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つながりの強いひと
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伏見宮邦家親王
江戸時代、幕末の日本の皇族。伏見宮第20代および第23代。伏見宮貞敬親王の第1王子。幼称は睦宮(まさのみや)。父の貞敬親王は皇位継承候補として名が挙がっ... |
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華族
1869年から1947年まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族(諸侯華族)、国家... |
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法親王
日本の男子皇族が出家して僧籍に入った後に親王宣下を受けた場合の身位・称号。 |
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有馬頼咸
筑後久留米藩の第11代(最後)の藩主。久留米藩有馬家12代。幕末期、久留米藩主としての時期の諱は慶頼(よしより)であるが、本項の記述では明治元年(1868... |
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北白川宮能久親王
幕末・明治時代の皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。 |
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有栖川宮熾仁親王
江戸時代後期~明治時代の皇族、政治家、軍人。筑前国福岡藩第2代知藩事。号は初め「泰山」、後に「霞堂」。有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮(よし... |
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東伏見宮依仁親王
日本の皇族、海軍軍人。伏見宮邦家親王王子。官位は元帥海軍大将・大勲位・功三級。妃は岩倉具定公爵の長女周子(かねこ)。 |
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伏見宮貞愛親王
日本の皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王第14王子、母は鷹司政熙の女鷹司景子。伏見宮第22代および第24代。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級内大臣。 |
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大山巌
日本の武士、政治家、元老、軍人。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活... |
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野口英世
日本の細菌学者。1876年11月9日、福島県生まれ。ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学者として数々の論文を発表し、ノー... |
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閑院宮載仁親王
閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう、慶応元年9月22日(1865年11月10日)-1945年(昭和20年)5月20日)は日本の皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王... |
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山階宮晃親王
日本の皇族。伏見宮邦家親王の第一王子。勧修寺宮済範親王。二品。 |
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徳川慶喜
江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年‐1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職... |
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品川弥二郎
日本の武士(長州藩士)、政治家。勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。 |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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岩倉具視
贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。 |
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華頂宮博経親王
日本の皇族、海軍軍人。官位は議定会計事務総督海軍少将。徳川家茂の猶子。伏見宮邦家親王第十二王子、母は家女房堀内信子。華頂宮を創設した。幼少時の称号... |
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李垠
初代大韓帝国皇帝高宗の第7男子。母は純献貴妃厳氏で純宗の異母弟。同国最後の皇太子であり、日本の王公族、李王。大韓帝国時代の称号は英親王。 |
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榎本武揚
江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。 |
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三条実美
日本の公卿、政治家。位階は正一位。勲等は大勲位。爵位は公爵。号は梨堂(りどう)。新字体で三条実美(さんじょうさねとみ)と表記されることもある。右大... |
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プロフィール
- 小松宮彰仁親王とは
- 経歴
- 年表
- 小松宮家
- 血縁
- 外部リンク
- 関連サイト
小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう、弘化3年1月16日(1846年2月11日)-1903年(明治36年)2月26日)は日本の皇族。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。 伏見宮邦家親王第8王子である。妃は、旧久留米藩主 有馬頼咸の長女頼子で、頼子妃の母(嫡母)は 有栖川宮韶仁親王王女、有馬韶子。
経歴
| 安政5年(1858年)、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任した。 |
| 慶応3年(1867年)、復飾を命ぜられ仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王と名乗る。 |
| 明治維新にあっては、議定、軍事総裁に任じられた。 |
| 戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。 |
| 明治3年(1870年)に宮号を東伏見宮に改める。 |
| 1874年(明治7年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、1877年(明治10年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。 |
| 1881年(明治14年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。 |
| 翌1882年(明治15年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。 |
| 親王は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範した。 |
| 1890年(明治23年)陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。 |
| 1898年(明治31年)に元帥府に列せられ元帥の称号を賜る。 |
| 国際親善にも力を入れ、1886年(明治19年)にイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。 |
| また、1902年(明治35年)、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席した。 |
| 社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。 |
年表
| 弘化3年(1846年):降誕。 |
| 安政5年(1858年):親王宣下・嘉彰親王。 |
| 入寺得度・純仁と号す。 |
| 慶応3年(1867年):王政復古・復飾を命じられる。 |
| 明治元年(1868年):軍事総裁、海陸軍務総督、軍防事務局督、軍務官知事、会津征討越後口総督。 |
| 明治2年(1869年):兵部卿、辞職。 |
| 明治3年(1870年):東伏見宮、イギリス留学、議定。 |
| 1873年(明治6年)帰国、陸軍少尉。 |
| 1874年(明治7年):佐賀の乱。 |
| 1876年(明治9年):陸軍戸山学校長、兼議定官。 |
| 1877年(明治10年):東京鎮台司令長官、新撰旅団司令長官。 |
| 1878年(明治11年):東部検閲使。 |
| 1880年(明治13年):陸軍中将・近衛都督。 |
| 1882年(明治15年):小松宮と改める。 |
| 大勲位菊花大綬章。 |
| 1886年(明治19年):欧州差遣。 |
| 1887年(明治20年):帰国・近衛都督。 |
| 1890年(明治23年):陸軍大将。 |
| 1891年(明治24年):近衛師団長。 |
| 1893年(明治26年):兼議定官。 |
| 1895年(明治28年):参謀総長、日清戦争征清大総督、大勲位菊花章頸飾。 |
| 1898年(明治31年):元帥・日清戦争征清大総督辞職。 |
| 1902年(明治35年):英国国王戴冠式差遣。 |
| 1903年(明治36年):薨去、国葬。 |
小松宮家
| 小松宮は一代で断絶したが、北白川宮能久親王第4王子の輝久王(てるひさおう)が1910年(明治43年)7月20日に臣籍降下し、小松輝久侯爵となって小松宮家の祭祀を継承した。 |
外部リンク
| 小松宮彰仁親王御夫妻の写真アルバムhttp://yushodo.co.jp/pinus/61/meijiphoto/photom2.html。 |
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1846年
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小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんの... |
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1858年
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仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け純仁親... |
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