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つながりの強いひと
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佐ノ山
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プロフィール
- 小錦八十吉とは
- 来歴
- 入門〜「ハワイの黒船」
- 大関昇進
- 大関陥落後
- 現役引退
- エピソード
- 減量
- 略歴
- ミュージシャンとしての活動
- 関連サイト
小錦八十吉(こにしきやそきち、本名同じ、1963年12月31日-)は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身で高砂部屋所属の元大相撲力士、株式会社ケーピー所属のタレント。旧姓は塩田、米国籍時代の名はSaleva'aFuauliAtisano'e( サレバ・ファウリ・アティサノエ)、愛称はサリー。関取時代の体格は身長187cm、体重275kg(最重量は285kg)、血液型はAB型、星座は山羊座。得意手は突き、押し。最高位は大関。横綱を含む幕内力士としては3人目の小錦、十両以下を含めては6人目の小錦である。生粋のハワイアンではなく、両親はサモアからの移民(ただしポリネシア人の身体 形質・言語上の同質性は極 ...
来歴
| 元大関で現役引退後は当初、年寄・佐ノ山を襲名し高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、人気者だったため、タレントに転向。 |
| 旧芸名は四股名をローマ字にした「KONISHIKI」であった。 |
| 「小錦八十吉」は高砂部屋の由緒ある四股名であり芸名としての使用は許可されなかった。 |
| その代わり、ローマ字の「KONISHIKIは?」と聞かれて、ローマ字ならOKと許可が下りた。 |
| なお、この時点での名字は「塩田」であり、「小錦」と改姓したのはその後、前妻と離婚し再婚した後である。 |
| 芸名としては認められなかったが本名としては認められた。 |
| しかし、2010年5月に今後はハワイアン歌手としての活動を除き、本名の小錦八十吉名義で活動することを自身のブログで公表した |
入門〜「ハワイの黒船」
| サモア系移民の家庭に生まれ、貧しいながらも敬虔なクリスチャンである厳格な両親の元で育てられた。 |
| 高校時代はアメリカンフットボールや重量挙げで活躍した。 |
| 本人は弁護士を志していたようだが、髙見山にスカウトされて昭和57年高砂部屋に入門。 |
| 初土俵は同年7月場所。 |
| 新弟子検査では体重計の目盛を振り切ってしまい、急遽もう1台用意して脚を片方ずつ乗せて測定(1台では150kgまでしか測れなかった、105kg+70kgと記録されている)したり腕が太すぎて血圧計が使えないなどの破格振りを示した。 |
| 入門すると高砂親方(元横綱朝潮)に押し相撲の基礎を教え込まれる。 |
| 若い頃は髙見山に稽古をつけられ言葉や習慣の違いについても相談相手になってもらうなどいろいろと世話になったという。 |
| また、水戸泉もよき理解者で、水戸泉が優勝した場所では自ら優勝旗手を務めた。 |
| 小錦も昇進後は後輩の外国出身力士の面倒をよく見たといい、部屋の後輩南海龍の酒癖を大層心配して、飲みに行った際南海龍が席を立った隙に酒とウーロン茶をすり替えてしまったというエピソードなどが伝わっている。 |
| 後の横綱武蔵丸は入門当初から目をかけられており、ウエイトトレーニング器具を買ってもらうなどしたこともあるという。 |
| 入幕2場所目の1984年(昭和59年)9月場所、前頭6枚目の地位で千代の富士、隆の里から金星を奪うなど上位陣をなぎ倒し12勝3敗、殊勲賞と敢闘賞を獲得し「黒船来航(襲来とも)」「小錦旋風(台風とも)」と恐れられた(千秋楽で大関琴風に敗れたため13勝2敗の平幕多賀竜が優勝した)。 |
| この頃が最強だったという見方は根強い。 |
| また、この場所で小錦に一方的に敗れたのに発奮した千代の富士は稽古に励んで低迷を脱しており、千代の富士が優勝31回の大横綱となる上で小錦が与えた衝撃は大きな役割を果たしている。 |
