルの一室から妙な泣き声が聞こえてくるのを不審に思った警備員がその部屋を訪ねると壽太郎が大泣きしていたのを発見した。 |
| 壽太郎にとってこの条約の調印は苦渋の決断だったと思われる。 |
| 帰国時には怒り狂う右翼団体からさまざまな罵声を浴びせられ、泣き崩れた壽太郎を両脇から伊藤博文と山縣有朋が抱えて首相官邸へ連れて行ったという。 |
| また、日比谷焼討事件や小村邸への投石など暴徒化した国民の影響で妻のマチは精神的に追い詰められ、壽太郎は家族と別居することを余儀なくされた。 |
その他
| 仕事は後世の人間が判断することであるとして一切日記を付けなかったとされる。 |
| ロシア駐在時、暗い室内で膨大な数の書物を読み込み続けたため医者からは「これ以上目を使い続けると失明する」と忠告されたが学習意欲は衰えず書物を読むことを止めなかった。 |
| 小村は40歳を過ぎても公使共に報われず内職の翻訳を行なったりしていた。 |
| だがこの内職が開運のきっかけになった。 |
| この内職で得た紡績の知識を陸奥宗光の前で披露したのである。 |
| 陸奥は小村の才能に感心したが小村は「私は何でも知っています。 |
| ここにいる原敬君ほど私を用いてくれるなら、私も相当のことを致します」と返答したという(金山宣夫『小村寿太郎とポーツマス』)朝倉治彦三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店平成8年2月、P400の4段。 |
栄典
| 1902年(明治35年)2月7日:男爵。 |
| 1902年(明治35年)2月27日:勲一等旭日大綬章。 |
| 1906年(明治39年)4月1日:勲一等旭日桐花大綬章。 |
| 1907年(明治40年)9月21日:伯爵。 |
| 1911年(明治44年)。 |
| 4月21日:侯爵。 |
| 11月26日:従二位。 |
伝記
| 小村寿太郎侯奉賛会企画編『小村捷治骨肉』、鉱脈社(復刻)、2005年、著者は次男。 |
| 岡崎久彦『小村寿太郎とその時代』PHP研究所、新装版2010年1月。 |
| 岡田幹彦『小村寿太郎近代随一の外交家その剛毅なる魂』展転社、2005年。 |
| 吉村昭『ポーツマスの旗外相・小村寿太郎』新潮社(初版1979年)、現・新潮文庫。 |
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1855年
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小村 壽太郎(こむら じゅたろう、安政2年9月... |
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1870年
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大学南校(東京大学の前身)に入学 |
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