| 大永年間には祖父の命を受け、伯耆守護代として伯耆守護の山名澄之を監視する任に付く。 |
| 享禄4年(1531年)、謀反を起こした叔父である塩冶興久に味方した備後山内氏を討伐すべく遠征している。 |
| 他にも三沢・多賀・山内氏討伐へと出陣している。 |
| また、塩冶興久の乱以降は、大内氏家臣陶興房が享禄3年(1530年)5月28日に記した書状では、興久・経久の両者から支援を求められ、最終的には大内氏は経久を支持していることが分かっている。 |
| これにより祖父経久の代には仇敵であった大内氏とは和睦しており、これも当時北九州で大内氏が苦戦していた為と思われる。 |
| 享禄5年(1532年)には美作へ侵攻しこれを確保すると、備前を攻略する。 |
| 当主となった翌、天文7年(1538年)には、大内側であった石見銀山を攻略し、更には因幡を平定した後に播磨へと侵攻して前記三ヶ国の守護・赤松晴政に大勝する。 |
| 天文8年(1539年)には龍野城を落城させ、播磨にまでその勢威を拡大した。 |
| この上洛戦は、大友義鑑が画策した将軍足利義晴の入洛を名目とする大内包囲網の一翼を詮久が担ぎ、更には足利義晴から御内書の発給を求め、それを貰い受けている。 |
| 当時幕府は石山本願寺と対立していたこともあり、大内氏・尼子氏等の勢力に救援を兼ねた上洛要請をしていた為、これに詮久は便乗する形で上洛そのものが目的というより、国人衆の統制を強化すると共に、近隣にその存在感を誇示するための遠征であり、将軍の上洛要請を名義として北九州に兵力を割かれていた大内氏への牽制でもあった。 |
| 同時期において、詮久は備後国衆である宮氏・渋川氏を従属させ大内氏への圧力を強化している。 |
| 安芸国においても、安芸武田氏・吉川氏と連絡を取り、影響力を強める。 |
| そして、別所就治の三木城攻略に取りかかり、別所氏が尼子方に付いた為に晴政は堺へと逃亡している。 |
| これにより、詮久は上洛する構えを見せたが、一度出雲に撤退している。 |
| これは大内包囲網の中心であった大友義鑑が、大内氏と和睦し、大内包囲網が瓦解したからだと思われる。 |
| 同年には、安芸武田氏当主の武田信実が大内氏の攻撃を受けた為、詮久は援兵を派遣するも佐東銀山城が落城。 |
| 信実は一時若狭へと逃亡している。 |
| これにより享禄3年(1530年)以降、表面上和睦関係にあった大内氏との関係は破綻した。 |
| 天文9年(1540年)、大内義隆に属していた安芸の有力国人・毛利元就を攻める。 |
| 『陰徳太平記』には、このとき祖父の経久はこの遠征に反対したが、血気にはやる詮久は遠征を強行したと記述がある。 |
| しかし毛利攻めの直前には、石見の小笠原氏や福屋氏、安芸の吉川氏や安芸武田氏、備後の三吉氏など、多数の有力国人を味方につけており、周囲の形勢は尼子氏に有利に展開していた。 |
| また、実際に戦闘が始まってからも、安芸武田氏の奮戦により大内氏の援軍は遅延し、さらには大内氏の援軍を迎え撃ち、毛利氏との合流を遮断するため、本陣を甲山から青山三塚山に移す等、巷間言われるほど稚拙な戦いを展開したわけでは無かったが、兵力で大きく勝りながらも小競り合い程度で積極的攻勢に出ることはなく、元就率いる毛利軍の徹底した吉田郡山城における籠城戦法と、援軍として駆けつけてきた陶隆房率いる大内軍に大敗を喫し、大叔父の尼子久幸を失った(吉田郡山城の戦い)。 |
| この毛利攻めを開戦した理由として「後顧の憂いを断つ為」とあるが、後顧の憂いを断つならば東部方面の赤松氏に侵攻する以前に、背後に居る毛利氏を叩く方が自然である。 |
| 一説には、三木城を攻略した後、大内氏が少弐氏を滅ぼし、大友氏と和睦したため、安芸尼子方の城を攻略し始めた為に、なし崩し的に安芸への遠征を強いられた、とする意見もある。 |
| 更には、大内氏の援軍を食い止めるべく奮戦した安芸武田氏の士気が旺盛だったことを見るに、この毛利攻めは安芸武田氏当主の武田信実が、前年に安芸を追われたことや、山陰山陽で勢力を著しく拡大する尼子氏を頼って大内・毛利攻めを促したものと推測される。 |
| 結局、尼子氏を頼りにしていた安芸武田氏は、詮久の敗走により大内氏らの攻撃を受けて滅亡し、祖父・経久が天文10年(1541年)に死去するという不幸も重なって、尼子家勢力下の国人領主が大量に大内氏へ寝返ったため、危機的状況に陥った。 |
| 同年、将軍・足利義晴から「晴」の一字を賜って、晴久と改名する。 |
| これは吉田郡山城の戦いにて失墜した自らの権威を回復するための行動だったと思われる。 |
| また、この時期には備中・美作へ自ら出陣し、美作三浦氏・中村氏らを攻撃している。 |
| これらも周囲の国人衆への統率強化を図る一連の動作に含まれる。 |
| 天文11年(1542年)には、大内義隆率いる大内軍の侵攻を受けた(第一次月山富田城の戦い)。 |
| しかし、尼子勢の徹底抗戦により戦いは長引き、大内軍はしだいに疲弊したため、寝返っていた国人衆は動揺し、再び尼子方へと復帰した。 |
| この国人衆の再度の寝返りにより戦況は完全に逆転し、大内軍は撤退を開始したが、混乱の中で大内義隆の養嗣子・大内晴持が事故死し、尼子軍に追撃された小早川正平は戦死、毛利元就も九死に一生を得るほどの損害を受けた。 |
| また、この時には勢いに乗り、失地した石見東部を取り返し佐波氏を大内所領に追放している。 |
| 以後は失った勢力の回復に尽力し、大内氏に与した一族の尼子清久は粛清、出雲国造千家氏は退転、河津氏・宍道氏・神西氏・多賀氏・佐波氏は惣領を追放処分、三沢氏は出雲国横田荘などの領地を削減、直轄化とされた。 |
| また、雲南地域砂鉄の産地や流通を押さえるなどして出雲の支配体制を強化し、本国出雲を中心として、伯耆・美作・隠岐を基盤に、周辺地域へ侵攻し、勢力を更に拡大しようとする。 |