| 一方で、その猪突猛進な取り口や地元紙のインタビューで発言したとされる「相撲は喧嘩だ」発言(「相撲はファイト」と言ったのが誤解されたという)等の過激な発言も「品格に欠ける」として一部で物議を醸し、他、小坂秀二に至っては「小錦は二場所連続優勝でも横綱にすべきではない」と雑誌の連載で表明していたほどであった。 |
| 1986年(昭和61年)1月場所小結で10勝、3月場所同じく小結で12勝を挙げ、大関を懸けた5月場所(この場所は関脇)、当時大関の北尾との対戦で取り直しの一番で小錦がつり上げようとした所で北尾が鯖折りをかけ、両者合わせて400kg以上の体重が小錦の右膝に集中、耐えきれずに骨折した。 |
| その後もこの負傷はついに完治せず後遺症に苦しんで、好不調の波が大きくなり、大相撲史上最重量のその身体(当時約240kg)をむしろ持てあますことが多くなった。 |
| プッシュ戦法がツボにはまれば無敵だが、一歩間違うと驚くほどもろいという土俵の繰り返しだった。 |
| 膝の故障でどうしても稽古を減らさざるを得ず、それが体重を増やし余計に膝を悪化させる悪循環になったという。 |
| なお、それから一年後の1987年(昭和62年)3月場所では、当時気鋭の大関であった北天佑との対戦で、皮肉にも北天佑の膝にのしかかる形で致命的な負傷を負わせている。 |
| 取り直しの一番では、北天佑が膝のケガを痛がっているのを察し、ケガを庇いながらそっと寄り切るという内容で勝利、翌日から北天佑は休場した。 |
大関昇進
| 1987年5月場所後に小錦は念願だった大関昇進を果たし、外国出身力士としては史上初めての大関誕生となった(同時に大関北勝海も横綱に昇進)。 |
| それから横綱を期待されたものの、膝の故障の影響で1988年(昭和63年)9月場所は3勝12敗という大敗を喫し、その直後には面倒を見ていた弟弟子の南海龍が飲酒をめぐるトラブルから廃業し、師匠の高砂親方が死去するなど身辺でも不幸が相次いだ。 |
| 1989年(平成元年)9月場所にも5勝10敗と負け越し。 |
| しかし次の11月場所は絶好調、初日から8連勝して角番脱出、12日目に北勝海に敗戦となり連勝は11でストップしたが、最後まで優勝を争った千代の富士には、13日目の直接対決で勝利する。 |
| そして千秋楽では琴ヶ梅に勝って14勝1敗、ようやく悲願だった幕内初優勝を果たした。 |
| 小錦は髙見山に次いで、史上2人目の外国出身の優勝力士となった。 |
| 初優勝を決めた瞬間、小錦は勝ち残りの土俵下で思わず涙を流した。 |
| 当時のマスコミはその小錦の涙を「歓喜にむせぶ男泣き」と報道したが、実はそれは嬉し泣きではなかった。 |
| 小錦は引退後に「なぜもっと早く優勝できなかったのか」と、余りの悔しさで思わず泣いてしまったのだ、と説明していた。 |
| このコメントは有名なエピソードである。 |
| 千代の富士が引退した1991年(平成3年)から安定期を迎え、同年5月場所から翌1992年(平成4年)3月場所にかけて6場所で75勝15敗の好記録を残した。 |
| 1991年11月場所は13勝2敗で優勝。 |
| 翌1992年1月場所は12勝3敗、さらに次の3月場所は13勝2敗で優勝。 |
| この成績でも横綱にさせてもらえなかった。 |
| 3月場所後、「自分が横綱になれないのは人種差別があるからだ、もし日本人ならとっくに横綱になっているはずだ」という趣旨の記事がニューヨーク・タイムズに掲載された。 |
| また、日本経済新聞にも「小錦が横綱になれないのは、人種差別のせいだ。 |
| 」といった趣旨の記事が掲載された。 |
| これらの件に関し、小錦はニューヨーク・タイムズの記事については小錦自身では無く、自身の付き人である幕下力士・高竜(ハワイ出身)が電話で答えたものであり、日本経済新聞の記事についても「人種差別とはいっていない」と弁明した。 |
| しかし、これらの新聞記事の掲載対象となった発言が小錦自身によるものではないかという疑惑からバッシングが発生し横綱どころではなくなり、兎にも角にも謝罪する事態に至った。 |
| ただし、体重が重すぎて安定期が短かったため、仮に横綱になれたとしても横綱としての地位を守れるほどの実力があったかについては大いに疑問視されており、むしろ横綱になれなかったからこそ、名大関として名を残せたのではないかという意見が一般的である。 |
| その後はショックの影響もあったのか、翌5月場所以降は成績が下降し、最後まで優勝争いに加わることは無くなった。 |
| そして1993年(平成5年)9月場所で蜂窩織炎による高熱のため途中休場、同年11月場所に角番で6勝9敗と、2場所連続で負け越したために、ついに在位39場所で大関の座から陥落してしまった。 |
| その陥落が決まった同場所13日目の対戦相手は、奇しくもハワイ出身の後輩だった当時横綱の曙であった曙は「先輩の大関陥落が決まる日に当たりたくなかった。 |
| 余りに辛い恩返しです」と語った。 |
| 晩年には突っ張ろうにも足が出なくなっていたため、威力がなく前に落ちやすいので、相手を捕まえて自分の正面に固定して少しずつ運ぶという取り口になっていた。 |
| 10勝以上の場所は33場所と、最高位が大関の力士としては魁皇の35場所に次ぎ、歴代横綱と比しても中位に位置する。 |
| 優勝も3回と、戦後大関の中でも最も強い部類に入る。 |
| しかし膝の負傷以降、万全でない場所での大負けがあり、大関時代の勝率では、小錦の.637に対して、同時代の霧島のほうが大関在位は短い(16場所)ながら.647とわずかに上回っている。 |
| また、後年の魁皇は、大関在位場所数、優勝回数などで小錦を上回っているものの、勝率では.615と小錦を下回っている。 |
大関陥落後
| 翌1994年(平成6年)1月場所、関脇の地位で10勝以上の成績を挙げれば大関に復活できたが、初日から8連敗でストレートの負け越し決定、結局2勝13敗に終わり皆勤場所では自己ワーストの成績となってしまった。 |
| 次の同年3月場所は、1986年9月場所以来7年半ぶりの平幕(前頭9枚目)に下がったが、8勝7敗と4場所振りに勝ち越しを決めた。 |
| その後平幕上位に復活することは何度かあったものの、三役(関脇・小結)以上への復帰は果たせなかった。 |
| それまで大関時代の小錦はどちらかと言えば、若貴兄弟、琴錦ら後進(特に大関候補)に対する憎まれ役を演じ続けていた。 |
| しかし大関を陥落してからその後、さらに幕尻近くまで落ちても現役に執着するその姿は、最盛期にも勝る人気を得た。 |
| 特に同じく大関を陥落していた霧島との対戦は小錦の突っ張りか霧島の投げか、目が離せないほどのライバル関係にあり、それは北の湖と輪島に似たものがあった。 |
| その良きライバルの霧島との幕内成績は、38回対戦して19勝19敗の全くの五分であった。 |
| 今でも霧島(現・陸奥親方)とは大の仲良しである。 |
| また、ハワイ出身の後輩であり横綱に昇進した曙と武蔵丸は、新弟子時代から小錦を大変尊敬していたそうである。 |
| さらに、舞の海との体重差約200kgの異色対戦も、大きな話題になった。 |
| その後、舞の海は2場所連続休場して平幕から十両に陥落するも、1997年(平成9年)5月場所で舞の海が幕内に復帰した時、ずっと心配していた小錦は自分のことのように喜んだという。 |
| 前頭2枚目まで復帰した1997年(平成9年)9月場所の11日目横綱貴乃花戦では、その場所全敗(蜂窩織炎による5日間の途中休場分も含む)していたものの、立合いと同時に貴乃花を押し込み、土俵際まで追い詰めた。 |
| しかし貴乃花の土俵際からの上手投げに小錦は思わず横転し、惜しくも金星獲得を逃したものの、館内は敗れ去った小錦に万雷の喝采を送っていた。 |
| 引退前には怪我のため痛み止め薬を一日10錠も飲んでいたが、これが災いし出血性胃潰瘍を発症、巡業先のホテルで大量に下血。 |
現役引退
| そして幕尻に近い東前頭14枚目で迎えた1997年11月場所、本人はこの場所限りで勝ち越しても引退することを決め、千秋楽にはハワイにいる家族を呼び寄せる予定でいたという。 |
| 13日目に琴の若に敗れて負け越しが決まると、取組後に高砂親方(元小結富士錦)の所に報道陣が殺到したため、親方が今場所限りでの小錦の現役引退を示唆してしまう。 |
| 小錦本人は千秋楽まで土俵に上がる意向だったものの、「死に体で土俵に上がることはできない」という境川理事長(元横綱佐田の山)の意見により、千秋楽を待たず14日目の不戦敗を最後に引退することになった。 |
| 元大関の栃東は小錦が千秋楽の土俵に上がった時に花束を渡そうと考えていたことをスポーツ紙に明かしたが前述の理由より実現できなかった。 |
| 現役引退後は、取得していた年寄株を使用して年寄「佐ノ山」を襲名、しばらく高砂部屋付きの親方として相撲協会に残ったが、1998年7月場所を以て短期間で退職した。 |
| 2007年6月まで、東京新聞夕刊紙上にて「この道」を執筆、横綱昇進問題や南海龍事件など現役時代のエピソードを含めた自分史を自ら語り、今後の進路として音楽プロデューサーの道を歩むことを明かした。 |
エピソード
| 幕内に昇進した当時、(小錦よりは)体格が小柄な大錦という力士がおり、対戦時には「大きな小錦と小さな大錦」等と紹介されることもあった(ただし身長は大錦が186センチと小錦より2センチ大きい)。 |
| 1998年(平成10年)5月場所後の引退相撲では、小錦最後の取組が行われ、その対戦相手は小錦らと同じ「花のサンパチ組」の寺尾だった。 |
| 小錦が現役最後の場所となった1997年11月場所、千秋楽の対戦は寺尾と一旦決まっていたが、先述の通り境川理事長の「死に体で土俵に上がるのは許されない」という理由により、14日目の三杉里戦は不戦敗、千秋楽の寺尾戦は割り返されて幻となってしまった。 |
| 風雲たけし城の「コニシキ君」、漫画『スクラップ三太夫』の「スモウロボ」、『武天のカイト』の「ビッグ・ダディ」、『ああ播磨灘』の「富嶽」など小錦をモデルとする、モデルとすると思われるキャラクターは多い。 |
| ゴルフをした時に最初はゴルフシャツを着ていたが、途中で日焼けの痕が残ることを気にして裸になってプレーした(「クイズダービー」第597回(1987年7月4日放送分)の5問目より)。 |
| 2009年6月22日にゲスト出演した日本テレビ系列おもいッきりDON!にて、自身の宝物として、カール・ルイスのサイン入りNIKE製の陸上競技用スパイクを披露し、1991年の世界陸上東京大会にて、9.86の世界新記録を達成したスパイクを、その場で頂いたものである説明した。 |
| 当時、ミズノ社が行ったスパイク開発をNHKのプロジェクトX〜挑戦者たち〜の第8回放送「カール・ルイスの魔法の靴超軽量シューズ・若手社員の闘い」にて特集している。 |
減量
| 、3か月で70kg減量し230kgになったNTVで2008年6月に放送した『Touch!eco2008明日のために…55の挑戦?スペシャル』内で、300kg台の時には腹部がじゃまになり自分で靴を履くことができず他の人に履かせてもらっていたが230kgになり自分で靴を履けるようになった様子が放送された。 |
略歴
| 1992年3月場所-4人による優勝争い、千秋楽に2敗同士の大関霧島との相星決戦を寄り倒しで下して3度目の幕内最高優勝(13勝2敗)。 |
ミュージシャンとしての活動
| アメリカのクリーヴランドを本拠地とするラップグループ、ボーン・サグズン・ハーモニー(:en:BoneThugsnHarmony)のメンバー、レイジー・ボーン(LayzieBone)を迎えた楽曲「リビン・ライク・キングス」ではラップを披露している。 |
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1963年
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小錦 八十吉(こにしき やそきち、本名同じ)... |
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1982年
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場所髙砂部屋入門、初土俵 |
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投票数
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小錦八十吉さんについてのひとこと紹介
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